2006年上半期(1月〜6月)


2006年6月4週目 第109回 どこまで増えればよいのだろうか
  ここ数年、やはり少子化が問題とされております。内閣には少子化対策担当大臣とかいう役職も作られ、政府は「少子化社会対策関係予算」と称して、どこが少子化に役立つか分からない予算まで「少子化」の名の下に出され、総額1兆3千億円あまり。

 しかし、どうもよくわからない。

 どんなに今のような少子化対策をしても無駄だと思うわけです。経済学的に考えれば、子供が減ったのは、子供を持つことに対して負のインセンティブが働いているからでしょう。しかも、計画的に「出産するか、しないか(避妊や中絶)」を選べるようになったため、よけいにインセンティブの効果が高く出てしまっている。つまり、「できちゃったから仕方なく」ということで子供が生まれる可能が、昔より減ったということです。

 負のインセンティブとは、経済的な負担であったり、自分のライフスタイルが変えられることに対する反発だったり人それぞれだと思いますが、「子供を持つ」インセンティブと「子供を持たない」インセンティブを比べて、子供を持たないインセンティブが高ければ子供を持つ人が少なくなるのは自然の成り行きです。

 本当に少子化対策をしたいならば、中絶・避妊を禁止して最低二人の子供をもうけないと所得税の税率をバカ高くする(結婚せず、子供を持たない人から可処分所得を奪うことで、子供を持たないインセンティブを減らす)、3人以上生めば補助金をドンドン出す、育児にかかった費用は国から補助が出る、ぐらいしないと無理でしょう。

 では、少子化を解決したところで、日本の人口は、どこまで増えればよいのでしょうか。現在、地球上の資源は枯渇しつつあります。しかも、温暖化による気候変動があり、環境破壊も止まらず、このまま食料が確保できる保証もありません。現に、水産物の水揚げは乱獲によって減っており、農産物は世界的な水不足、砂漠化、灌漑のしすぎによって農地が塩性化して使えなくなる、など様々な問題を抱えていますし、それが解決に向かっているというニュースも聞いたことがありません。

 いま、政治家になっている人は自分が少子化対策をして増やした子供が、死ぬまで食料を確保できるような政策を立てた上で、対策を推進しているのでしょうか。この一点を見るだけでも、少子化のことをとやかく言うのは時間の無駄でしょう。むしろ、少子化こそが一人っ子政策などせずに増えすぎた人口を減らしている、「ヒト」という生物の知恵なのかもしれません。

 もし食料なんてカネでどこからでも買える、という人がいたら、それは典型的な戦後生まれでしょう。戦争直後の食糧危機の時代、カネだけで食料が買えたかどうか。都会では、みんな生きるギリギリの食料しかなく、買出しのために農村へ出て物々交換をしたといいます。だいたいカネなんぞは紙切れですから、インフレになってしまえば、結局は何も買えないのです。

 戦争直後がまだマシだったのは、食糧事情が急速に改善されて、危機が一過性のものだったことです。経済が落ち着き、占領軍が大量の小麦粉を持ち込んだことで、すぐに食べ物は確保できるようになりました。

 しかし、これからの食糧危機は当時とは違うでしょう。戦後すぐのような「地球上の食料の配分が偏っている」ために起こったものではなく、食料の絶対数が足りない為に起こるものだからです。となると、飢えた人が一定以上死んで、世界の人口が適正サイズになるまで続きます。餓死なのか、食料をめぐる戦争なのかわかりませんが、のんきに「少子化が問題だ」と言っていられるレベルではないのです。

 また、適正サイズまで減るといっても、人間は座して死を待つようにはできていません。きっと、取れるものは全て取り尽くして死んでいくでしょう。取れる野生生物はすべて取り尽くして。環境を徹底的に破壊し、食糧生産のための環境を再生不可能にしてしまえば、一定サイズまで減ったとしても、もはや人類の生き残りは無理です。全員が死んでしまう。

