2005年下半期(7月〜12月)


2005年12月4週目 第101回 様式としての「お笑い」C
 様式芸(例:あるある探検隊)というお笑いのジャンル、ボケとツッコミ、お笑いのオリジナリティについて書いてきました(まだの方は、前号までをご覧ください)。

 ツッコミ芸自体は、単体では存在することが出来ません。当たり前ですが、ツッコむ対象(相方・共演者・素人・事件など)がなければツッコめないはずです。だからこそ、何が来ても「ツッコミ」を入れるだけで芸が成り立ってしまいます。さまぁ〜ずの三村さんの「○○かよっ」というツッコミは端的ですが、何かが来たときに「○○かよっ」と言えば芸が成立します。

 前回も書きましたが、それが一つの様式芸の要素を持っている、もっといえば「事象」に含まれている「お笑い成分」を顕在化する数式が「ツッコミ」芸だと言えるでしょう。

●ボケは「お笑い成分」を持つ「事象」を作り出す、もしくは平凡な出来事に対して「お笑い成分」を付与する

●ツッコミは「事象」に含まれている「お笑い成分」を顕在化する

と、ここまでの文をまとめてみたいと思います。

 では、ツッコミにはオリジナリティがないか、と言われれば、無論「否」です。

 漫才の場合、いかにボケがボケようとも、それに対して適切なツッコミができなければいけません。「最低限の仕事」であれば簡単なのですが、それ以上を目指そうとすると、やはりオリジナリティが必要になってきます。「くりぃむしちゅー」の上田さんのような比喩を用いてツッコミを入れる、など、お笑い芸人のツッコミにも特色があります。「最低限」から、いかに自分ならではの「ツッコミ様式」を確立するか、はツッコミにとって重要課題と言えるでしょう。

 ツッコミが顕在化させなければ、観客が「笑うポイント」をスルーしてしまうかもしれませんし、面白みに気づかれない可能性すらあります。それを防ぎ、かつボケの笑い成分を増幅させるのが「ボケを生かすツッコミ」とよく巷で言われているものでしょう。

 さて、ツッコミ芸には、様式芸やボケには真似できない、美味しい部分があります。

 それは「他の人の芸を引き出す」ということです。ツッコミは「事象」に含まれている「お笑い成分」を顕在化する、と書きましたが、これは対象である「ボケ」が居なくても、他のものでも良いのです。相手が何であっても「ツッコミ」が成立するわけですから。

 いかにボケの芸を引き出すか、ということで磨かれたツッコミの芸は、いわば「トーク番組の司会者」には非常に役立つスキルなのです。タモリさんや島田紳介さんといった司会者は、いかに共演者を「いじる」ことができるか、が問われます。会話の流れの中で、いかにツッコミスキルを活用し、共演者の違った面を掘り起こし、笑えるネタに昇華させることが出来るか、が非常に求められているのです。それが、いわば「お笑い成分の顕在化」に該当する部分といえます。

 もっと言えば、何が来ても「顕在化力」さえあれば、番組を成立させてしまえる、ということです。いわば、庶民の使っていた日常の器を「茶器」に見立てて茶器の価値を一変させてしまった千利休と同じことでしょう。

 それまでは高価な中国からの輸入品である「青磁」などを用いていたものを、朝鮮の普通の人が使っているような茶碗を抹茶茶碗として使い、「わび」「さび」という価値観を導入したことで、茶道を芸術にまで高めた事は有名です。利休は日常の器の中に美を見出し、ツッコミ司会者は共演者に「お笑い成分」を見出しているのです。

 それは、自分が何かを直接クリエイトしなくても、「見出す」ことさえできれば付加価値を生み出すことが出来る、という点において学ぶべきことがあります。自分で付加価値を作り出すのではなく、そのものが本来的に持っている価値を顕在化することで、付加価値を高めることが出来るのです。利休の場合は「見立て」ですが、これが国際的な空間移動であれば「貿易」となるでしょう。貿易は、より「高く」売れる国へと品物を持っていくことにより、そのもの自体を変質させずに付加価値を与えることが出来るのです。

