紺洲堂書店・コンテンツ紹介
右端の日付は作品公開日、数字は作品No.です。


オリジナル小説


青い砂漠
01年06月01日:No.01
この作品は、記念すべき紺洲堂書店掲載の処女作である。
これは書き手である、紺洲堂主人(以下主人)の思想が十分伝わってくる作品で、
初作にして代表作とも言えるだろう。

この作品を最初に読んだ上でその他の作品を読むのと、読まずに他の作品を読むのとでは、
大きな印象の違いがあるのではないだろうか。

黄色い街
01年07月15日:No.02
前編・後編の2部より成る。
書店の2作目。
主人は、常に一つの作品の中で一つの主張をすることが好きで この作品にもそういう意図が込められている。

またその意図を読者に伝えるために、好んで暗喩を作品の中にちりばめるが、
この作品では、その技量も荒く「伝えよう、伝えよう」という わざとらしさも感じられるところが否めない。

しかしこれも、現在の作品のための糧となっていることだろう。

オレンジ・オレンジ
01年09月12日:No.04
主人にしては珍しい、一発ギャグを狙ったショートショート。
この時期の主人に、きっと何かしらの心境の変化が会ったのではないだろうか<適当

地下3m
02年03月08日:No.08
主人が、この作品のその後をどう考えているのかわからないが、 意図的にストーリーを打ち切り、その先の展開はまったくの読者の自由に任されている。
しかし、この作品ではもっと大きなストーリーの展開を考えて作品を書き始めたが、収拾がつかなくなった感が強い。

いや、主人のことだからきっとそうだ。そうに違いない。

・・・・ま、僕の想像ですが。

02年10月31日:No.10
初っ端から余談だが、主人はこの作品の執筆後に突然ブランクに入ってしまった。
今から考えると、この主人公たちのように、心に「穴」があいてしまったのかも知れない。

そんなことは知る由もないが・・・


もう一度、
ダイスを振ってください
04年07月01日:No.14
主人の新展開作品。
これには暗喩が非常に多用されているので、読み返すごとに新たな発見があるかもしれない。
まず気が付くことは、理不尽な人事部長である。
また理不尽であるばかりか、よく読んでみると全く言っていることに筋が通っていない。
しかし、これこそは主人の意図するものである。
ここから、主人が何が言いたいを読み取っていただければ幸いである。

また主張の内容はこれだけではない。
あなたなりの解釈を、十分に楽しんでもらいたい。

ニモノコキクシハシ
04年10月06日:No.15
唐突に、首脳人たちによる会議の場面から始まる。
どうも立場の強い国が、弱い国に対して何かを要求しているらしい・・・。

人類の歴史は戦争の歴史。
そんな会談の様子は、地球でも何回繰り返されてきたのだろうか。
ところがこの作品では、地球よりも大きなスケールの話であった。
現実問題として、将来このようなことが起こるのだろうか。

実はこの作品、編集長boominの横槍で後半部分がごっそりと削除されている。
そのほうが、boomin自身は作者である紺洲堂主人の持ち味がよく
生かされると思ってのことなのだが、果たして本人はどう思っているのだろうか・・・?

シェアクラブ
04年11月30日:No.16
なんというんですかね。
こういうのがいいな、って思えるのは大抵、落ち込んでるときですよね。
落ち込んでるからこそ、その悲しい気持ちを他人に分散させたい・・・

というのは誰でも一度は考えたことはあるんじゃないでしょうか?
当「シェア・クラブ」はそんなあなたの悩みを解決します。

が、僕は反論したいですね。
感情って起伏があるから、楽しいと感じたり悲しいと感じるんですよね。
逆に言うと、悲しいことがなければ楽しいことなんかあるわけがない、
と編集長boominは思うわけです。

昨今、感情の自制が効かなくなって、犯罪に走ってしまう少年事件が
多く報道されていますが、もし「シェア・クラブ」があったら、
減るのかな、とも感じました。

でも、僕は入りたくないですね。

とっっかえて
05年03月27日:No.17
前作「シェア・クラブ」の雰囲気をかなり引き継いでいる。

この作品で面白い観点だな、と思うのは「勝手に」「ランダムに」
他人と立場をとっかえてしまう点だ。

昔からなりない人になるような、空想を描写した小説の類は
星の数のようにある。
あるいはなりたくない立場(動物とか)になってもがき苦しむような作品も、
上記のものほどではないにしろ数多く存在する。
しかし大概、主人公のみの立場が入れ替わるだけだ。

こうシステマティックに、人物が入れ変わるような世界観を突然出されると、
なぜか他人事に思えないから不思議だ。
ただ、自分だけが誰かと入れ替わる・・・ような空想は 誰しもが経験していると思うのだけど、
そこに意思が入ってこないのはやはり恐怖だと思う。

しかしこれを読んでいて、ふと疑問に思ったことがある。

主人公自身の姿は何で変わっていなかったのだろうか?