 もっと言えば、こんな状況下では食料をカネでは買えない可能性も高いわけです。どこの誰が、自分が死ぬか生きるかの瀬戸際で、日本の作ったデジカメやら自動車やらと食料を交換してくれるのでしょうか。食料の余剰がある国から食料を買うとしたら、きっと日本の黒字など吹っ飛ぶくらいの高値で売りつけられかねません。米と物々交換できるものをすべて失ってしまった戦争直後の家族のようになってしまう。

 いっそのこと、ガンダムの世界のようにスペースコロニーをつくって余剰人口を宇宙に移住させる、というなら少子化対策もわかります。増えた人口はいくらでも宇宙(そら)に打ち上げれば済むのですから。そうでなければ、下手に「少子化が問題だ」といって、貴重な税金を使わないでいただきたいものです。

 ここまでのことを考えて政策立案しているか、かなり疑問ですねぇ。



2006年6月3週目 第108回 ノーベル賞に挑戦する。
 boominがイグ・ノーベル賞について書いたので、私も個人的な体験としてノーベル賞に挑戦したことを書かなくては、と思います。なに、誰でもその気になればノーベル賞に挑戦するくらい簡単です。挑戦するだけなら、誰でも出来ますから。しかも、今からだって出来るのです。それが、このhttp://nobelprize.org/games_simulations.htmlです。

 実はノーベル賞が、自前でゲームを作っておりました。どういったゲームかといいますと、今までのノーベル賞にちなんだゲームをプレイすることで、受賞者の業績を「楽しく」勉強しようという趣旨で作られているものです。物理、化学、平和など、いろいろな分野を題材にしたゲーム、どれも・・・・・。どうでしょう。ゲームの質は、とやかく言わないことですよ。挑戦することに意義があるんですからね。これならば、誰でもノーベル賞に挑戦することが出来ます。

 ただし、すべて英語で書かれておりましたので、英語の良い勉強になるかと思いますが、純粋にゲームとして楽しむには微妙な内容。いや、ノーベル賞にではなく、英語に挑戦すると考えれば、そんなに悪くはないと思いますよ・・・・・。



2006年6月2週目 第107回 トイレの清潔度を考える
 かなり前なのですが、トイレの清潔度について考えたことがありました。トイレが綺麗 か汚いか、その度合いを考えてみた場合、以下のように表すことが出来ないか、と。

トイレは
@使用する人の所得平均が高ければ、より清潔
A使用する人数(回数)が少なければ、より清潔

 まあ、当たり前と言えば当たり前なのですが、使用する人が金持ちなら、トイレは清潔になる傾向があります。いや、別に金持ちの方がトイレをキレイにつかう、ということじゃなく、「清掃のレベル」が使っている人たちに左右される、ということです。例えば、高級ホテルや高級レストランのトイレは、いつもキレイです。つまり、利用する金額が高い場所に来る人たちは金持ちであれば、トイレは立派に作ってありますし、掃除も行き届いている、ということです。

 それに、トイレは通常使われる使い方以外に、汚される危険性があります。「便所の落書き」といわれるように、公衆トイレに性格が近くなれば近くなるほど、「荒らされる」確率が高くなる傾向にあります。落書き、タバコによる焼け焦げなどですね。これらも、周囲に、きちんと管理者がいるかいないか、によっても左右されそうです。

 常識で考えてみても、高級レストランのトイレで落書きをする人は、いなさそうですし、利用金額の高い場所にはきっちりと管理する人が近くに居ます。ただし、例外もあり、店の人が目を光らせているような小規模の飲食店のトイレで落書きする人もいないでしょう。ただ、全般的な傾向として、利用料の高い場所のトイレは清潔になる傾向がある、ということでしょうか。

 では、2番目はどうでしょう。これは、単純に考えてみてもわかります。みんなが頻繁に使うトイレは汚くなりますし、ちょっとしか使わない場所は、そんなに汚れません。また、いくら利用料が高い場所であっても、利用者が多ければ清掃が追いつかないので、汚くなりがちではないでしょうか。

