『黄色い街 前編』

- Yellow Town vol.1 -

 九月に入ると、観光地からは家族連れは消え、時間を持て余した高齢者と大学生がやってきます。かくいう私もその中の一人で、バイトで貯めた数万円と自転車一台で初秋の北国を旅している途中でした。私の旅というのは、いつも行き当たりばったりでして、同行する人もいないということで、気が向いたところに行く、ということをルールとしているのです。

 それともうひとつ。必ず、泊まるところは温泉でなくてはならない、ということを加えています。自転車をこいでいると、だんだん知らないうちに疲れがたまってきますし、旅を続けるためにも温泉に入っておきたいわけで。もっとも、ただ単に私が無類の温泉好きだから、ということでもありますが。ちょうどそれは旅の四日目のことだと思います。私は、もはや収穫を待つばかりの稲穂がそよぐ、ただっ広い田んぼの中を軽快に走っていました。そのあたりは盆地ですから、どこを向いてもこんもり茂った山々がぐるりと田畑を取り囲んでいる格好で、その日は地元の人に教えてもらった、そのなかの峠をひとつ越えたところにある温泉町に泊まる予定でした。

 そんなわけで、田園の中をしばらくこいでいると、突然、前方の稲が風に次々とへし折られていったのです。あっ、と思う間もなく私の自転車も倒されてしまいました。起き上がろうとすると、右足が自転車の下敷きになったせいか、痛みます。見てみると擦り傷ができていて、血が若干にじんでいました。あれではあの峠を越せるかどうかわかりませんでしたが、野宿をするのも嫌だったので、登ることにしたのです。

 ですが、やっぱり右足に力が入りませんでした。ペダルをこげることはこげるのですが、山道をこぐにはやはり力不足。途中でジンジンと痛んできます。やっと峠を越えたときには夕日が盆地の向こう側に沈む直前でした。さて、この道は旧街道で、今ではあまり使われていないせいか、街灯ひとつ、電柱一本ありません。峠といっても、あと何キロかは平坦に近い緩やかな道が続きまして、それから下りに入るのですが、泊まるところもなく、周りに人もいなかったので、最後の力を出して自転車を押しました。

 そして30分ぐらい経った頃でしょうか。ようやく一軒の森林管理事務所のような建物が前方に見えてきました。丸太作りの小屋でしたが、明かりがついています。看板も立っており、「御見沢自然保護協會」と書かれています。だんだん暗くなってきたので、私はくわしい道を聞こうと思い、中に入ることにしました。

「こんばんは」
 と、ドアの外から声をかけると、
「どうぞどうぞ」
 という中年男の声が聞こえてきます。ノブを回して中に入ってみると、骨董品のような大きめの机と、本が満載された本棚が目に付きます。そして革張りの椅子に座ってなにやら書いていたのは、体長1メートル半はあろうかと思われる一匹の蛙だったのです。蛙は丸い眼鏡をかけた目をこちらに向けました。

「まあ、そんな顔をしないで下さいよ。地元の人ではありませんよね。別にとって食おうとはしませんから、そこのソファにでもお掛けなさい」
 まったく予期せぬ光景に、私は戸惑いました。
「わ、私はですね、ちょっとそこまで行くのに、寄ったまでです。あい。失礼します」
「まあまあ、そんなことをおっしゃらずに。お茶でも入れますから。何か食べるものでも用意しましょう。お腹は空いていませんか」

 まあ、こんな山奥で、蛙の出すお茶や菓子がまともな物だとはどうしても思われなかったものです。なおも断ろうとしたのですが、どんなものを出すか興味もあったので、蛙の手がマホガニーの戸棚から出てきてから逃げるかどうか決めようと思いました。そうと決めてしまうと、すっかり恐怖心が好奇心に取って代わられたようで、心もどっしり落ち着きました。ただ、いつでも外へ飛び出せるように、出口に近いところのソファに腰をおろすのは忘れませんでしたが。

 一体何が出てきたと思いますか。意外にも普通の茶菓子が出てきたのです。
「御見沢 温泉まんじゅう」と書かれたまんじゅうでした。蛙は黒光りしている鉄瓶に水を入れ、瓦斯に火をつけると、向かい側のソファに腰を据えました。
「あまり腹持ちは良くないですが、どうぞ。お湯もすぐに沸きますから」
「はあ、それでは、頂きます」

 私は、すっかりこの蛙に興味を持ちました。特に危害を加えられるでもなし、特に怪しいそぶりもありませんでしたし、なにより、こんな山奥で、大きな蛙が何をやっているか知りたかったのです。

「申し遅れました。ワタクシ、この御見沢自然保護協會會長の古池と申します」
「はじめまして。岡本です。大学生です。あ、済みません。名刺は持って無いので」
 蛙の差し出した名刺は、立派なものでした。協会の名前は金で出来ていましたし、紙も上等なものを使っていたのです。まだ、どこかにとってありますよ。
「地元の方ではありませんよね。ワタクシの事を見て驚くところを見ると、東京からですか、それとも大阪から」と、蛙はゆったりとパイプを取り出し、火をつけます。
「東京です」
「そうですか。それはそれは遠いところから。今晩泊まるところは決まっているのですか」
「追楽温泉に泊まる予定だったのですけど・・・。ここからまだ、かなりありますか」
「それは遠すぎる。あなた、足を怪我しているじゃないですか。ここからすぐ行ったところに、御見沢温泉があるから、そこにお泊まりなさい。紹介状も書いてあげますよ」

 全くそれまで聞いたこともない温泉でしたが、ここはひとつ蛙の言う温泉に泊まってみようか、と思いました。
「じゃあ、お願いします。古池さん」
「ちょっと待っていてくださいね」
 さらさらと、慣れた手つきで便箋に万年筆でなにやら書くと、
「ほら、ここに書いてある『旅館 観菜音』に行ってみてください。私の懇意にしている温泉宿ですよ。これをもっていけば安く泊めてくれます。ドアを出て右の方向に行くと、すぐに二股に分かれていますから、それを右です。すぐに温泉街の光が見えますよ」

 お湯が沸いたようで、蛙はお茶を入れに立ちました。
「有難うございます。助かります。」
「いえいえ、この御見沢の自然を一人でも色々な人に知ってもらいたくて、していることですから」
「こんなに山奥でも、やっぱり保護活動の必要なんかあるんですか」
 と聞くと、蛙は、お茶を差し出しながらため息をつくのです。
「都会の人は山奥だから自然が豊かで、保護なんか必要ないと思っていますが、むしろ山奥だから必要なのです。ここ何年か、都会から持ち込まれ、山に捨てられる家電が多くなりました。不法投棄です。ワタクシたちの棲家もゴミだらけになってしまいましてね。『おみさわ』が、すっかり『ゴミサワ』なんて呼ばれる始末です。こんな山奥だから県庁も何もしてくれませんし。だから協会をつくって、地元の人と掃除しているのですが、人手が追いつきませんでねえ」