一年生の夏休みが終わり、大学がまた始まってしまった。入学から半年経ってしまうと、もう長い間同じ動作を繰り返してきたように新鮮味もなくなっていたが、とりあえず学校へ向かうことにした。その日も、いつもの駅で降りて歩くと道の向こうに校舎の一つが見える、はずだった。段々近づいているはずなのに、歩くにつれ視界が開け、最後には、目の前から何もなくなっていた。
穴があいていた。
いや、もっと正確に言うと大学のあった場所には、巨大な穴があいているだけだった。敷地の周囲には門と塀しか残っていない。並木も校舎も図書館も体育館も講堂もすべて消え失せ、穴になっていたのだ。
僕は、穴の中を覗いてみた。深くて、離れたところから見ただけでは、底まで見えなかったのだ。押したら転落しそうなフェンスを掴んで、揺らしてみた。思ったほど貧弱ではなかったらしく、しっかりと地面に固定されている。フェンスに指を食い込ませると、恐る恐る中を覗いてみた。底までは見えなかったが、穴の中の様子はわかった。側壁は、土色をしていて、茶色や灰色の地層の重なりが見える。だが、表面はバターナイフでバターを掬い取ったように滑らかに、しかも垂直に削り取ってある。透明な箱が埋め込まれているようだ。
隕石が衝突したと言う話も、何かが爆発したと言う話も聞いていない。しかもクレーターにしては、整然としすぎている。それに近所の定食屋や喫茶店は、まったく普通に営業しているではないか。通行人もまったく巨大な穴には注意を払っていない。あれだけ巨大な建造物群が、きれいに無くなっているのに。
「そうだ。他の人はどこへ行ったのだろう」
学生、教師、職員はおろか、校門の警備員すら僕の視界には一人としていなかった。この時間であれば、大勢の学生が大学に向かって歩いているはずだ。僕は周囲の人々を注意深く見た。遠足に行く小学生が、自分と同じようにリュックサックを背負う子供を見つけようとするように。
しかし、誰もいなかった。自分と同じように、何の前触れも無く消えてしまった大学の前で、呆然と立ちすくんでいる者など、まったくいない。普通だ。住民が普段どおりの生活が続けている。僕は、不安になった。何かの間違いかもしれない。いや、これは僕の方がおかしくなってしまったのだろうか。携帯電話を取り出して、知り合いに聞いてみることにした。
電話帳の番号を眺めているうちに、僕は途方にくれてしまった。大学に、知り合いが一人もいなかったのだ。
もちろん、語学の授業で同じクラスの連中の顔は知っているが、名前は知らなかったし、電話番号すら聞いていなかった。毎日、家と大学を往復するだけで、授業以外の時間は大学にいることはまず無かったから、サークルの友達もいなかった。
誰にも聞けないし、何がどうなっているかもわからない。僕はふらふらと正門前の階段に腰掛をおろして、前の道路を眺めていた。もしかすると、同じような人間が、後から来るかもしれない。そいつはきっと、他にも友達がいるはずだから、その線でこの穴のことについて聞けばいい。
夏休みが終ったといえ、まだ陽射しは強かった。本当なら、この階段の上にはイチョウの大きな枝がかかっていて、日陰になっていたはずだ。でも、幹のあった場所は穴になっている。こんなものまで、どこかに行ってしまったのだ。喉が渇いてきたので、自動販売機にお茶を買いに行った。
冷たいお茶を飲みながら戻ると、いた。僕と同じように門から、必死になって穴の中を覗こうとしている学生が。僕だけではなかったのだ。
「あのぉ、すみません」
「あ、ちょうど良かった。ここの大学の学生ですか」
「そうですけど」
「私もそうなんですが、なんで大学が無いんですか。だって、あんなに大きい建物が跡形も無いし。いったいどうなっているんですか」
「実は、僕もわけがわからなくて、さっきからここで誰か来ないか待っていたんですよ。誰か、知ってそうな人を知りませんか」
「ちょっと先輩に聞いてみます」
良かった。彼は、誰か尋ねられる人を知っていた。
「あれ。出ないな。じゃあ、この人はどうかな」
彼は、十数回電話を掛けてみた。それでも、誰もつかまえることが出来なかった。
「おかしいな。20人に電話しても誰も出ないなんて。みんな留守番サービスにつながっちゃうんですよ」
「おかしいですね。どうしたんですかね」
結局彼も、私とおなじく階段に腰をおろすことになった。
「学部はどこですか」
「法学部です」
「何年生?」
「一年です」
「じゃあ、同じだ」
彼は、取っている科目や語学について質問してきた。途中までいろいろ話していた僕は、だんだん、その会話が無意味に思えてきた。大学も無いのに、法学部やら文学部やら言っても仕方が無い。だが、彼も僕も不安だったのだ。心の中にも「穴」があくことに。
「誰も来ないなぁ」
「うん・・・」
二人とも、黙ってしまった。太陽だけは、相変わらず照り付けていた。
「あ、またいた。あんたたち、ここの学生さんでしょ」
自転車に乗った警官が、僕らのことを見つけてくれた。
「そうなんです」
「済みませんが、なんで大学が穴になっているんですか。僕ら、まったくわからなくて、前期と同じように学校にきたら、何にも無くって」
「あれ、知らなかったの?この大学は、二十世紀の遺物として『二十世紀村』に教授たちと一緒に永久保存されることになったんだよ。いまごろ移築工事がすっかり完了した頃じゃないかな」
「そんな事言われたって・・・。だって僕はこの前入学したばかりなんですよ。急に大学がなくなってしまうなんて、そんなの、いいんですか」
「いいんじゃないの、それでも。それが嫌なら、あんたも一緒に大学と一緒に展示してもらったら?」
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