 ということを、なぜ考えたかといいますと、ジブリ美術館のトイレを見て思いついたのです。この三鷹の森ジブリ美術館のトイレは、いつ来ても、とても清潔なのです。開館して5年ほど経つのですが、それでもキレイなままなのです。これは管理が行き届いているなあ、といつも感心していたのですが、そこで思いついたのです。

 つまり、来てくれる人に「清潔だな、すごいな」と思わせるためのトイレのベンチマーク(比較する目標)として、この2つのルールを使えないだろうか、と。ジブリ美術館は入場料大人1000円、入場者数は1日2400人限定です。それでも、普通の映画館よりも清潔に保たれております。まあ、比較的清潔じゃなく、絶対的に清潔ですけど、そのレベルは1000円、2400人のレベルを超えています。

 もし、私が店を営業していて、客単価が3000円、店のトイレを使う人が1日に100人だったら、と考えます。するとトイレの清潔度の目標は、客単価が5000円程度、トイレを使う人が70人ぐらいの店、ということになるでしょう。そのレベルの店を見てみて、それと同等、もしくは良いぐらいに掃除をすれば、「この店って、トイレが清潔」と言われるのではないでしょうか。少なくとも、それを目標にしてもいいんじゃないかな、と思います。



2006年6月1週目 第106回 情報を得るということ
 情報化社会です。
 使い古されておりますが、現代は情報化社会です。

 特に、インターネットが普及した90年代から始まったIT時代の波は、情報へのアクセスを簡単にし続け、その情報量も拡大し続けております。株式市場を見れば、IT関連株が話題になることが多いですし、一度起きたITバブル崩壊も、世の流れを止める事はで来ませんでした。

 さて、私は「情報化社会」と聞くと、ある昔話を思い出します。「一寸法師」です。御伽草子にある一寸法師ではなく、普通に子供時代に読んでいた絵本なのですが、鬼に飲まれた一寸法師が、鬼の胃の中で暴れまわったり、目を刺したりとチョコチョコと素早く走り回って攻撃し、ついには鬼をやっつけてしまう、という部分です。

 情報化とは、鬼と一寸法師で例えてみますと、決して一寸法師が鬼のような体力を持つ、ということではありません。一寸法師でも素早く動き、相手の弱点を突くことで、無駄なく最大限の効果を発揮して戦うことができる、というイメージ。

 恐らく、一寸法師は鬼よりも、はるかに相手に対する情報を持っていたはずです。チクチクした攻撃に弱そうだ、弱点は目や胃だろう、といったことですね。一方、鬼のほうはそこまで一寸法師の弱点を把握していなかったような気がします。でなければ、わざわざ「食べてしまえばやっつけられる」とは思わなかったはずです。鬼の目からすれば、あまりにも小さくて、相手をちゃんと把握していなかったのかもしれません。

 ところが、現代の社会では情報を得ることについては極端に進んでしまったのですが、肝心の「活用」については進んでいないように思うのです。例えば、会社では未分析のデータが山積みされていたりするのは珍しくありません。一般的にインターネットで読むものは気晴らしが多く、「明日から、こういう風に使えるな」といった建設的な情報を得て、活用していくケースは少ないのではないでしょうか。せいぜいが雑談のネタぐらいで、本当に必要な情報を調べる時ぐらいしか、「使うための情報」をインターネットから得る事は少ないような気がします。

 情報は、ただ集めればよいのではなく、かならず検証・分析などが必要になります。生のままのデータから、いかに役に立つインサイトを出していくか、という部分です。そのインサイトは、たとえ同じデータからでも、分析者や調査結果を必要とする受け手によって別のものが得られることもあるでしょう。情報化社会は、もはや情報を流したり集めたりすることが重要なのではなく、その流布しているものから独自に考え、判断することが重要になってくるのです。