 しかも、この司会者体制が確立すれば、かなり長期間にわたって番組を維持することが出来るのです。コンテンツを提供してくれるのは共演者(しかも目まぐるしくメンバーは入れ替わる)で、彼らが新鮮なネタを提供してくれるので、司会者は料理していけばいいのですから、長期政権は維持できるのです。つまり、自分自身がクリエイトする、ということは飽きられるリスクが高いかもしれませんが、「お笑い成分を見出す」というコアコンピタンスさえあれば、長期にわたって番組が維持できるわけです。

 デパートには老舗企業が多いですが、まさに「ツッコミ司会者」と同じと言えるのでは無いでしょうか。デパートは自社のバイヤーが売れるものを仕入れてくるという部分と、場所をブランドに貸し出すという場所貸しの部分があると思います。

 つまり、前者はセレクションによって、自店でより売れるものを見出すわけですから、「事象にお笑い成分を見出す」という司会者に共通しており、後者は「バラエティ番組でキャラの立つ若手芸人(デパートの場合は有力海外ブランド)を入れておけば視聴率が取れる」という部分で共通すると思うのです。極論すれば「勢いのあるブランドに場所さえ貸しておけば儲かる」という話ですね。一時期、デパートが軒並み景気が悪くなりましたが、まさに後者の場所貸しだけで独自性を打ち出せなかったのが要因ではないか、と言われたこともありました。「司会者なんていらないんじゃない?ただ立っているだけでしょ」と言われたわけですね。

 だからこそ、この「見出し」と「場所貸し」の要素が長期にわたって維持する秘訣ではないのかな、とテレビを見て思うのです。



2005年12月3週目 第100回 様式芸としての「お笑い」B
 先週までは、「様式芸」(代表例:あるある探検隊)の特徴と展開についてでした。詳しくは前回までを参照してください。

 では、様式芸で生き残る事は出来るのでしょうか。これはなかなか、難しい問題であります。というのも、今、冠番組を持っている芸人さんを考えてみると、様式芸人は皆無のように思えるのです。ビートたけしさん、明石家さんまさん、タモリさん、爆笑問題さんらゴールデンに冠番組を持っている人は、すべて様式芸ではありません。

 様式芸の芸人さんには、その様式芸で出てきたゆえに様式に縛られてしまい、バラエティー番組で要求される機転や「仕切り」の能力を磨くという機会を逸しているのかもしれません。そこから一頭地抜き出るためには、長井秀和のように「間違いない」を、極力自分から出さないようにするしかないのでしょう。

 では、様式芸以外の、作りこむ芸とは何が違うのでしょうか。

 大きな違いは、真似ることが困難であるということでしょう。たとえば、みなさんは「爆笑問題」「アンタッチャブル」や「くりぃむしちゅー」を真似ることができるでしょうか。

 一発芸的なものは真似ることが出来ると思いますが、彼らの漫才を真似る事は、一般人には非常に難しい。その上、仮に真似られたとしても、それを「爆笑問題のネタ」と見ている人に解釈されない恐れも十分にあります。見事に演じきったとしても、「それって、爆笑のネタ、そのままじゃん」と言われてしまう、つまりオリジナルのネタではないことを指摘されることを考えると、どうも出来の悪いコピーから抜け出すのは容易ではありません。

 その点においては、一般市民に真似され「消費される」に時間がかかるのでしょう。

 真似しにくいという点では、これらの非様式芸人のネタは流行語にはなりにくいわけです。もし彼らの芸で流行語になるのであれば、あくまでも一発芸、一発ギャグなのです。

 漫才でもさまぁ〜ずの三村さんのような「○○かよっ」といったツッコミは真似できますけど、それはツッコミという芸自体が「様式芸」の要素を多く含んでいるからに他なりません。「なんでやねん」「いいかげんにしなさい」「そんなことあるかい」といったボキャブラリーはツッコミ芸の共通言語ですが、極度に単純化すれば、この3つさえ適切なタイミングで言うことができれば漫才は成立するのです。すなわち「どんなものでも、その様式に入れてしまえば芸が成立してしまう」点においては、様式芸と共通しているのです。

