2005年下半期(7月〜12月)


2006年10月1週目 第121回 コレクションラグの罠
 ウィキペディアなどのネットのコミュニティは、多数の目によるフィルタリングが効くので、プロによって編纂された百科事典と比較しても、著しく不正確な記述にはならない、という話があります。つまり、コミュニティ内で自浄作用が働くので、不正確な記述でも誰かが発見して訂正を入れていくので、常にその時点では正しいと思われる記述が残っていく、というところでしょうか。

 確かに、多数の目にも耐えていくことこそ、真実に近い事なのかもしれませんし、常に訂正されるということは、間違いがそのまま掲載され続けることもなくなるでしょう。ネット上の百科事典であるウィキペディアが信頼されつつあるのは、まさにこの特性によるもの、と思います。ですが、事はそうは終わらないと思うのです。

 最終的に見れば、この流れはうまく機能するのであろうと思いますが、間違ったことが書き込まれた後、訂正されるまでの間にアクセスしてきた人は、誤った知識を仕入れて行ってしまうことが考えられます。

 つまり、コミュニティによる訂正という自浄効果が働くまでの間には間違った情報が流通しており、それに接する可能性は誰にもある、ということです。もちろん、既存のマスメディアでも、しょっちゅう訂正記事が出されているところを見ると、必ずしもネットが悪いということでもないでしょうし、むしろ紙やテレビなどの「訂正記事」が受け手にリーチしにくい(一過性のため読めない/読まない可能性)を考えれば、ウェブ上のほうがはるかに訂正したものが再流通しやすい構造だと思われます。

 なので、余計に間違った情報でも信頼性を得て、流通しやすいのではないか、とも考えられるのです。間違わない人間がいないとはいえ、すべてネットの情報を鵜呑みにすることには、大きなリスクが伴います。ある意味、デマがデマだと判明するまでは「本物」として流通するわけですから。

 この間違った情報が書き込まれてから訂正されるまでの時間を「コレクションギャップ correction gap」「コレクションラグ correction lag」(以下CL)と、ひとまず名付けておきましょう。

 このCLは、今までにも存在しておりました。メディアの誤報が、真実として流通してしまい、訂正記事が出されるまでに流布してしまう、ということですね。ただ、以前にはその影響は限定的であったように思います。

 受け取った人間が再配布する手段が「口コミ」ぐらいしかなかったので、影響が限定される、ということが考えられます。口コミによって尾ひれがついてしまい、最終的には似ても似つかぬニュースになる、ということは考えられますが、それも地域限定でありましょう。

 ところが、ネット時代では、その誤った情報を利用者一人一人が広範囲に流布させてしまう危険性があるということが言えると思います。どこかで読んだ情報をコピペやリンクすることによって、ブログや掲示板を通じて違う誰かに再流通させることができるのです。 しかも、今までは地域限定だったデマの範囲が全世界に及び、かつ短時間で流通してしまうことに、CLの問題が増幅されている、と思います。

 まだネタ元に対してリンクを張っていれば参照するのは容易でしょうが、ネタ元のリンク切れや、そもそもソース元をぼかして紹介していた場合、CLの間で書かれてしまった誤った記事が、そのまま「本物」として流布してしまう、という危険性もあります。いわば「情報のケスラーシンドローム」です。ケスラーシンドロームとは、宇宙空間に漂う一個のゴミが、正常に作動している人工衛星などにぶつかると、人工衛星が壊れるどころか、そこから新しいゴミが生まれてしまい、次々に他のマトモな施設にぶつかり、ゴミとなっていくことです。これが、情報伝達でも起こりうる、と思うのです。

 自分が、そのプロセスに負の貢献をしていると考えると、あまり気分のいいことではないですね。

 これを防ぐには、絶えず自分が「コレクションギャップ」「コレクションラグ」の真ん中に陥っているかもしれない、ということを考えた方がいいかもしれません。あるいは、元ネタが訂正されている可能性もあるわけですから、必ず思い出した時にもう一度ソース元を確かめてみる、ということも必要かもしれません。少なくとも、それでゴミを減らすことができる、かどうかは分かりませんが、少なくとも読んでくれた人にデタラメのイメージを与えてしまうのは防ぎたいですね。

 でも、なかなかできないんですよね、そういうことって。



2006年9月4週目 第121回 英会話学校のCM
 最近、ある大手英会話学校チェーンのテレビCMが気になります。

 どういうものかといいますと、英語しか話せないと思われる白人男性が、日本のなんてことのない「近所の公園」で助けを求めております。どうやら、謎のジャングルジムに絡まってしまい、動けないようです。

 男性は必死になって近くの日本人女性に助けを求めます。しかも英語で。すると不思議そうに見ていた女性は、半泣きになりながら「ごめんなさい」と男性を放置して駅前の英会話教室へと駆け込むのです。

・・・・英語がわからなくても、助けを求めているぐらいはわかるでしょうに・・・。

 というツッコミを誰かがしないのかなぁ、と思うわけです。

 これは、英語力云々の前に、想像力が足りないのではないかと思うのです。もっと言えば、外国語ができなくても対応できる場面でも、自分の対応力がないことを英語力のなさに転嫁しているように見えるのです。

 白人男性が困っていることぐらい見ればわかりそうですし、そこから動けないことだって見てわかるはずです。それぐらいであれば、たとえ英語ではなくロシア語やスペイン語で言われていたとしても「ふつうの感覚」を持っていれば分かりそうなものなのです。

 ところが、女性は助けない。助けないで英会話学校で英語を習ってから助けようとする。語学がないと何もできない、ということをCMでは視聴者にアピールしたいのでしょうが、語学ができなくてもナントカなる状況でも、「英語ができない」をエクスキューズにしてしまって前に踏み出させない人まで肯定しているようにしか見えません。

 思えば、語学力が本当に必要な事というのは、日常生活ではあまりありません。出来ればそれに越したことはないし、情報収集でもアドバンテージが出てきますから、英語ができれば役に立つと思います。ですが、この女性の場合には英語力は必要ありません。最悪の場合でも、英語をわかる人を連れてくるといった判断力さえあればいいのです。

 このCMのシチュエーションで足りないのは、「語学力」ではなく度胸や観察力、対応力なのではないでしょうか。もし、それらを英会話教室が教えてくれるということでしたら、これは素晴らしい学校であるな、と思うわけです。ですが、きっとそうではありませんよね(そうなのかな・・・。外国人と話すことで度胸がつく、という面もあると思いますけど、それが英会話学校のメイン授業ではないですよね・・・・)

 このCMは、すべて英語力のせいにして何もできない潜在的な顧客に対して、アピールしているのかな、とも思いますけど、だとしたら非常に上手なやり方です。

 当該CMには続編がありまして、英会話教室から出てきた日本人女性が、放置されていた男性の元へ戻ってまいります。そして一言、May I help you? ため息をついた白人男性は、以前より髪も髭も伸びっぱなしの姿。おそらく放置されてから長い時間が経ってしまったのでしょう。

 そもそも、May I help you?を言えるようになるまでに、どれぐらいの期間が経っていたのか、あるいは義務教育で習うレベルの英語もできないのか、この女性以外の日本人(警察官も含むと思われる)も見て見ぬ振りをして男性を放置していたのかというツッコミどころ満載なCMですが、ある意味深いと思いました。