 一寸法師の例でいえば、鬼の弱点を把握するだけではなく、その中から自分の針の剣で攻撃できる箇所(目や胃)を選び出し、自分の素早さを生かしながら攻撃を実行することで、初めて実りある結果を得ることが出来るのではないでしょうか。

 情報は誰でも得ることが出来る、だからこそ、その情報をいかに価値のあるものへと昇華させることができるか、が情報化社会に生きる全員に降りかかってくる問題なのかもしれません。それは分析力なのか、他の情報とのミックス力なのか、プレゼンテーション力なのか、プロモーション力なのかはわかりませんけど。

 と考えていますと、なにやらboominが日々研究しているアポロ計画から得られた月面情報の分析と似ていますね。



2006年5月4週目 第105回 何を残すか
 「虎は死して皮を残し人は死して名を残す」ということわざがあります。権力者であれば、なおのこと後世へも自分の名前を留めておきたいと思うのでしょう。エジプトのピラミッドは異説があるので断定はできませんが、中国の始皇帝陵や日本の古墳、日光東照宮。墓でなくても大規模な建築を残した権力者は多いですし、大きな建造物は自分の偉業を長く伝えてくれるものでしょう。いわば、その人が生きた証なのです。

 権力者に関わらず芸術家にも言えることで、彼らの生きた証とは、創作した作品が伝えられていくことです。名前が伝わっていないような無名の芸術家、市井の職人から、レオナルド・ダ・ヴィンチのような偉人に至るまで、後世に伝えられていく作品は、製作者たちの存在証明なのです。

 これらは、いずれも文化遺産と呼ばれて未来永劫伝えられていく価値があるもの、と認識されております。もちろん、その前に「これは伝えるべき価値があるものだ」と判断される過程があるでしょうけど、できるだけ残していくという方向で保存・修復がされております。

 「生きた証」を残せるのは偉人や文化人だけかと言われると、一般の人であっても残すことは出来ます。例えば子孫を残す、財産を残すといったことですね。もしくは、黒澤明監督の「生きる」のラストのように、世の中の為になる物を残していく、というやり方もあるわけですから。

 では、「金持ち」の存在証明とは、何になるのでしょうか。これは、その人の作った会社が存続すること、とも言えるでしょうが、これはなかなかに難しいものです。長い期間の中でビジネス環境が変わってしまい、倒産・買収の憂き目に会うものも少なくありません。日本でも名門と呼ばれた金融会社がバブル崩壊のあおりを受けて、いくつも倒産してしまった事は記憶に新しいですね。

 海外の金持ちになりますと、美術や文化のパトロンになる、という形で、自分の名声を後世に伝える、というやりかたもあります。美術館に、自分の集めた書画骨董を寄贈することで、自分の名前を碑に刻んでもらう。

 もっと大きくなりますと、自分のコレクションだけでミュージアムや劇場、大学まで作ってしまう。もちろん、社会的貢献、チャリティーという側面もあると思います。それでも、こうして自分の名声を移ろいやすい「カネ」だけではなく、「人類への貢献」へと伸ばすことによって、後世へと伝えてもらいたい、という部分もあるんじゃないかな、と思うのです。

 日本にも、かつては自分の集めた美術品で美術館を建てたり、あるいは公立の博物館に寄贈されたりする方も多く居たようです。ブリヂストン美術館、出光美術館、川村美術館、根津美術館などは、名だたる事業家が私財を投じて集めたコレクションを展示していますし、東京国立博物館などに行きますと「寄贈:○○氏」という文句を見ることができます。

 近頃、流行している「セレブ」という人の行動を、テレビや雑誌が面白おかしく伝えておりますが、その範囲内だけで見てみますと、どうも彼らの行動は、後世に残っていくような動きが感じられないのです。ライフスタイルにおいて、ファッションやブランドなどは海外のものが多く、自らのものを作り出し、発信していこうという部分が薄いのです。