 そこで思い出されるのは、ナムコが開発したアーケード用ゲーム機「つっこみ養成ギブス〜ナイスツッコミ」でしょう。画面に流される実在の芸人さんのネタにあわせて、ゲームセンターに置かれた人形に適度なタイミングでツッコミを入れる、というゲームです。ビートマニアに端を発するリズムゲームの亜種ですが、ツッコミが様式芸であることを、よく表しているように思います。

 では、真に真似されることの無い芸というものが、存在するのでしょうか。これは、なかなか難しい疑問ではあります。様式芸や決め台詞などを真似ることは簡単に出来ますが、いわば「作りこむ」タイプの芸の「ボケ」は真似することが難しいのではないでしょうか。なぜならばその「ボケ」方にオリジナリティが隠されているように思うからです。一つの事象について、いかに捉えるか、といういわば個々人の内面に属している問題だからです。

 ボケがどう料理するか、どこに面白いものを発見するかは、いわばセンスに属するものです。ツッコミは、そのボケに対して、適度にツッコミを入れさえすれば成り立ちます。言い換えると、ボケのリズムを把握し「なんでやねん」と云うだけで最低限の仕事をすることができるのに対し、ボケはフリーハンドである分だけ難易度が上がるのです。どうボケるか、については決まった方式がない印象がします。

 もちろん、「芸風」を確立すれば、その方程式に事件を入れるだけでボケが作れるということでボケ作成難易度が下がる面もありますが、基本的にセンスが勝負、というところがあるでしょう。

 この、フリーハンドが様式芸にはないのです。様式芸は、様式を持つからこそネタを量産することができますし、一躍人気者になることもできますが、フリーハンドで勝負することができない。自分たちが決めた様式以外のものに対して対応できないのです。しかも、そのフリーハンドで勝負することこそが、瞬発力を必要とするバラエティー番組で求められている能力なのです。真似されないということは、すなわち何らかのコアコンピタンスを築き上げたから、と考えても良いでしょうが、それはボケに隠されているのでは無いでしょうか。

 と考えますと、なにやら日常の仕事におけるマニュアルの扱い方の参考にもなるような気がしますが、そのあたりは私がとやかく言うことでもないですよねえ・・・。



2005年12月2週目 第99回 様式としての「お笑い」A
 前号の続きで、様式芸について述べてみようと思います。

 様式芸とは、その様式にしたがっていくらでもネタを生産できる、芸人さんの芸です。「あるある探検隊」などが代表例ですね。詳しくは前号をご覧ください。

 様式芸、実はお笑いに限ったことではなく、美術の世界では多く見られます。例えば、キュビスムを例に取りましょう。ピカソやブラックが始めたキュビスムという美術運動は、平面の絵画に、多方向から見た物体を再構成するというコンセプトで始まりました。つまり、物体をいくつものキューブへと解体し、様々な方向から見たモノの形を画面上に表すというものですね。おかげで絵としては、いくつもの奇妙な形、四方形が並ぶことになります。1907年に発表された、ピカソによる「アヴィニョンの娘たち」が、その嚆矢です。

 ということは、このコンセプトで描くことをマスターすれば、いくらでもキュビスム絵画ができる、ということです。当時の画家は、この最先端の手法を競って学びました。が、やがて短期間で廃れてしまいます。誰でも彼でも同じような絵を描くことで、様式自体が消費されてしまったのでしょう。元祖であるピカソ自身でさえも、キュビスム絵画を描いていたのは10年もありませんでした。