 だいたい、学校のCMとして顧客(生徒)がMay I help you?を言えるまで時間がかかってしまってはマイナスではないのでしょうか?いや、問題は語学力ではなく彼女の対応力であって、その英会話学校は、英語以外の面もフォローしようとしたために時間がかかったのだ、と考えますと・・・・・もっと深い。

 いわば、現代日本社会を浮き彫りにする、とんでもないCMといえるかもしれません。



2006年9月3週目 第120回 咳の社会的責任
 季節の変わり目です。だんたんと冬に向かいつつありますが、皆様、お元気にお過ごしでしょうか。風邪など引いていないですか。今日は、そんな話です。

 CSRという言葉をご存じでしょうか。これはCough Social Responsibility の略でして、日本語ですと「咳の社会的責任」といいます。風邪によって咳をすることで周囲の人々へウイルスを広めてしまう責任が重大だ、ということで、近年、特にSARS以降注目されている言葉です。中には重要な経営目標として取り入れている会社も多く、社会に貢献する会社をつくるためには、咳をする社員を無くすような福利厚生を提供しなければならない、と全世界的に注目されている言葉です。

 ・・・・・・・嘘ですよ。本当のCSRについては調べてください。Corporate Social Responsibilityの略で、「企業の社会的責任」です。咳ではありません。

閑話休題。

 風邪を引いても頑張っている人は、偉いというのが日本の大部分の人の感覚ではないでしょうか。いや、「頑張る」ということに重きを置いているので、「寝ないで頑張る」「猛練習で頑張る」といったようにつらい状況であっても耐えて頑張る人に対して肯定的に見ることが、社会的なコンセンサスとなっていると思うのです。そうでなければ、こんなに栄養ドリンクや「疲れに効く」という錠剤のCMが打たれることはないと思うのですが。

 そして、季節の変わり目になりますと風邪薬のCMが打たれることになります。風邪をひいても頑張る人たちに対して、風邪薬を広告しているわけですが、そもそも風邪をひいて咳をしながら会社や学校に頑張って行くことが、どれだけ偉い事なのか。私にはイマイチ想像がつかないのです。

 そりゃ、仕事や勉強を欠かすことはできません。生きるため、自分がやりたいことをやるためには、頑張って行くことも必要だと思うのです。別に「頑張る」こと自体を否定するわけではないのですが、「どんな状況でも」ただ頑張るだけのことには、どれだけの価値があるのだろうか、と思ってしまうのです。この場合でしたら、風邪をひいている状況でも「頑張っていく」ことに、どれだけの価値があるのか、ということです。そもそも風邪やインフルエンザなのに出歩くということは、治るのを遅らせて重症化させないのだろうか、周囲にとってはウイルスの拡散に加担しているだけではないか、とも。

 社会的に見て、たとえば家を出た瞬間から帰宅するまでの時間に、いったいどれぐらいの人と接触するのでしょう。いや、接触というのは直接的なものだけではなく、空気感染によるウイルスの拡散の範囲に居る人である。そう考えると、一人が無理して「頑張る」お陰で、どれくらいの人が風邪やインフルエンザに罹患して迷惑するか知れない、と思うのです。

 咳をするぐらい体調が悪いのであれば、家で休むのが良いだろうし、どうしても出るのであればマスクをする、マスクが無いのであればハンカチを使う、など「どうしても仕方がない時は、最低限、他の人に移さない」という配慮があってしかるべきでしょうが、そういう人はあまり見かけません。残念ながら。

 そもそも、どんな事態になっても無理をするということが良くないのかもしれない。だいたい、なんでこんなに風邪薬のCMが流れているのか。そんなにみんな抵抗力がないのか、と思うわけです。風邪を引いても、無理をして仕事や学校に行き、風邪薬を飲みつつ栄養ドリンクを飲むという図式が出来上がるのかもしれないですが、早めに帰って温かいものを食べて、ゆっくり風呂に使って自然治癒力・回復力を高める、という方向に向かっていかないものでしょうか。

 頑張ることも大切だけれども、頑張ること自体が目標になってもよくないでしょう。いかに最小の努力で最大の効果を得られるか、が大切ではないかな、と思うのです。

 だいたい「頑張れ!」と言われた方は何を頑張ったらいいのかが不明確ですし、まるで頑張っていないように聞こえます。「努力しろ!」と意味的に指すことは同じなのでしょうが、「努力しろ!」はもっと上からモノを言っているような雰囲気がする。言われた側としては努力していないということでしょうか。

 国民性から言って「頑張る」ということは皆に浸透していますし、その頑張りがあったからこそ、ここまで経済発展を遂げたとも言えると思います。ところが頑張りだけでは勝てなくなってしまったのが、昨今の日本でしょう。頑張るモチベーションであれば、「より豊かな生活をしよう」と思っている発展途上国の方が高いでしょうし、そもそも同じ「頑張る」ことで競争したならば、賃金水準が低い人が大勢で頑張った方が、賃金の高い人が一人で頑張るよりも強いわけで。

 これからはいかに頑張らずにしておくことが大切なのかな、と思うのです。言いかえれば、頑張るだけではなく、どうやったら頑張らずに済むか、どうやったらイザというときまで頑張りをとっておけるか、ということを考えなければいけないと思うのです。

 例えば、ピカソがすらっと描いたデッサンの方が、普通の画家の人が1か月かかって描いた油絵よりもより高い、ということは有り得そうです。では、この画家は頑張らなかったから値段が安いのでしょうか。ピカソは頑張ったから高く売れるのでしょうか。そうではないですよね・・・・・。



2006年9月2週目 第119回 劣っていても死ぬことはない世界
 ある発展途上国を旅行してきた人に、その体験を嬉々として話されたことがあります。いわく、大変汚いけれども、子供の目が澄んでいる、賢い、日本が忘れてしまったことがここにある、と。彼の眼には、日本が非常に堕落して見えたそうです。

 そんなに思うのであれば、帰国しないで向こうに永住すればいいのに、と言いたいのをぐっと堪えて、こんなことを考えておりました。幕末から明治に来日した外国人の手記を読むと、当時の日本はとても素晴らしい国のように書かれております。トロイの遺跡を発掘したことで有名なシュリーマンの手記(講談社学術文庫から出ています)を読んでみますと、なかなか今の日本が忘れてしまったような「美しい国」の姿が書かれてあります。それを思い出しながら、彼の発展途上国での話も同じような感じであるな、と思ったのです。

 社会が一直線で進歩してきたとは思いませんが、少なくとも文明化してきたことについては、何らかの意味があったと私は思いたいわけです。それは何かと思いますと、人が死なない社会を作ってきたこと、ですね。たとえば、飢饉で死ぬ人、病気で死ぬ人、戦争で死ぬ人を極力、減らし続けてきたのが今の日本社会です。

 それは平均寿命が世界トップクラスであることが証明しています。敗戦直後ならいざしらず、飢饉で死ぬ人は居ませんし、病気で死ぬにしてもかなり生きてから病気にかかる人が多いでしょう。その証拠に、大規模な伝染病で何万人も死んでしまうこともありませんし、簡単に治す方法があるのに治療できないということもないわけです。無論、戦争で死ぬ人も(取材中のジャーナリストなどの例外を除けば)ゼロです。

