『千枚の地図』 - Thousand Maps - | |
「あ、まだ残っていたんだ。」 車から降りると、庭に柿の木が見えた。私が高校生だった頃から同じように立っている。季節もそろそろ終わるというのに、まだ熟しきってしまった実を何個かつけていた。 大野先生のお宅は、世田谷区の静かな住宅地にある。古い木造二階建てで、大学教授をしていた先生のお父上が建てた物らしい。決して大きいとはいえないが、趣のある、こぢんまりとしたいい家だ。ペンキのはげた郵便ポストも、門を入ったところの飛び石も、昔と変わっていない。屋根の衛星アンテナだけが、私がタイムスリップしていないことを教えてくれるきりだ。 「先生、ご無沙汰しておりました。」 クラス担任だった先生は、新婚だったのにも関わらず、よく私たちを家にあげてくれていた。麻雀を覚えたのも先生の家。クラスの何人かで上がりこんでは、本や映画の話を聞いたり、ニュースの話題を解説してもらったり・・・今思えば教養、といわれているものはだいたい先生から教わった。 先生は世界史を担当していたのだが、最初の授業から、どこか変わっていた。ちょっと逆立った髪形、黒ぶち眼鏡、青々としたひげの剃り跡、猫背で教室に入ってくるがはやいか、早口で、 「先生はむかしっから早口なんですから。」 奥様が紅茶を持ってきてくれた。
先生の部屋の本棚には、少しの隙間もなく本が並んでいる。旧仮名遣いで書かれた赤い表紙の文学全集も、手塚治虫のマンガも、同じように秋の陽射しの中で私たちを見下ろしていた。 「何年ぶりだったかな。ウチ来るの。」 「いっつも一緒だったあの子達、今でも連絡とってるの。」 「そういえばね、見たい?あれ。」 というが早いか、先生はどこかに行ってしまった。砂糖ポットに手を伸ばそうとしたら、すぐに
みかん箱を抱えて戻ってきた。 「でさ、昨日電話もらったときに探しておいた。大変だったよ、どこに置いたか分らないじゃない、こんな古いの。」 見ると、中には端が薄茶色に変色した紙が何百枚も入っている。 「何枚あるんですか。」 どうやら自分の授業で描かせた地図が入っているらしい。何も見ないで描かせるものだから、実物とはかなり違ったものが箱の中から飛び出してきた。ビジネスマンになった長谷川の世界は、今、本人がいるはずの南米がごっそり抜け落ちている。銀行員をしている水野の世界はイギリスと大陸が地続きになり(これはある意味当たっていた)、トルコがアフリカにあることになっている。
クラスの連中の現在を思いながら見ると、鉛筆で描かれた地図は暗示的でもあった。 「結構面白いですね、先生。」 「あったよ、ほら。」 確かに、高校生だった私の地図は、形はよくても全体のバランスが悪かった。 「今見ると、結構皮肉ですね。」 「先生、今日はこれで失礼します。」 「変わった方ですね。」 官邸に戻る途中、松岡女史は私の「作品」を見ながらつぶやいた。 「変人、か。」 確かに、今でも先生は変わった人だと思う。先生は高校で四年間教えたあと、さっさ辞めてしまった。ちょうど、私たちが卒業する年に。辞めた理由が先生らしかった。 「宝くじ当たって、三億円もらったから。」 先生は、そのあとすぐに大学院に行って研究者となり、今もある大学で教えている。しかも世界史ではなく、フランス語を。 |