 一時期に大流行し、すぐに廃れるという点は様式芸にも当てはまることです。それは、波田陽区自身が「自分は一発屋」と公言していた(と記憶しておりますが)ように、まさに一発屋となる危険性が非常に高い。

 確かに、彼は公言したとおりの展開を見せておりますように、様式芸は消費されることが早いのです。しかも、短期間にテレビ出演を重ねてしまうと、新しいネタを仕込むことができなくなり、同じネタを使いまわさざるを得なくなります。すると、さらに視聴者にとっては「もう、そのネタは見た」と消費されるスピードが加速するわけです。

様式芸人は、いかに様式芸がヒットしたときの露出を活用し、いかに転身(ネタを考え なくても量をこなせるバラエティのトーク要員、ドラマや映画への出演、歌手など)できるかで生き残りが決定されるのでしょう。

 これらは企業戦略にも共通していることですね。会社でも一発芸的に当たってしまった本業だけでは、成長の限界がきてしまいます。それには社会や消費者の嗜好の変化であったり、そもそもその分野での市場規模が飽和状態に達したりといった要因が考えられます。

 重要になってくるのは、本業で稼いだキャッシュにより、いかに新規事業や多角化を進めて、さらなる成長を見込むかといった点ですね。トヨタであれば、豊田自動織機が自動車へ、トヨタ自動車が携帯電話や住宅へ参入したりしましたが、そういった新規事業を育てることで、本業の成長率が鈍化したときの保険をかけているわけです。(もちろん、新規事業を成功させる難易度は高いのですが)

 中には本業に徹するという考え方もあります。「あーあんあやんなっちゃった♪」のウクレレ漫談で有名な牧伸二さんは、様式芸人のなかでも長寿命を誇る、数少ない例です。彼の公式HPによれば「'60年、文化放送「ウクレレ週刊誌」のレギュラー司会者となり「やんなっちゃった節」が爆発的な人気を呼ぶ」とありますから、ほぼ半世紀にわたって様式芸を守り続けているわけです。京都の老舗和菓子店のようなものでしょうか。決まった市場のパイの中で伝統を守り続けて生きていくという戦略です。

 あるいは様式芸を先鋭化するという道もなくはないのですが、いくら同じ様式でネタを作ったとしても、市場が飽和状態に達している限りは、もはや完全な自己コピーでしかありません。はなわが「佐賀県」から他都道府県へとネタの先鋭化の試みましたが、その成長の限界を感じ取り「ガッツ石松ネタ」へとネタを開拓したことによって一線へ踏みとどまったのは、貴重な成功例だと言えるでしょう。

 視聴者に消費されつくす前に、「はなわ」の持ちネタである「ベース弾き語り」というケイパビリティを「地域・田舎」という領域から「ガッツ石松」へと展開することにより「ベース弾き語り」という芸を延命させました。「佐賀県」と「ガッツ」ネタは似通った様式芸ではありますが、全く同じ芸ではないということも参考になると思います。ネタの対象が異なることによって、他のバリエーションが生まれるわけです。

 Amazon.comが書籍の通信販売から、徐々に音楽CD、DVDやゲーム、電気製品へと扱 う品物を拡大することで成長を加速させているように、扱う対象を増やすことで、さらなる成長を望めるのです。その点では「あるある」ネタのバリエーションを増やす(アマゾンに喩えるなら、取り扱う書籍の点数を増やす)ことは、あまり成長に寄与しない戦略だと思われます。

 ただ、この戦略が必ずしもヒットするとは限らず、テツandトモの「全部ウソなのね」がヒットしなかったように、またこれはこれで問題点もあるようです。

以下次週。



2005年12月1週目 第98回 様式としての「お笑い」@
 ここ数年、お笑いブームといわれて久しいのですが、流行語になるようなギャグは、かならず様式があるように思います。ここ2〜3年で見ても、以下のものが挙げられます。

テツandトモの「なんでだろう〜」
いつもここからの「悲しい時〜!」
波田陽区の「○○ですから。残念〜。○○斬り!」
長井秀和の「間違いない」
レギュラーの「あるある探検隊」
オリエンタルラジオの「武勇伝、武勇伝」
レイザーラモンHGの「○○フー!」