 世界的に見ても、話題になったSARSやイラク戦争での死者は、過去のペストや第二次世界大戦と比べれば少なくなってきています。これはすなわち、そこそこ人間は学習して、より人が生きられる世界に向けて前進しているということであると思いたいわけです。

 また、競争でも同様ですね。昔の武将であれば、負けてしまったら首を切られてしまいます。自然界も同様に、負けてしまったものは食べられて死んでしまいます。文明が進むということは、敗者、劣後した者、弱い者が死ななくて済む社会へ移行していく、ということなのかもしれません。

 発展途上国では、生きることが難しいわけですね。十分に教育を受けることも食べることもできないかもしれない。安全対策がいい加減ですから、人間が簡単なことで死んでしまう。医療レベルも高くないので、日本よりもすぐに人が死んでしまうこともあり、いまだに内戦を続けているところも少なくありません。人間だれしも、生きることに必死な社会であれば、前出の彼の出会ったような人達であることは珍しくないように思います。それは、日常的に死に直面しているからこそ得られる、一種の悟りであるように思うからです。私たちは、そういった社会から「人が死なない」ところを目指して社会を動かしてきたわけですから、一方的に現代日本を非難するのは無いものねだり、のように思うのです。

 よく生きるためのは、死ぬことを知らなければならない、ということを聞いたことがあります。死が日常に溢れている状況であれば、いかに生きなければいけないか、ということを考える機会はいくらでもあります。身近な人が死んでいくことは、いまや日本国内では珍しいことです(だって、平均寿命が長いのですから)。生きることに必死にならなくてもいい社会を築いてきた私たちは、まずそれを肯定することから始めないと、前述の彼のように、ユートピアを見てきたような話をしてしまうかもしれません。

 敗者が死んでしまう社会であれば、競争は楽です。負けたものは死ぬので、敗者のことは考えなくていいわけです。これは社会的な弱者に対しても言えることでしょうが、自然に淘汰されるので、まるでロケットがブースターを切り離すように捨てていけばいい。ところが、われわれの築いてきた文明社会というのは、競争に負けても、他に劣後していても死なない、命まで取られない、ということが前提の社会なのです。

 たとえば、戦国時代の武将を尊敬している人が今でも多く居るとしても、まさか同じように競争に負けたら「本当に死ぬ」ことになる人間は、現段階ではいません。無念にも死を選んでしまう人はいらっしゃるでしょうが、首を切られて河原に晒しものになることはありません。死なない、死ぬべきではないのであれば、敗者・弱者をどこかで救済しなくてはならないわけです。いや、救済ではないですね。敗者・弱者でもいかに自立・貢献できるようにするか、という視点が必要なのでしょう。ロケットでいいますと、ブースターを切り離すことはできないので、いかにみんなで宇宙まで飛んでいくか、を考えなければいけないわけです。

 そんな視点が、これからの政策には必要だと思うのですが、いかがでしょうか。



2006年9月1週目 第118回 捨てる場所
 以前にシカゴの郊外に行く機会があり、空港から迎えに来てもらった車に乗って道を進んでいきますと、途中で野原が延々と続き、途切れたかと思ったら森に入り、視界が開けたと思えば大きな住宅地があり、しかも家々は平屋か二階建て、ガレージも2台以上入るようなものばかりで、ああここはやっぱりアメリカだなあと再認識しました。とにかく土地が広いのです。

 日本でも北海道は別なのでしょうが、だいたいの土地に行きますと、隣の家がすぐそこにある。たとえば東京から電車で1時間ぐらいの距離で、ゆとりを持って家が立ち並び、野原がボカーンとあるような土地があるかどうか。まあ、アメリカでもシカゴ郊外だけがそういった環境である可能性もありますけど、その規模感がまるで違うのです。都市の中心部から1時間ぐらいで野山が広がる、というのは日本の地方都市に行けば同じような状況が見られるでしょうが、人工物の少なさはアメリカだからだろうと思いました。

 もちろん、人口密度が日本とは違うわけですから、土地の使い方が贅沢であるわけです。どの家にも裏庭、ガレージ、買い物に行けばウォルマートがあるのですね。初めてウォルマートにも行ってみたのですが、その支店は、平屋で日本の郊外型スーパーほどの面積に高い天井を持った建物の中に、商品が無造作に置かれていて、生鮮食品よりも保存がきく加工食品が多く、うらぶれた感じでした。ところが、値段はそれなりに安い。さすがエブリデーロープイライスなだけはあります。値段は安くない商品があっても、一つパッケージに含まれる量が多いのです。ここまでありますと、「安いから、とりあえず買っておくか」という生活ができるのではないか、と思いました。

 それもこれも、捨てる場所が多いから、モノより土地が多いからではないでしょうか。大量に買ってきても家が広いので入りますし、いらないものはガレージに入れておくこともできます。庭に積んでおくこともできます。不用品がたまったら、ガレッジセールを開けば、誰か必要な人が買っていくでしょうし、大量生産大量消費を支えられるだけの場所があるからこそ、できるライフスタイルなのではないかな、と思いました。

 そう考えていきますと、狭い日本で捨てるというのは、なかなか難しいことですね。近所に人は住んでいるわけで、どこかに積んでおくことも、捨てることもできません。江戸は究極のリサイクル都市であった、ということを最近聞きますけど、これは単に「捨てる場所」が無かったおかげで、やむを得ずリサイクルせざるをえなかったのかな、と思ってしまいました。環境の制約があればあるほど、「捨てる」ことよりも「生かす」ことが必要になってきます。もっといえば、自分の目につかない場所があればあるほど無駄に捨てるでしょうが、自分の家でゴミを処分しなければならないなら、使い捨てはしないのではないでしょうか。

 日本の家庭はモノが多すぎる、というが、やはり限界に近づいてきているのではないでしょうか。いえ、そもそも、人口密度が高く、捨てる場所がない日本で、何かを捨てるのは難しいことなのかもしれません。だって、捨てたものはどこか人間のいない場所、自分の目につかない場所に積まれることがなく、自分の近所に積まれるわけですから。やはり、すべての資源は限られているものですし、安易に「捨てる」ことを考えるのではなく、いかに生かすか、という方向への転換が必要なのでしょう。これは、モノに限らずヒトにも言えることだと思います。



2006年8月4週目 第117回 上野公園文化都市化計画のススメ
 上野恩賜公園は、北への玄関口である東京・上野駅の近くにある公園です。徳川家の菩提寺である寛永寺があり、戊辰戦争の際に彰義隊が立てこもったため戦火で伽藍を失い、その跡地に動物園や博物館などの文化施設が建てられました。

 上野と言えば西郷隆盛の銅像ですが、他にも東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館、東京と美術館、上野の森美術館、東京文化会館、東京芸術大学、上野動物園とさまざまな文化施設が立ち並んでおり、このような狭い範囲にこれだけの文化関係施設が集中しているだけでも、大きなアドバンテージがあるように思います。しかも、現代日本を代表する街、秋葉原もほんのすこし行った場所にあるわけで、観光名所としても優れた立地にあると思います。

