クリエーターの作品には、元となった原風景があるように思います。
例えば、デザイナーの佐藤可士和さんの作ったホンダ・ステップワゴンのCM。これは佐藤さんが子供の頃に体験した、海に連れて行ってもらおうとソワソワしている自分がモチーフになっているそうです。また、日本を代表するキャラクターにまで育った「ポケモン」は、その企画をした田尻智さんが子どもの頃にしていた虫取りがベースとなっているそうです。
もちろん、人間は全くの無からモノを作り出すことはできないわけで、必ずそこには元ネタが存在します。その元ネタは、個人的な体験や思い出であったり、好きな音楽や映画やテレビ番組であったりするでしょうが、こういった元ネタをアレンジしたり、新しいエピソードを追加したりしながら自分の作品へと発展させていくのではないでしょうか。
と考えますと、本当にオリジナルと言えるものは、そうそうありません。特に自分以外の人間も影響を受けていると思われるマスメディア経由のものをベースにしてしまうと、オリジナルを作り出すことはもっと難しくなるような気がします。
つまり、引用やオマージュ、パロディとして活用することはできるでしょうが、全くのオリジナルな表現として成立させることは難しいのではないでしょうか。無論、そのネタ元を知らない人にとってはオリジナルに見えるでしょうが、マスメディアで既にイメージが大量に流布されおりますので、「オリジナル」として見てくれる人はイメージの流通量が増えるにつれ少なくなります。
いや、たとえばアニメなどのオタク領域に入りますと、受け手側の理解能力も知識も高度なので、表現がオリジナルとして受け止められることは少なくなります。どんなシーンであっても、過去の有名な作品の影響を分析・評価されるでしょうし、作り手側も大量のアニメ作品を見ておりますので、それらの影響がない映像を作り出す、ということ自体が不可能なのかもしれません。むしろ、オリジナルな表現にこだわるのではなく、作り手も受け手と「元ネタ」を共有することで、相互に仲間意識を持たせるような表現もあります。
こう考えてみますと、マスメディア経由の物をベースとしてしまいますと、新鮮な、オリジナルな表現というものを作り出すことは難しくなります。大量に流布されているイメージ「だけ」では、単なる引用だけに終わってしまうのではないでしょうか。
ここで一味違うものを出すとしたら、やはり個人的な体験しかないと思うのです。こればかりは絶対に他の人とは同じではありません。たとえ同じ出来事を共有した他人がいたとしても、考えていること、感じていることは違いますし、そもそも視点が違います。
もし、これが映像作品であった場合を考えてみると見ている視点、映像が違うということはありません。画面は一つですし。それが実体験となりますと、一人一人の眼の位置というのは違うわけで、同じ出来事であっても、まったく違うアングルから見ていることになります。この個人的な体験、オリジナルな体験こそが血肉の通ったリアリティーになるし、人々の共感を得られるような作品へと繋がっていくのではないかな、と思うのです。
ところが、いまの都会を見てみますと、そんなオリジナルな体験は残されているのだろうかと暗澹となってしまいます。街の中は、すべて人間によってコントロールされており、それは体験そのものが誰でも予測が可能な範囲に限定されているということではないでしょうか。
例えば、コンビニやファストフード店において予想外の言葉が返ってくることが考えられるでしょうか。大抵のものはマニュアルによって規格化されておりますし、私達もそれを是としております。
人間だけではなく、周囲の環境であっても自然は計画的に残してあり、公園には計画的に樹木が植えられ、危ないところには計画的に柵がしてあります。まるでRPGの背景画像と変わらないぐらい、人の手が入っているのです。
程度の差こそあれ、ここまで管理されていると都会であれば東京であっても大阪であっても地方都市であっても、ほとんどのものに変わりはありません。規模が違うだけです。日本中、どこに行っても同じような街において、オリジナルな体験をする余地が残されているのかどうか・・・。
そういえば「事実は小説より奇なり」といいますが、なぜ奇なのでしょう。私が今思ったのは、それが人間によって管理されていないからではないでしょうか。人間の考えることというのは、やはり作者の「想定の範囲内」で展開されております。極端にいえば、作者の力量が最大範囲であります。ところが、事実は、そんな範囲もお構いなしで展開していく力があります。まさに想定外の展開が待っているのです。だから、「奇」だと思われるのでしょう。
大人よりもなお、大人の「想定の範囲内」で活動を強いられる子供に、そういった「奇」は、あるのだろうか・・・とまで考えてしまうのです。すくなくともクリエーションには、「奇」がなければいけないのではないでしょうか。世阿弥のいう「珍しき花」ですね。珍しさのなかに「花」がある、という。それは他とは違うオリジナリティであり、人を驚かせる新規性であります。子供のときに、どれだけオリジナルな体験を出来るかが、下手に勉強漬けになるよりも重要なんじゃないのかなあ、と思うのですが・・・・。