 これらに共通する事は、「様式(スタイル)を盗めば、誰でもできる」ということでしょう。皆さんは、これらの芸人の真似をコミュニケーションツールとして活用した事があると思います。

 これら「様式」を真似る事は非常に楽なのです。一般人でも簡単に作ることが出来ます。思い当たるものを○○に入れれば完成できる「あるあるネタ」といいますか、日常生活で思い当たる節があるものを○○に入れれば、何でもネタとして活用することが出来るので、ギャグを作成する敷居としては「漫才」と比べてみると、かなり低いはずです。これが、一般に広まるときの強烈な武器となります。これらを「様式芸」と、この文では呼ぶことにします。

 もちろん、昔から「飛びます飛びます」「ガチョーン」などの一発ギャグはありましたが、これらは「様式芸」ではありません。つまり「ギャグそのもの」であり、自分流にアレンジできる「様式」を持っていないのです。素人の作った、オリジナルネタとしての「飛びます飛びます」は、不可能であり、もし手の運動をオリジナルにアレンジしてしまうと、もはや坂上さんの「飛びます飛びます」とは認識されない、別のものになってしまうのです。

 もっと言いますと、一発芸は子供が学校などで真似をすることは考えられますが、大学や会社の宴会などの芸として成り立たせるのは難しいのです。モノマネとしては成立するでしょうが、少なくとも多少のオリジナリティを加味することで、宴会芸として演者がアレンジして披露するのは無理でしょう。その点、様式芸なら子供から大人までアレンジして楽しむ余地を持っております。

 一発芸と様式芸の違いは他にもあります。
 それは、「間」です。「コマネチ」だけでは間がもたないのです。文字通り一発で終わってしまいます。

 様式芸の場合、無限に繰り返しが効くのです。前述のネタ、いくらでも繰り返せます。つまりバリエーションを重ねることで、いくらでも間が持つのです。「いつもここから」のように「夕日が沈むとき」、「波田陽区」の「切腹〜」といったように最後になんにでも付けられるオチを入れる、という様式があることも忘れるべきではないでしょう。

 ネタのバリエーションが重ねられられる利点は「出版に適する」ということにも反映されます。いくらでも同じ様式に沿ったネタを生産できるので、自分のネタを「ネタ本」として出版する機会も多くなるのです。消費者にとっても、まだ見ぬネタを本の形で楽しむことも出来ますし、ネタのいくつかを自分のものにして披露することもできます。

 無限に繰り返しが効く、ということは、また「いつでも一部分だけ取り出せる」ことでもあります。バラエティ番組で若手の様式芸人が「ちょっと○○やって」といってネタを披露するシーンは頻繁にありますが、これらも様式芸の強みですね。つまり、どのネタでも短い時間で「自分の様式」をアピールすることが出来るのです。

 自分のネタというのは、いわば芸人にとっての名刺のようなものです。「やるせなす」の「いしいちゃんです」、「雨上がり決死隊」の「宮迫です」、「カラテカ」の「アーイェー、オーイェー、オレ、イリエ」など、自分を売り込む為の自己紹介ギャグは数多くあります。

 それらは、確かに自己紹介としては成り立ちますが、汎用性には乏しいのです。一般人の「石井さん」が「いしいちゃんです」をやったところで、果たして面白いか、という問題がでてきます。それは、「石井さんの自己紹介ネタ」ではなく、あくまで「やるせなすの石井ちゃんの自己紹介ネタ」ですから、他の人が使うという事は滅多に無いでしょう。

 一方、様式芸人の場合、自分の様式芸自体が紹介ギャグのようなものですから、いくらでも出来ますし、モノマネされることによって自分のネタを直接見たことのない人にも、知ってもらえるという効果があります。以下次週。