 で、こんなに小さなところに集中しているので思い出されるのが、アメリカ・ワシントンにあるスミソニアン博物館でしょう。スミソニアン博物館というのは「1848年イギリス人の科学者ジェームズ・スミソンが、「知識の向上と普及」にと委託した遺産を基金としてワシントンD.C.につくられた全部で16の博物館、美術館、動物園の総称。研究機関であって、同時に一般市民に無料で公開されている」(Wikiペディアより)場所です。

 せっかく上野周辺にも文化施設が集中しているわけですから、もっと世界に誇れる文化集積地として開発してしまえばいいのに、と思ってしまいます。観光資源としても文化施設が集中している方が回りやすいですし、何といっても日本の色々な側面を知ってもらえるいい機会になるのではないでしょうか。古美術から現代美術、日本の科学技術、泰西名画から企画展まで見ることができるわけですから。

 また、さまざまな文化施設や周辺施設とのコラボレーションを行うことで、今よりもよりダイナミックな横断型企画を立てることも可能でしょう(もう取り組んでいるかもしれませんが)。文化会館のオペラにちなんだ収蔵作品展を向かいの西洋美術館で開く、など相乗効果を生み出していけば、動物園しか興味のなかった子どもが科学分野に興味を持ったり、といったことが起きるかもしれません。新しいムーブメントを生み出していくには願ってもない環境ではないでしょうか。つまり、次々と新しい日本を打ち出せるようなメルティングポットにしていくような姿勢が必要ではないでしょうか。

 まだまだ公園内には空いているスペースもあると思われます。地下を掘れば、もしかするともっと大きな展示スペースを確保できるかもしれません。新しい文化施設を都内各所に設置するのも良いとは思いますけど、一個所に集めた方が「ついで」に寄ってくれる人が多いのではないでしょうか?(このあたりは、本当であれば現状の上野公園の来訪客の回遊状況を調査しないと言えない、仮設段階ですけど)手狭になってから新しい施設は考えればいいわけで、まだまだ集められることがあると思うのです。

 上野公園と言えば、昔は不良外国人の溜まり場、いまはホームレスの方々のビニールシートが並んでいる状況になっています。とてもではないが、外国からの観光客をどっといれて恥ずかしくない場所ではありません(豊かな日本でもホームレスになってしまう人がいる、という社会の矛盾を宣伝したいのであれば別ですけど)。ホームレスを追い出せ、と言っているわけではなく、その対策(再雇用など)に本腰を入れずに放置するな、ということです。

 まずは、きちんと公園内を整備すること。公園内のホームレスなどの諸問題には、ただ公園内から追い出すだけではなく、根本的な対策(再就職支援など)をし、もし可能であればできるだけ文化都市と化した上野公園内で生み出されるだろう新しい職に優先してつけさせる、などの配慮も必要だと思います。現状では、あきらかにハトの糞などで汚い公園です。ディズニーランド並みとは言いませんけど、世界一美しい公園を目指して設備を整備し、こまめに掃除することで、人々に喜ばれる場所になると思います。その管理の為には今よりも人手が必要な筈です。

 せっかく現在でも外国人観光客が訪れるスポットであり、日本有数の文化施設集中地帯なのですから、なろうと思えば世界有数のカルチャーセンターになれるんじゃないかと、私は夢想してしまいます。公園全体を一つの目的でプロデュースし、園内をデザインしなおすことで、きっと素晴らしい文化都市が出来上がると思うのですが・・・どうでしょう。その際には、第66回で書いた「国立サブカルチャーミュージアム」も建設しましょう。文化会館の隣の野球グランドなんかうってつけの候補地だと思いますが・・・・



2006年8月3週目 第116回 安いものに「もったいない」という感覚を抱けるのか?
 昔の人はモノを大切にした、という話はよく聞きます。

 昔はちょっとぐらい壊れても直しながら使った、一回で捨てずに何度も使った、当初の目的で使えなくなった時でも別の用途にリユースした、などといったことです。みなさんに身近な例でしたら、お年寄りの方がモノを大切にする傾向が強い、ということが挙げられるでしょう。近年、「もったいない」という言葉が注目されておりますが、こういった昔の人のように使えるものは使い倒し、資源を無駄にしないようにすることが環境問題の対策として重要なのです・・・。

 ということが言われておりますが、果たしてそんなに昔の人が偉かったのかと思いますと、私はどうかなあと思ってしまうのです。本来、資源というのは高価なものです。鉱物でも食物でもそうですが、仮にそれが支えられる最大人口が100人だったとします。人口が50人の時であれば、資源の半分は無駄に使うことができるでしょう。食べ物であれば、残飯として捨てたり、食べては吐きを繰り返すといったことをしても、まだ困ることはありません。ところが人口が100人に近づくにつれて無駄をすることができなくなってしまいます。つまり、資源に余裕がないので、すくなくともその範囲内で100人がぴったり暮らしていける生活をせざるをえません。

 経済学では価格は需要と供給のバランスで決まるそうですが、供給が少なく需要の多い時代では、必然的にモノの値段は高くなり、決して人々はモノを粗末には扱わないでしょう。つまり、粗末に扱って新品を買うにはコストが高すぎるので、できるだけ有効利用しようとするでしょうし、道具であれば長く使おうとするわけです。これは、100人ぴったり分の資源しかないところに100人前後が住んでいる状態でしょうか。少し資源量が減ったりしただけで、深刻な危機にまでつながってしまう可能性があります。

 そこで、普段から大切に長く使うことを考えるでしょうし、人口も極力増やさない工夫が必要になってきます。もし無駄遣いを維持するために所与の100人分以上の資源を使おうとすれば、銀行預金に例えると利子だけではなく元本まで手をつけている状況になってしまい、そんな社会・文明は崩壊してしまうでしょう。そうなれば、なおのこと資源のコストは高くなります。やはり価格というのは良く出来たもので、希少になればなるだけ、需要が高ければ高いだけ値が上がり、無駄遣いは出来なくなってくるようです。

 だいぶ落ち着いてきたとはいえ、原油価格は高止まりしております。この場合考えられるのは、石油に代わる代替エネルギーの開発・製造コストが原油価格を下回らない限りみんな石油を使い続ける、という現実です。コストが「石油<代替エネルギー」である状況下であれば、誰も新しいエネルギーは使わないでしょう。

 そんなに代替エネルギーを普及させたいなら、石油に高税率をかけるのが近道なのでしょうが、それをしてしまうと国民に莫大なコスト負担をさせることになります。みんなドライブもできなくなるでしょうし、運輸関係のコストは値上がり、電気料金も値上げ、衣類も上がるでしょう。どんな生活シーンにも石油を原料とした製品はあります。それらが一斉に値上げとなってしまったとき、国民が黙っているかどうか。

 でも、考えてみればそれこそが今まで払わなかった環境のコストなのかもしれません。「ハガレン」じゃないですが、等価交換として今までは受け取ってきた分だけ、払う番が来たのでしょう。温暖化も資源枯渇も気にせずにジャンジャンと無駄遣いができた世は過ぎ去ろうとしております。