 結局、欧米で流行しているスタイルを、ただ持ってきているように見えてしまう。まるで鹿鳴館のようで、後世に影響は残すけれども、そのもの自体は残っていかないように見えるのです。それは、はからずも現代の刹那的な世情を反映しているから、と言えなくもないでしょう。

 ですが、ただ消費して何も残らないということについて、今後はおそらく気がついて「自分の名声を後世に残す」ような動きが増えていくのではないかな、と思うのです。例えば、チャリティーとか・・・・って、それも欧米セレブの真似かもしれませんけど。



2006年5月3週目 第104回 電話の世界
 休日、地下鉄に乗っていたときの事です。

 ある駅で最後に乗り込んできた中年の女性の方が、ケータイで話すのを止めないのです。地下鉄なのですぐに駅から離れれば圏外になってしまうのに、手で口を覆い隠しながら話し続けておりました。ちょっと常識外れですが、ただ漫然と話しているわけではなく、うつむき加減でじっと話している感じで、普通では無い雰囲気もしますが事情は分かりません。あのオバサン、何を話しているのかなあ、そんなに大切なら要件を済ませてから乗ればいいのに、と思っていた矢先、

「誰ですか!携帯で話しているのは?」

 との声が聞こえてきました。

 見ると私の向かいに座っているお爺さんが大声で呼びかけています。オバサンは、お爺さんとは別の方向へと向きなおして、強情にも電話を止める気配すらありません。すると、お爺さんは再び、

「誰ですか!携帯で話しているのは。電車の中は携帯禁止ですよ!」と。乗客一同、今度は止めるだろうと思ったのですが・・・やはり止めません。

 やがて電車が動き出しまして圏外に入りますと、さすがにオバサンの通話は強制終了になりましたが、ちょっと私は考えさせられました。

 なぜか、携帯電話で話している人の声は、うるさく聞こえてしまうように思うのです。

仮に電車内にて大声で話している人が居たとしたら、このお爺さんは「公共の場では静 かに!」と注意したのでしょうか。ちょっと分かりません。騒いでいる子供を注意する老人は見たことがあるのですが、他の乗客と話している人を注意する老人は、きっと存在するのでしょうが、私は見たことがありません。

 私の見た光景では、オバサンは確かに車内で通話しておりました。それなら乗るなといいたいわけですけど、もうじきトンネルの中に入って不通になるので話すのを止めるだろうと推測されますし、口を覆うなどして、なるべく迷惑にならないように気をつけている感じはしました。大声で会話している乗客よりもうるさい音量ではありませんでした。

 しかし、私もお爺さんと同意見で、うるさく感じてしまったのです。なぜかと考えてみますに、やはり電話で話している相手の声が聞こえないことでしょうか。もし、相手の会話が聞こえるのであれば、我々周囲の人間も、その重要性を理解し、大目に見ていたかもしれません。

 たちは悪いのですが「盗み聞き」をすることも出来ます。ですが、一方的な喋りを聞かされれば、それは文脈を押さえられませんから「会話の断片」というよりも、単なる騒音として認識されるのではないかなあと思いました。

 また、電話で話している人を見ますと、どこに意識があるかと考えたとき、それは「話している相手」に対してあるものではないような気がするのです。それは、話している双方が、肉体はその場にあるにもかかわらず、「気」は電話の世界といいますか、電話で話されるバーチャルな空間へと飛んでいるのではないでしょうか。それが端的に表現されているのが映画「マトリックス」で、主人公たちがバーチャル世界へと出入りするツールとして固定電話が使われているのは、このことを象徴的に示していると思います。