2005年11月4週目 第97回 不幸自慢
「自慢」自分のことや自分に関係のあることを他人に誇ること(大辞林)

 自慢をすると、大抵嫌われます。嫌われずとも「あら、よかったですわね」と反応されるぐらいでとどめられ、当人の期待する賞賛と羨望のまなざしは高確率で、期待できません。

 その中でも、他人の賞賛、とまではいきませんが指弾はされない自慢ジャンルがあります。それが、不幸自慢です。たとえば睡眠時間の少なさ、持病の多さや重さ。勉強時間の短さ、体脂肪の多さ、ネットゲームの廃人度、若いころのやんちゃなエピソードなどでしょうか。

 当人にとっては必ずしも不幸なことではない場合も含まれると思いますが、「人にプラスの意味で自慢できるものではない、ネガティブな価値を持つ」という点では、広い意味での「不幸自慢」に入れても大丈夫でしょう。

 面白いのは、同じ自慢であっても、こういった不幸自慢は反感を持たれません。それは、聞いた人が感心する反面、決して自分から「積極的に、なりたい」と思わないことで、自慢者に対して優越感を持てるからだと思います。持病の糖尿病が重い、と自慢されたからといって、糖尿病になりたいとは思いません。逆に「資産が600億円」と自慢されますと、一般的には嫉妬しますし、自分もそうありたいと願うはずです。これが、不幸自慢の特色でしょう。

では、話している本人は、どういう精神で、自分の恥部とも言える部分をさらけ出しているのでしょうか。

1.雄雄しく耐える自分のヒロイズム
 これは、やむをえない部分もあります。自分がつらい状況にあることを、少しでも「自慢」によって軽減しようとする行動ともいえます。あわよくば、どこかから、よりよい解決策が示される可能性もあるわけです。

2.人生修行の先達としての説教
 人間、どこか後輩には説教し、人生訓を垂れたいものです。ですが、よほどの成功者では無い限り、その人の人生訓や哲学を他人が聞きたいと思う事は稀でしょう。第一、 その人自身も「人に誇れる人生の成功」を収めていること自体が稀なわけです。となると、やはり失敗談や不幸自慢によって、自らの「人生訓を垂れる」という欲望を満足させたいわけですね。聞くほうとしても、変な手柄話よりも面白く聞けるということもあり、素直に聞くようです。

3.露悪趣味(自分を悪く見せたい)
 よく、自分がいかに悪かったか、を見せたいという欲もあります。盗んだバイクで走り出し、ケンカしたり、アレしたり、といった、要するに武勇伝ですね。どんな不幸でも乗り越えてきた、という武勇伝ですが、これが2番と異なるのは「自分がワルだった」という部分を自慢したいというところでしょうか。

 まあ、もしかすると他にも不幸自慢の理由・効用はあるかもしれませんが、総じていえます事は、普通の自慢は嫌われるが、不幸自慢という形をとれば、すくなくとも聞いてもらえるかもしれない、ということですねえ。



2005年11月3週目 第96回 顧客満足度!?
 「お客様満足度」「顧客満足度」、俗に CSと呼ばれているものがあるのですが、どうもしっくりこないのです。いや、わかりますよ。顧客が買った製品に対して満足しているかどうかを調査する、というものですし、顧客アンケートを実施したり、クレーム件数を調査をしているのですから、理屈としては分からなくも無い。

 ただ、満足とは、字を見ると「満ち足りる」ということですから、本来ならば「私の欲望は満ち足りました。もうこれ以上望みません」という状態ではないでしょうか。

自動車を買ったとします。すると、「顧客満足度」というのを極論すれば、「オレは、この車に満足だ。他の車なんかに乗る気なんてさらさらない。だから、オレは死ぬまでこの自動車を大切に乗り続けるぞ!」というのが「最高の顧客満足」なのではないか、と。

 その状況を目指して製品を開発・製造してしまいますと新車・新製品を買ってもらえなくなってしまう。かといって某電機メーカーのように「タイマー」をセットして一定期間を経ると自壊してしまうと、それだけでお客さんの批判を招きます。