 人口も増加し、地球の100人分の資源にようやく100人、いやそれを上回る人口がひっついているわけですから。「もったいない」が広まったら、先の「紺洲堂通信」に書いたような「消費していないのに消費しているもの」へとシフトが進むのではないかな、と思うのですが、どちらにせよモノは大切に使う世の中が来つつあるようです。



2006年8月2週目 第115回 珍道具の世界
 「珍道具の本」というのを見たことがあります。珍道具、なんて単語を私は知りませんでしたが、それを知ったのはイギリスにいったときのことでした。

 もうかなり昔のことになります。イギリスにホームステイしていた時のことです。たまたまホストファーザーが、庭の椅子で何か読んでいるのです。表紙を見てみると、漢字で「珍道具」、アルファベットで「Chin-dougu」の文字が見えました。ちんどうぐ?と思った私は、ちょっと表紙の文字を追ってみました。どうやら日本のアイデア商品を紹介する本で、カラー写真になったさまざまな「珍道具」が紹介されていたわけでした。よく、「王様のアイデア」といった店で売られているようなアイテムですね。別々の商品が一つについていて「○○をしながら××もできる」といったようなものが多かったと思います。

 「本当に日本には、こんなものあるの?」と聞くホストファーザー。実際には見たことはないですけど、いくつかはテレビで見たことがありますよ。でも、それらは私たちでも見ることが珍しいから『珍道具』なんですよ」と答えておきました。

 確かに、自ら「これは珍しい商品である」と名乗っているわけですから、彼にとっても私にとっても珍しい商品であることは間違いありません。日本人が来るというので、もしかすると日本関係の本が目について、たまたま買ってしまったものなのか、はたまた友達に面白いからと借りたのか。どうして彼がそんな本を読んでいたのかは覚えていません。ただ、こういったアホな商品ばかり日本人が考えているとは思われたくなかったのですが、致し方ないですね。珍道具なんですから。

 もっと考えますと、「珍」でなければわざわざ海外の人が面白がって読むような物にはならないということです。たとえば日常の製品を紹介したとしても、ほとんどの先進国の家庭用品というのは変わらないでしょうし、たとえその文化に根ざしたような道具があっても「珍」であるかもしれませんが、外国人には面白くはないわけです。

 例えば、韓国にはキムチ専用の冷蔵庫があるそうですが、それを日本人が見て「珍しい」と感じるとは思いますが、決して面白いものだとは思わないでしょう。あくまで、「なんでわざわざ、こんなのつくったんだ!」とツッコミを入れることができなくてはいけません。珍しいだけではなく、アホでなくてはなりません。キムチ専用冷蔵庫は、非常に真っ当な家電製品ですので珍道具にはなりませんし、第一、韓国ではメジャーな商品ですので、日本人の私ですら知らなかった珍道具とは、全く違いますね。

 自動車のCMで、道路を動くソファーで走っている人が出てくるものがあります。日産のキューブのCMですが、物凄く苦労して公道を飛ばしているソファーの横を軽々とキューブが追い抜いていく。つまり、ソファー並みに座り心地のいいキューブがあるのに、なんでそんな苦労をしてまでソファーで走っているの?というCMですけど、このソファーなんかは「珍道具」の系列に属しているものだと思います。

 珍でありますし「なんでそんな思いをしてまでソファーを動かしているんだ!」というツッコミポイント、しかも開発者の「ソファーのように座り心地の良いもので移動したい」という目的も理解できる。つまり「心地の良い移動がしたい」という目的を達成するために、「ソファーのように座り心地のいい車を買う」ではなく、「座り心地の良いソファーにエンジンを取り付けて動かす」という選択肢を選んでしまったためにこの世に生を受けた「珍道具」であるわけです。一見、合理的に見えて実はとんでもなく非合理なところに「珍」たる所以があるわけですね。

 もっとも、そんな珍道具から次世代の新商品が育ってくる可能性もあるかもしれません。例えば、使って便利であったり効果が上がる商品であれば、一般的に普及するわけなので早晩、「珍道具」の称号も返上できるようになると思うのです。たとえばソニーのウォークマン。これは、発売当初は珍しい「珍道具」だったのではないでしょうか。わざわざ騒々しい野外にオーディオを持ってまで音楽を聞く必要があるのか、録音もできないカセットテーププレイヤーなんて、誰が買うのか?と思われていたことでしょう。

 ところが、ウォークマンは世界的なヒットとなり、ヘッドフォンステレオという新しい市場まで開拓してしまったのです。もこれは「珍道具」ではなく、一般の普通の商品として認知されているわけです。もし仮に、今生きている消費者が家のオーディオで聞く音楽しか認めないような人だけであれば、ウォークマンは珍道具、もしくはイロモノとして認知されていたかもしれません。そう考えてみると、もしかすると「珍」な中には新しい時代を切り開くようなものが埋まっていたかもしれません。

 少なくとも、「笑い」だけは取れていたので、それで十分かもしれませんけどね。



2006年8月1週目 第114回 家賃が安い場所
 秋葉原に行っていつも思うのは、街の変化が速いなあということです。小さいころから今はもうなくなってしまった交通博物館に行っており、途中に大きなブランクを挟んだものの最近になってから、たびたび行っていますが、いつもそう思います。数か月見ないだけで知らない店やビルがポンポン建っているのです。

 欧米の都市と違って、日本の場合は町の風景がしょっちゅう変わってしまいますけど、現代の秋葉原ほど早く、大胆に変わって行ってしまう街も珍しいのではないでしょうか。東京全体が流行の再開発や埋め立てなどで風景が変わっています。その中でも秋葉原の場合は、テナントや店頭に並んでいる商品も含めて、すべての変化スピードが速くなっているように思うのです。

 秋葉原駅前の再開発も終わり、UDX、ダイビルといった大きくて近代的なビルが電気街を見下ろしております。周辺にもいくつか新築中のビルが存在しますし、表通りに面した古いビルは、これからも改装・新築が進んでいくでしょう。きっとあの一番高いビルの上から見た景色は、次々と変わっていって、定点観測でもしたら面白いんだろうなあと思いますが、こうやって綺麗なビルが乱立するようになると、地域の家賃相場が高くなるのではないでしょうか?すでに再開発とつくばエクスプレスのせいか、数年前から秋葉原の路線価は上昇しているようですし。

 思えば、新しいカルチャーというのは、家賃が安くて簡単に思いつきを実行に移せるようなところで大きく成長していくのではないでしょうか。たとえばニューヨークのSOHOやブルックリンなどは、賃料が安くて広いスペースを確保できたことから、さまざまなアーティストが集まってきたようです。

 新しく開発されてきた秋葉原のビルは、路地裏の怪しいジャンク系エロ系のものの延長線上にはなく、正当な世間的に認められる「ビジネス」が占領しているのでしょう。いわゆるオタク的なカルチャーがお金になるということに気がついたメジャーなものが、大挙して秋葉原に押し寄せているのか、もしくはオタク自体がメジャーになったのかは、オタク的なものをメジャーなものが追い落とそうとしているのか、私のような素人にはよくわからないのですが。