 そう考えれば合点がいくもので、やはり「心ここにあらず」の人が車内で騒音を撒き散らすと、余計に自分たちが除け者にされているように感じてしまうのかな、と思います。

 従来の固定電話は、話す場所が決まっておりました。「電話をし続ける人」は一種、通常の空間から隔絶された場所にて会話をしていたはずです(例えば、電話ボックスは典型例でしょう)。ところが、コードレス電話や携帯電話によってその約束事は取り払われ、どこでも「電話の世界」に飛ぶことができるようになりました。電話で話すときには、「電話の世界」へ全ての意識を飛ばすのではなく、多少は「現実世界」へと残しておく必要がありますね。



2006年5月2週目 第103回 資源大国ニッポン2
 資源大国ニッポンへ転換するのは、難しいことではあります。今の社会システム自体が、すべて「使い捨て」を基準にして作られている以上、社会の隅々まで大転換することが迫られます。生産から廃棄まで、そのすべてに莫大な転換費用がかかるでしょう。ですが、いち早く資源大国化を成し遂げられれば、世界を技術的にリードできると思うのです。

 世界的に見ても、BRICs(ブラジル、ロシア、中国、インド)や南アメリカ諸国、アフリカ諸国が経済発展していけば、いずれは資源が足りなくなる事は目に見えています。どうなっても結局、埋蔵資源を使うよりも再生資源を使った方が安くなれば、再生資源の活用を進めざるを得ません。

 現代のように、短期間のうちに世界のマネーが集中することで局所的なバブルが生まれやすいグローバル社会ですと、発展途上国が急激に工業化することも珍しくなくなるでしょう。そうなれば、意外と短期間で資源の消費が伸びてしまう可能性も捨て切れません。特に、金余りとなって消費が伸びづらい先進国に比べ、発展途上国には強い需要が存在します。需要につられて資金が集中することで、一夜にして先進国並のライフスタイルが登場することは、十分に考えられます。

 そうなっていきますと、ますます日本の「ものづくり」や「資源確保」の競争相手が増えますし、資源を大量に消費する生活スタイルが拡散してしまう。皆さんご想像のとおり、現在の先進国並みの生活をすべての人間が楽しむ事は出来ません。だからこそ、率先して資源のない日本が再生資源の活用に先鞭を付けることで、後から発展してくる国々が環境に負荷をかけない形で生活を構成できるようにしておくべきなのです。

 また、こうした再生資源を活用する部分を特許や技術でカバーしてしまえば、世界中で使われる再生資源から日本がパテント使用料をとり続けることができます。例えば、再生資源の生産基地を日本の資本と技術で世界の国々に建設すれば、その国が発展すればするほど莫大な利益がもたらされるのです。

 また、エネルギーのみならず、製品の再生におけるスタンダードを確立し世界各地の日系工場を通じて広めることに成功すれば、日本の都合のいいようなリサイクルシステムが完成されるでしょう。そうなれば、リサイクルなどに及び腰な某大国を出し抜くことさえ出来ます。

 私は、個人的には炭素繊維がこれからの日本を支える素材だと思っています。炭素繊維とは、最新の旅客機などにも使われている最新素材で、石油から作られた原糸を窯で蒸し焼きにすることで強度を持たせた素材です。身近なところですとゴルフクラブのシャフトにも応用されており、とても軽くて丈夫な素材です。

 通常は、この炭素繊維を織ったものに樹脂をしみこませて使用します。どれも現在はプラスチックを原料に使っておりますが、これをすべて植物由来(国内で自給できるものであれば、なお良い)に換えることが出来れば、いくらでも炭素繊維製品を生産できるようになるのではないでしょうか。しかも、炭素繊維の技術をリードしているのは日本の会社なのです。

 いくらリサイクルに手を尽くしても、やはりどこかでリサイクルに乗らないものが出てきます。再生資源を生物から生産する。その開発には人的資源が欠かせません。人材育成にも長期的な視野で取り組み、資金を投資していく眼がなければ、オイシイところを他人に持っていかれてしまうことでしょう。

