『千枚の地図』

- Thousand Maps -

  「あ、まだ残っていたんだ。」

 車から降りると、庭に柿の木が見えた。私が高校生だった頃から同じように立っている。季節もそろそろ終わるというのに、まだ熟しきってしまった実を何個かつけていた。

 大野先生のお宅は、世田谷区の静かな住宅地にある。古い木造二階建てで、大学教授をしていた先生のお父上が建てた物らしい。決して大きいとはいえないが、趣のある、こぢんまりとしたいい家だ。ペンキのはげた郵便ポストも、門を入ったところの飛び石も、昔と変わっていない。屋根の衛星アンテナだけが、私がタイムスリップしていないことを教えてくれるきりだ。

 「先生、ご無沙汰しておりました。」
 「まあいいから。早く上がって、寒いしさ。そこの人たちも上がっていいよ。」
 「ああ、彼らはいいですよ、外で待つので。」
 「そう、じゃあ、せめてお茶でもあとで持っていってあげる。」
 「中沢さん、よく来られましたねえ。」
 「奥様もお久しぶりです。」
 「いま、お忙しいのでしょう。」  「まあ、今日はまだ時間ありますから。」

 クラス担任だった先生は、新婚だったのにも関わらず、よく私たちを家にあげてくれていた。麻雀を覚えたのも先生の家。クラスの何人かで上がりこんでは、本や映画の話を聞いたり、ニュースの話題を解説してもらったり・・・今思えば教養、といわれているものはだいたい先生から教わった。

 先生は世界史を担当していたのだが、最初の授業から、どこか変わっていた。ちょっと逆立った髪形、黒ぶち眼鏡、青々としたひげの剃り跡、猫背で教室に入ってくるがはやいか、早口で、
 「今日から皆さんのクラスの担任になった大野です。大きいに野原の野。かんたんでしょ。下の前はヒロノリね。博物館の博に道徳の徳。いきなりで悪いんだけど、今からまわす紙に世界地図を描いてみて。出来た人から前にもってきてね。」
 

 「先生はむかしっから早口なんですから。」
 「そうかな、そうでもないと思うけどね。でも早くしゃべっちゃった方が、言うこと忘れないでいいでしょ、時間も節約できるし。」
 「家にいるときもこうだし、私とはじめてあった時はもっと早口だったのよ。聞き取れないぐらいね。」

 奥様が紅茶を持ってきてくれた。  先生の部屋の本棚には、少しの隙間もなく本が並んでいる。旧仮名遣いで書かれた赤い表紙の文学全集も、手塚治虫のマンガも、同じように秋の陽射しの中で私たちを見下ろしていた。

 「何年ぶりだったかな。ウチ来るの。」
 「ほぼ三十年ぐらいです。でもここは変わっていませんね。」
 ソファに座ると、庭がよく見えた。

 「いっつも一緒だったあの子達、今でも連絡とってるの。」
 「半年に一度くらいは会うようにしていますけど、やっぱりみんな忙しくなってしまって。今度集まる時は、先生もいかがですか。」
 「そうだね。じゃあ、お言葉に甘えて出させてもらおうか。」
 「奥様もご一緒に。きっとみんな喜びますよ。」
 ウエッジウッドのカップから、セイロンの香りが漂ってくる。
 

 「そういえばね、見たい?あれ。」
 「見たいって、何をですか。」
 「地図だよ。面白いよ。今もって来るからさ、適当に砂糖でも入れて飲んでて。」

 というが早いか、先生はどこかに行ってしまった。砂糖ポットに手を伸ばそうとしたら、すぐに みかん箱を抱えて戻ってきた。

 「でさ、昨日電話もらったときに探しておいた。大変だったよ、どこに置いたか分らないじゃない、こんな古いの。」

 見ると、中には端が薄茶色に変色した紙が何百枚も入っている。

 「何枚あるんですか。」
 「さあ、千枚ぐらいあるんじゃないの。数えたこと無いけど。適当に探してみてよ、自分の。」

 どうやら自分の授業で描かせた地図が入っているらしい。何も見ないで描かせるものだから、実物とはかなり違ったものが箱の中から飛び出してきた。ビジネスマンになった長谷川の世界は、今、本人がいるはずの南米がごっそり抜け落ちている。銀行員をしている水野の世界はイギリスと大陸が地続きになり(これはある意味当たっていた)、トルコがアフリカにあることになっている。
 テレビ局にいる松井にいたっては、東南アジアが一つの大陸になっている上に、インドが日本の隣に引っ越して、世界中に適当な国名をごちゃごちゃと書き込んでいた。さすがに大学で教えている岡村はかなり几帳面に、見事な世界地図を描いているが。

 クラスの連中の現在を思いながら見ると、鉛筆で描かれた地図は暗示的でもあった。

 「結構面白いですね、先生。」
 「でしょ。三十年後にそれを描いた生徒がどういう風になったか知ってから見ると特に面白いよね。」
 「これって成績に入れたのですか。」
 「いや。」
 「じゃあ、なぜ。」
 「趣味。」

 「あったよ、ほら。」
 しばらくして、先生が束の中から見つけた。
 「ほら、妙にアメリカと中国が大きいよ。アフリカとか南アメリカが小さいけどね。」

 確かに、高校生だった私の地図は、形はよくても全体のバランスが悪かった。

 「今見ると、結構皮肉ですね。」
 「まあ、いいじゃない。これもっていけば。事務所にでも置いておけばいいじゃない。」
 「総理、そろそろお時間です。」
 秘書の松岡女史が、腕時計を見ながら言った。

 「先生、今日はこれで失礼します。」
 「いいよ、いいよ。こんなに忙しいときにわざわざ来てくれて、ありがとうね。面白かったよ。」
 「また、来てもいいですか。」
 「いいよ。いつでも来て。狭いけど。」

 「変わった方ですね。」

 官邸に戻る途中、松岡女史は私の「作品」を見ながらつぶやいた。

 「変人、か。」

 確かに、今でも先生は変わった人だと思う。先生は高校で四年間教えたあと、さっさ辞めてしまった。ちょうど、私たちが卒業する年に。辞めた理由が先生らしかった。

 「宝くじ当たって、三億円もらったから。」

 先生は、そのあとすぐに大学院に行って研究者となり、今もある大学で教えている。しかも世界史ではなく、フランス語を。