 ただ、高度に集積してきた文化的中心地としての秋葉原は、徐々にオタクカルチャーのショーケースのようなものへとなっていくような気がしました。つまり、その中からモノが生み出される場所、というよりかはいろいろな場所で生まれたモノが集まって、消費されていくための拠点である、ということです。もっとも、秋葉原で伝統的なビジネスである家電販売であっても、秋葉原で製造されていたものではないので、「ほかから商品を持ってくる」という構造自体は同じなのかもしれませんが。

 おそらく、将来は普通の家電を売っていたのでは、高くなっていくであろう秋葉原の家賃を出すことは出来ないだろうと思います。明らかに家賃その他のコストが高くなってしまえば、秋葉原で買うよりも郊外やネットショップの方が安くなってゆくでしょう。価格差を跳ね返すぐらいお客さんが集まって、仕入れた商品が高回転する可能性はありますけど、やはり高度なオーディオマニア向けの音響機器、デザイン家電のような高付加価値の家電でなければ売れなくなっていくかもしれません。

 秋葉原には、ハイセンスな消費者が集まり、情報が口コミ、ネットなどを通じてすぐに伝播されるということが、強みの一つでありましょう。それは、「おでん缶」がブームになったのに代表されることであるように、秋葉原で面白い商品を出せば、他地域に出すよりも消費者に見出される可能性は高くなりますし、情報が伝わる可能性も高いのではないでしょうか。

 つまり、街全体がショーケースのような商品の集積を通じて、単に買物をする場所から進化し、次第に消費者が得られる「体験・発見」へと主眼がシフトしていくのではないでしょうか。現にその予兆は今も見て取れます。

 たとえば近頃話題になっているような、メイド喫茶、毎週末に電気店で開かれるアイドルの握手会、毎日会えるアイドルをコンセプトにした、秋元康氏プロデュースのAKB48といったものは、秋葉原以外では得ることができない「体験」があるからこそのプレミアムがあるのです。それは「電気街」という名前やマニア向けの商品の集積地という印象だけでは捉えられない、「出会う(見つける)」という体験こそが、現状の秋葉原を支えているのかもしれません。

 価格.コムに代表されるように、ただの激安や商品のバラエティを考えれば、リアルの商店には勝ち目はないでしょう。地価の安い場所に大規模な倉庫を持つことができれば、在庫切れはありませんし、運送費を抜かせば随分と安く対応できるはずです。それは、いくら大規模化が進み、さまざまな商店が集積している秋葉原という街でさえ太刀打ちするのは難しいでしょう。

 意外性との出会い、という点では秋葉原というのは、近年秋葉原に進出してきたドンキホーテに似ていると思います。その商品を狭い場所に、熱帯雨林のように展示するスタイルもどこか似ていると思うのです。激安の街から、徐々に「消費という体験」を売るというスタイルへ移っていく秋葉原という街は、もしかするとこれから日本が進むべき道の一つを提示しているように思えてなりません。



2006年7月4週目 第113回 焼き畑農業的マンション
 一時期、不動産関係、主にマンションデベロッパーについて調べていたことがありました。マンションデベロッパーとは、その名のとおりマンションの開発業者のことですが、その時に「マンションデベロッパーの成功条件」ということをマンション業界に多少詳しい人に聞いたところ、こんな答えが返ってきたものです。

 いわく「適当な土地を見つけ出し、地主から安く買収し、早く安くマンションを建てて、すぐに売り切る。このサイクルさえ早く回すことができれば成功する」ということでした。

 その答えを聞いて、ちょっと嫌な感じがしました。土地を見つけて、売ってもらえるように地主さん相手に泥臭い営業をする、ということに嫌な感じをしたのではなく、つまり、このサイクルを回すということが、典型的な「焼き畑農業」タイプのビジネスだと思ったからです。

 焼き畑農業というのをご存じでしょうか。といいつつ私もやったわけではないので、実際のところどうなのか分かりませんが、ジャングルに火をつけて焼き、その火が消えた後の焼けた土地に作物を育てる農業ですね。肥料は燃やした植物の灰を使うので、肥しはほとんど使いません。ただ、肥しをしないので、その土地でずっと農業ができるわけでないので、作物を作ったらまた新しい土地に火をつけて畑を作っていきます。畑だった土地にはまた自然に植物が生えてきて、生えてきたところにまた火をつけて畑にしていきます。

 このサイクルは、人が少ないからこそ成り立つのですが、あまりに人が入りすぎてしまうと、自然の回復力よりも人間の開発力(焼き払ってしまう量)が勝ってしまい、結局は破綻してしまいます。いえ、破綻せずとも一人あたりの収穫は減ってしまいます。植物がまだ回復していないような土地にも火をつけることになり、その結果として痩せた土地に作物を育てることになり、収穫がどんどんと下がってしまうからです。

 つまり、建ったマンションから永続的に収益を得るというモデルが無いわけです。もちろんマンション管理やエレベーターの整備といった収益源はマンションが建った後にもありますが、どれも「コスト」と見なされており、いかに削るかという安売り合戦に陥っているわけですね。その典型が、その後に発覚したシンドラー社のエレベーター問題で、いかに安く、が安全を保つための一線を越えてしまっていることが一連の事故の背景にあります。

 結局は「いかに安く上げることができるか」が問題であり、いかに高品質のサービスを行って、住んでいる人達の問題解決に貢献し、その結果としてマージンを高くとれるか、ということができていないわけです。

 結果として、マンションに向かないような土地であってもマンションを建てたり、必要なコストまで削ってしまうような建築・管理が罷り通っていたりするわけです。早く安く作る、そしてさっさと売り切る、という部分で引っかかっていました。「そんな競争をしているのであれば、じきに問題が出てくるし、破綻してくるだろう。きちんとしたマンションを建てる、ということを前面に出し、永続的に儲けられるビジネスモデルを作るべきだ」と提案したものです。

 まあ、私の意見は結局は上司に無視されましたし、チームのコンサルテーションに何の影響を与えなかったわけですけど、数ヶ月後にヒューザーをはじめとしたマンション偽装事件が起こったのを見て「やっぱりな」と思ったものです。

 やはり焼き畑農業的なモデルでは破綻してしまいます。やはり継続的に利益をあげられる仕組みを作らなければ、「やったらやりっぱなし」になってしまいます。しかも、経営としては安定しない。自転車操業となればなおのこと、早く安くが重要になり、良いものをしっかり作るという物作りの良心が失われてしまいます(この二つの軸は必ずしも背反するものではありませんが、どちらかを優先すると片方を疎かにしてしまう傾向はあるでしょう)

もし、継続的に利益をとるような仕組みができていれば、自分の「金の卵のなる木」となるマンションをいい加減に建築し、欠陥住宅にしてしまうインセンティブも少なくなると思うのですが・・・。



2006年7月3週目 第112回 原風景とクリエーション
 クリエーターの作品には、元となった原風景があるように思います。

 例えば、デザイナーの佐藤可士和さんの作ったホンダ・ステップワゴンのCM。これは佐藤さんが子供の頃に体験した、海に連れて行ってもらおうとソワソワしている自分がモチーフになっているそうです。また、日本を代表するキャラクターにまで育った「ポケモン」は、その企画をした田尻智さんが子どもの頃にしていた虫取りがベースとなっているそうです。