 少なくとも、構造を転換して国内の産業全体の競争力を確保していくのが政府の務めです。東証一部上場企業の好決算が相次ぐ昨今、だんだんと再生可能資源へ転換していくことを政府が積極的に支援し、あわよくば日本の技術力で発展途上国の経済成長をリードしていき、基幹部分を日本画握ることで利益を守っていこうという姿勢があれば、もっといいのでしょうけど・・・・。



2006年5月1週目 第102回 資源大国ニッポン1
 日本は資源大国です。決して小国ではありません。

 と言い切ってしまうと話が続きませんね。ですので、今回は資源とは何か、ということを考えてみたいと思います。大辞林によれば「自然から得られる生産に役立つ要素。広くは、産業のもととなるもの、産業を支えているものをもいう。地下資源・水資源・海洋資源・人的資源・観光資源など」とあります。

 「など」と言われると整理できませんので、「地上にあるもの」「地下にあるもの」で分けてみたいと思います。

「再生できるもの」文字通り、再生できるものです。辞書のいう「人的資源」「観光資源」や「生物資源」が上げられるでしょう。水資源も、保全すれば湧き出てきますから、上げられると思います。

「再生できないもの」地下に埋まっている鉱物資源や石油・石炭・天然ガスといったエネルギー資源があげられるでしょう。一度使ったら、おしまいという資源です。

 じゃあ、海洋資源はどうかといいますと魚など漁業資源は再生可能、海底油田などは再生不可能と考えてください。

 日本は資源小国だ、ほとんどの資源を輸入に頼っている、とは小学生でも知っている事実です。それを書くネタが切れて、苦し紛れに何を言い出すか、と言われるかもしれません。ですが、考えようによっては、日本は資源大国だと思うのです。

 いままで「資源」といえば、主に地下資源について言うことが多かったように思います。鉄鉱石など金属資源、石油などエネルギー源などですね。これらは工業製品を作り、文明生活を維持する上で欠かせませんでした。それらが無ければ、我々の、いまの生活は成り立ちません。

 ですが、最近の傾向から言いまして、資源の枯渇は眼に見えているわけです。原油高は言うに及ばず、やがて世界中の鉱山は掘りつくされてしまうでしょう。現に、一部の宝石類などは良質のものが取れにくくなっているそうです。永久に地下から湧いてくるものではないので、いつかは限界が来てしまうでしょう。

 ですが、持続可能な社会、持続可能な経済成長を目指すのであれば、こういった有限資源の多寡は問題になりません。金属は出来る限りリサイクルすることで、半永久的に活用することが出来ます。新しい鉄鉱石を大量に輸入しなくても、需要を賄えるようになるはずです。

 石油などのエネルギー源であっても、同様でしょう。原子力、自然エネルギーといった再生可能(原子力は厳密に言えば再生可能ではないですし、廃棄物問題があるので、それほど良いものではないですけど)なエネルギーを使うことによって、再生不可能なエネルギーに頼る割合は減り、問題ではなくなります。

 プラスチックのような石油を原料とする材料も、植物を原料としたものが出回りつつあるようです。生分解プラスチックなど、植物原料のプラスチックの中には、地中でバクテリアによって分解されるエコなものもあります。

 となれば、他にどのような資源が残っているかといえば「再生可能な資源」ですね。すべてが結局、究極的には「再生可能な資源」に行き着くのではないでしょうか。となりますと、日本が小国だと思われている部分が相対的に軽くなりますので、資源大国は目指せるはずです。人的資源や豊かな自然、文化などが、これからの資源大国には求められるのではないでしょうか。

 人間が生きていくうえで重要なのは、やはり美しく豊かな国土であり、そこに住む人間の力であるといえるでしょう。再生可能な資源を育て、来るべき持続可能な社会へと社会を転換していくのが、真の「構造改革」であると思うのですが、如何でしょうか。

 別にけなすつもりは毛頭ないのですが、資本金1円で株式会社を設立できるようになったことなど、どの程度の構造改革なのか、是非とも教えていただきたいものです。