ま、主人のことだから適当に言い訳しそうな気がしますが(笑。

マジサイ!

第1話
05年05月02日:No.18
紺洲堂主人がなんと、学園ものに挑む(ぇ。


舞台は神ヶ丘魔術学園。
主人公の素子はいつものように寝坊し、学校に向かうが・・・・
と、主人のオリジナル小説を読んでいる限り、
こんな物も書くのかと少々驚かされる。
第1話は導入編、軽く読み流してくれればいいかと思う。

ちょっと裏話を紹介させてもらうが、この神ヶ丘魔術学園は
編集長boominと紺洲堂主人が、ともに通った中学校がモデルとなっている。
boominは中学生当時、敵をバッタバッタと魔法でなぎ倒す
スーパー中学生だったことを付け加えさせていただく。


ひとつ突っ込ませてもらえば、バスは基本的に、遅延証明は出してくれません。
皆さんは遅刻をしないように、余裕を持って出掛けましょう(* ^ー゚)ノ


2065

宇宙港の住人
04年01月27日:No.11
近未来を舞台としたファンタジー。
実はこの作品の主人公のモデルは、ほかならぬ編集長boominである。
boominの研究対象が現在月であることから、boomin自身、
初見では楽しく読ませてもらった。

将来、地球外でコロニーを含む居住基地がいつできるのかわからないが、
このような未来であるなら、僕はそれでもまだ歓迎する。

工場の月
04年04月30日:No.12
作者が暗喩を好んで使うことは冒頭でも述べたが、この作品は特にその傾向が強い。
完璧な生産システムを誇る農業工場が、
・過酷な砂漠環境の真ん中に立っている不自然な自然と人工との対比、
・人工の中に作り出された完璧な自然、
・そして自然の中の人工のはかなさ
を盛り込むという、作者の主張を強く感じることができる。

ここで面白いのは、ここまで自然が大事なんだと思わせるような主張しているわりには、
実はそんなことは一言も触れていないことである。
あくまで客観に終止したこの作品から読み取れることは少なくない。



地図企画

カフェ・アトラス
01年10月15日:No.06
この作品をはじめて呼んだときの印象は
「こんな作品も書けるのか」
であった。というのも、それまでは常に社会の歪みをどこか風刺する作風であったのが、
この作品にそれは感じられない。

人間物語ともいえる、主人の地図企画の作品の出発点にふさわしい。
ただ、ひとつ難をいえば

「この作品はどこかで読んだような気がします」

その意味は作品を読んで頂いた、あなたにならきっとわかるでしょう。


町を消した男
01年10月29日:No.07
主人の人間物語第二弾。(人間物語という表現が適当であるかはわからないが)

「町を消す」言葉そのものの意味をすり替えるという、面白い視点で描かれている。
なんとなくハッピーエンドで終わることが予想できるとはいえ、
主人公:リヒター大佐に思わず同情をしてしまう。
そして予想通りハッピーエンドである(笑。
しかしこの展開を予想できる人は、そうはいないだろう。

オリジナル小説の作風とはかなり違ったものではあるが、
それでもどこか、主人の作品を匂わせるところが不思議だ。


千枚の地図
02年05月07日:No.09
この作品は、編集長boomin一押しのものである。
isas氏など、この作品でイメージ曲まで作曲するほどだ。

軽く暗喩が用いられていることにお気付きになられたことだろうが、
そんなものは数回繰り返して読んだあとに、気付く人だけが気付けば良いと思う。
それ以上に「先生」の人間味がよく生きている。
また最後まで読むと、ああそうか、と思えてしまうところが憎らしい(笑。

おそらくこの作品に共感する人が多いのは、この先生に対するイメージが
「先生」というものに対するひとつの理想像だからだろう。
ある意味、教育職を目指すboominにとっては目指すべき一つなのかもしれない。


館長さんへ
04年05月01日:No.13
この作品は「地図」に特別な意味を持たせているが、
それがよく考えてみればなるほど納得のいく解釈である。
もし自分がどこかの国の支配者であれば、
権力の誇示に地図を使うことを思いつくだろうとことは想像に難くない。
そしてそれを黄金で作るところにも大きな意味があろう。
それだけで誰もがその価値を認め手元に置きたがり、
最終的に取り返せなかったことも仕方がないと思えてくる。

もしあなたが今この作品を読んだのなら、この作品の舞台からその背景までが
何をもってして書かれ、何を意味するかが容易に想像できるだろう。
そしてその解釈は、書き手である主人の暗喩した意図であるに違いない。