 もちろん、人間は全くの無からモノを作り出すことはできないわけで、必ずそこには元ネタが存在します。その元ネタは、個人的な体験や思い出であったり、好きな音楽や映画やテレビ番組であったりするでしょうが、こういった元ネタをアレンジしたり、新しいエピソードを追加したりしながら自分の作品へと発展させていくのではないでしょうか。

 と考えますと、本当にオリジナルと言えるものは、そうそうありません。特に自分以外の人間も影響を受けていると思われるマスメディア経由のものをベースにしてしまうと、オリジナルを作り出すことはもっと難しくなるような気がします。

 つまり、引用やオマージュ、パロディとして活用することはできるでしょうが、全くのオリジナルな表現として成立させることは難しいのではないでしょうか。無論、そのネタ元を知らない人にとってはオリジナルに見えるでしょうが、マスメディアで既にイメージが大量に流布されおりますので、「オリジナル」として見てくれる人はイメージの流通量が増えるにつれ少なくなります。

 いや、たとえばアニメなどのオタク領域に入りますと、受け手側の理解能力も知識も高度なので、表現がオリジナルとして受け止められることは少なくなります。どんなシーンであっても、過去の有名な作品の影響を分析・評価されるでしょうし、作り手側も大量のアニメ作品を見ておりますので、それらの影響がない映像を作り出す、ということ自体が不可能なのかもしれません。むしろ、オリジナルな表現にこだわるのではなく、作り手も受け手と「元ネタ」を共有することで、相互に仲間意識を持たせるような表現もあります。

 こう考えてみますと、マスメディア経由の物をベースとしてしまいますと、新鮮な、オリジナルな表現というものを作り出すことは難しくなります。大量に流布されているイメージ「だけ」では、単なる引用だけに終わってしまうのではないでしょうか。

 ここで一味違うものを出すとしたら、やはり個人的な体験しかないと思うのです。こればかりは絶対に他の人とは同じではありません。たとえ同じ出来事を共有した他人がいたとしても、考えていること、感じていることは違いますし、そもそも視点が違います。

 もし、これが映像作品であった場合を考えてみると見ている視点、映像が違うということはありません。画面は一つですし。それが実体験となりますと、一人一人の眼の位置というのは違うわけで、同じ出来事であっても、まったく違うアングルから見ていることになります。この個人的な体験、オリジナルな体験こそが血肉の通ったリアリティーになるし、人々の共感を得られるような作品へと繋がっていくのではないかな、と思うのです。

 ところが、いまの都会を見てみますと、そんなオリジナルな体験は残されているのだろうかと暗澹となってしまいます。街の中は、すべて人間によってコントロールされており、それは体験そのものが誰でも予測が可能な範囲に限定されているということではないでしょうか。

 例えば、コンビニやファストフード店において予想外の言葉が返ってくることが考えられるでしょうか。大抵のものはマニュアルによって規格化されておりますし、私達もそれを是としております。

 人間だけではなく、周囲の環境であっても自然は計画的に残してあり、公園には計画的に樹木が植えられ、危ないところには計画的に柵がしてあります。まるでRPGの背景画像と変わらないぐらい、人の手が入っているのです。

 程度の差こそあれ、ここまで管理されていると都会であれば東京であっても大阪であっても地方都市であっても、ほとんどのものに変わりはありません。規模が違うだけです。日本中、どこに行っても同じような街において、オリジナルな体験をする余地が残されているのかどうか・・・。

 そういえば「事実は小説より奇なり」といいますが、なぜ奇なのでしょう。私が今思ったのは、それが人間によって管理されていないからではないでしょうか。人間の考えることというのは、やはり作者の「想定の範囲内」で展開されております。極端にいえば、作者の力量が最大範囲であります。ところが、事実は、そんな範囲もお構いなしで展開していく力があります。まさに想定外の展開が待っているのです。だから、「奇」だと思われるのでしょう。

 大人よりもなお、大人の「想定の範囲内」で活動を強いられる子供に、そういった「奇」は、あるのだろうか・・・とまで考えてしまうのです。すくなくともクリエーションには、「奇」がなければいけないのではないでしょうか。世阿弥のいう「珍しき花」ですね。珍しさのなかに「花」がある、という。それは他とは違うオリジナリティであり、人を驚かせる新規性であります。子供のときに、どれだけオリジナルな体験を出来るかが、下手に勉強漬けになるよりも重要なんじゃないのかなあ、と思うのですが・・・・。



2006年7月2週目 第111回 消費しているのにしないもの
 自分で言っておきながら意味が分からず、だいぶ後から自分の言いたかったことが何だったのかに気がつく、ということが私にはよくあります。その時には上手く説明できなかったのだけれども、その時のメモをあとから読んでみると「ああ、君はこんなことを言いたかったわけね」と、過去の自分に教えてあげたいような。

 ということで、決してネタに困ったわけではないのですが、そんな体験を思い出しながら、今回は書いてみようかと思います。

 私は、いつも無印良品で売っているA6サイズのノートを持ち歩いています。どんな些細なアイデアでも何でも、思いつくと片端から書き込むようにしております。現時点で14冊を数えていますが、ほとんど見返すことはありません。それでも、たまに見返すと面白いことが書いてあったりします。

 それが、今回のタイトルでもある「消費しているのにしないもの」です。これは、まだノートに振られたナンバーが一桁台だったころのことです。「これからの時代は、消費しているのにしていないものが流行る」という風に思いついて、片っ端から周りの人間に力説していました。

 その頃はまだ、この「紺洲堂通信」のようなコラムを作っていなかったので、周りの人たちはかなり迷惑だったと思います。なおかつ「それってどんな意味?」と聞いても「うーん、なんかそんな気がする」とかしか言わないのですから、なお迷惑です。自分でも分からないなら言うな!と言いたいところで誰一人相手にしなかったのも今ならば理解できます。

 手帳を読み返した今の私には、当時何を言いたかったのかが分かります。つまり補足すると「消費活動(経済活動)は存在しているのに、地球の資源を消費していない(もしくは少ししか消費していない)」ということです。地球資源の有限性は、それこそローマクラブの「成長の限界」*の昔から言われ続けていることです。再生できない有限資源を使ってしまうようなビジネスには、永続性がありません。永続性がないということは、そのままでは、どこかで破綻してしまう危険性があるということです。

 一方、実際に私たちの生活を見ても、ある程度の便利な製品はすでに普及し終わっています。戦後すぐの時のように、ほとんどモノがない、あるいはモノがあっても戦災で焼けてしまってゼロからの出発であるならば、人々の欲しがる商品というのはそれこそ「すべて」です。安く、良い品を大量に供給するという松下幸之助さんの「水道哲学」のような世界です ね。これは、あくまでも「すごくノドの渇いた人がたくさん世の中にいる」という時代には、とても世間に喜ばれた哲学であったはずです。

 ところが、いまの日本にはノドの渇いた人は少ない。いても水道を飲む人は少ない。たいていは自動販売機でお金を出してお茶やコーヒーを買います。水を飲むとしてもミネラルウォーター。つまり、もう安く品物を大量に供給するだけではいけない段階まで、かなり以前から入りつつあるのです。

 たとえ、そうした「お金を出す、ちょっと高くて良いもの」であっても、陳腐化する速度は増してきます。たとえば、最先端技術を駆使した電化製品であっても、儲けられるのは本当に短時間で、そのうち数社のメーカーが入り乱れた消耗戦になっているようです。デジカメしかり、薄型テレビ然り、携帯電話然り、最近はHD-DVDレコーダーも値段が下がってきております。たいていは量産化に成功したり、製品開発が既存商品をベースにしたり、といった経営努力で値段を下げているのでしょう。ですがデジカメに関して言えば、過当競争に陥ってきたため利益はかなり薄くなってきているようです。

 だからこそ、モノ(資源)を生産・消費するというビジネスでは、なかなか将来が見込めない。だからこそ「消費しているのにしていないもの」が流行するだろう、というのが私の言いたかったものなのですね。

 じゃあ、どういったものがあるか。サービス業など人間の作業によって回るビジネスは、人間がいる限り大丈夫でしょう。それに「消費していない」と思われます。IT関係もそうですね。人間の知恵をベースにした知識産業も有望だと思われます。ということは、エンターテイメント関係も挙げられると思いますが、人口減が確実視されている日本だけを市場にすることはできないでしょう。必ず制作段階から海外展開を視野に入れて行われるはずです。

 もしくは、モノを新しく作り出せる産業も「消費していない」どころか、新しく価値を生み出していることで有望と言えるでしょう。農林水産業ですね。ただ生物資源は、あまりに乱開発してしまうと資源の再生を損ないますので注意が必要です。また、リサイクル事業も有望でしょう。近年は資源の値段が上がってきたことで、新しく資源を掘ってくるよりも再生したほうが得になりつつあります。

 だいたい、年間数百万トン単位で輸入される資源は、どこに消えているのでしょうか。すべて製品に姿をかえて輸出されているわけでもないでしょうから、日本国内には、かなりの量の資源が存在するはずです。いわば鉱山がそこかしこに眠っているようなものでしょう。と書いていますと、「風の谷のナウシカ」などの作品で、古代の科学文明の遺物を掘り出して使っているようなシーンを思い出してしまいますけど

 究極的にいえば、人生は食って寝て、何十年暇をつぶして死ぬだけのことです。食うもの、寝るところ、ひまつぶしは、やはり「消費しているのにしていないもの」の御三家じゃないかなあ、と思うのです・・・・・。



2006年7月1週目 第110回 ザッハーホテルのカフェにて
 今年も、そろそろ東京ビッグサイトの聖地で祭典が開かれる季節がやってまいりました。皆さん、今年も貯金をしていらっしゃいますでしょうか。

 私が、CONS@WORLDの常連さんであるToshi+さん、美弥雅さんたちに感謝していることの一部は、ディープなオタク文化に、世に先駆けて触れさせてもらえたことでしょう。一番良い例がコミケに連れて行ってもらったことと、昨今話題の「メイド喫茶」が秋葉原に数年前、誕生した直後に訪れることができたということです。

 私にとって秋葉原は、それまで「交通博物館」や電化製品を買いに行くだけの場所であり、いわゆる「オタク文化」のディープな世界とは隣り合わせであったにもかかわらず踏み込むことがなかった領域でした。もしみなさんに連れて行ってもらえなかったとしたら、おそらくこういった先端分野を知ったのは、世間で話題になってからだったかもしれません。

 ということでメイド喫茶、メイドカフェの話です。

 すっかり「電車男」や村上隆などの影響から秋葉原的な文化がメジャーになってしまい、世間から好奇心と冷ややかな目とともに見られることになってしまったメイドカフェです。初めて、出来たばかりのメイドカフェに連れて行ってもらった後にオーストリア(カンガルーがいない方)を旅行しました。

 ウィーンから電車で3時間ほど行きますと、ザルツブルクという街があります。クラシック好きの方には有名な街で、何といっても天才モーツアルトの生まれた街として有名ですね。モーツアルトハウスの近くには、ザッハーホテルというホテルがあります。ここは、ウィーンに本店がある高級ホテルなのですが、このザッハーホテルの名物が「ザッハートルテ」というケーキがあります。ザッハートルテに関しては、Meine Lieblings "Sachertorte"に詳しいので、ご参照ください。

 そのザッハートルテをウィーンのザッハーホテルで食べそびれてしまったので、中に入ることにしました。ですが、中は満員。お客さんが話している声を聞いてみると、ほとんどアメリカ人です。アメリカ人の中高年の人が、ホテルの一階カフェを占拠しており、我が日本人はほとんどいない。もう少しで空くというのでしばらく待ってからやっと座ることができました。

 ここからが、ようやく本題です。実は、ここのザッハーホテルのカフェの制服が、ちょっとメイドっぽかったのですね。黒を基調にしたスカートのメイドっぽい服に、効果的にレースや前掛けの白が配置されている感じです。だいぶ前なので詳細は忘れてしまいました。もし、どなたか写真がありましたら紹介してください。

 それを背の高いオーストリア人の女の子が着ているのです。しかも、夏休みのバイトで地元の高校生がやっているような感じで、純朴さがそこはかとなく漂ってくる。これは、ある種の人にとっては「たまらない」かもしれません。

 その時、私は思いました。
ザッハーホテルのカフェ制服を着た高校生のバイトっぽい、背の高い女の子に対して、はたしてオーストリアの地元の人は「萌える」のか。あるいは、あういは、本人たちは「萌え」の対象物として消費されることを自覚するのか?ということです。

 おそらく、その前に見たメイドカフェにおいては、制服を「萌え」として消費する人たちがお客として来店し、「萌え」として消費されることを前提に制服を着ている店員(メイドさん)がいるわけでしょう。

 この場合、萌える方、萌えられる方が存在することで「萌え」が成立しているような気がするのですが、はたして両者ともに「萌え」ではなく、単なるカワイイ制服だとしか認識していない場合は、萌えは成立するのか・・・・と思ってしまったわけです。

 たとえば、Toshiさん達に連れて行ってもらった「アンナ・ミラーズ」の制服の「萌え」はどう認識されているのかが、ちょっと気になります。あの場合は、客と店員双方に「萌え」意識がある場合ない場合が混在しております。たとえば、普通のおばちゃんは「萌え」という対象とは見ていませんが、Toshiさんたちは「萌え」として見ているかもしれない。また、店員の方も、そういうコスチュームだという自覚がある人とない人が混在しているかもしれない。そのようなところでは、萌えは成立するのでしょうか・・・・。

 以前、アンミラで食事していたところ、夜11時からのニュース番組を担当している白髪のキャスターが来店するのが見えました。はたして、彼のなかには「萌え」的な要素があったのか・・・・・。つまり、このシチュエーションは「萌え」といえるのでしょうか、ということを、ここ1年半ぐらい考えていましたが、ちょっと結論は出ません。「わびさび」と同じように、それを感じる人が見立てることによって成立する感覚なのかもしれませんけど・・・。

 そういえば、最近ではboominが紺洲堂通信で紹介していたような執事喫茶が出てきているようですが、新しい「萌え」はなのでしょうか。ちょっと気になったりします。といいますか、もう「萌え」は古いのでしょうか。そのあたりも、ちょっと教えていただきたいものです。祭典の時に教えてください!