 まあ、タイマーは冗談だとしても、すぐに壊れてしまっては、お客からもそっぽを向かれてしまいますね。もともと、日本のメーカーは「丈夫で長持ち、壊れないし高性能なのに安い」ということで、経済戦争を勝ち抜いてきたわけですから、急に壊れやすいものを作ってしまっては自らの築き上げてきた信用を切り売りすることになります。

 しかし、「丈夫・長持ち・壊れない・安い」という顧客満足の価値と、新しい商品をどんどん開発して買ってもらう、という企業にとっての価値は、いつも相反することになります。今までは、新製品を出すことによって、前のモデルを「陳腐化」させることに、メーカーや広告会社の戦略がありました。つまり、いくら顧客が気に入っていたとしても「それは古いですよ」という価値観を注入することによって、常に最新機種を買ってもらう、ということです。

 よく、日本のゴミ捨て場には使える製品が山積みになっているということが言われますが、まさにその「陳腐化現象」が、日本の中でかなり成功した、ということなのでしょう。こういった状態を見ますと、「自動車の顧客満足度」といわれてもなあ、と思ってしまうのです。

 本当に顧客満足の高い製品の製造を目指すならば、顧客自身が死ぬまで愛用したい、と思うでしょうし、メーカーもその思いに答えられるだけの体制を敷かなければならないと思うのです。特に、これから新製品を開発する場合、地球環境の限界を考え、ランニングコストが低く、リサイクルもしやすいものを作らなくてはなりません。

 これには、主に2つのアプローチがあると思います。一つは、100%リサイクル可能な新製品を大量に供給する、ということ。今の大量生産・大量消費社会の延長線上にあるものですが、顧客としては多くの新製品を使えますし、よりよい技術を楽しむこともできます。しかも100%リサイクルできるので、飽きたらすぐ「ポイッ」と捨てることが出来る。捨てたものは「公園の偽木」なんてマニアックものではなく、すぐに元の製品と同じ用途でリサイクルされるのです。これは、エネルギー問題が解決されれば(原子力か自然か知りませんが)、なかなか持続可能性において有望なアプローチではあります。

 もう一つは、長く製品を使うというアプローチ。つまり、満足する製品を、「もうこれ以上は使えません」というところまで大切に使う。新しいものは極力買わず、使えるものを使う、という形です。人類は、つい最近に大量生産大量消費社会を築く前までは、こういった生活をしておりました。LOHASにも繋がるような考え方ですけど、そうなると今、工場でモノを作っている人たちの職が無くなってしまいます。なんといっても、自分を含む人間全体が、大量消費社会から戻ることを納得できないでしょう。

 もちろん、この2つのアプローチは両立できますし、むしろこの2つをいかにミックスさせていくかが、これから企業が財・サービスの提供を考えていく上で重要なのではないかと思うのです。



2005年11月2週目 第95回 知らなければいけないことが多すぎる
 近頃、知らなければいけないことが多すぎると思うのです。やれ、BSEだ、耐震偽造だ、靖国だ、尖閣諸島だ、竹島だ、メール事件だ、ともかく知らなければならないことが多すぎます。情報も多すぎる上に、どれにもこれにも有識者は「重大な事態だ、これでは日々も安心して暮らせない」と深刻な顔でつぶやきます。

 やれココアがいい、ポリフェノールが良い、コエンザイムQ10がいい、青汁、DHA、カルシウムにマグネシウム、ロイヤルゼリー、よくこれだけネタがあるなと呆れるほどに知らなければならない健康食材は、まるで身の回りにあるすべての食品を取り上げなければ気が済まないほどに、つぎからつぎへと出てきます。

 知らなくてはいけないものが多すぎるのです。

 この上に学校や仕事で必要な知識・ニュースまで詰め込んでしまったら、一体何が残るのでしょうか。知らない事は恥では無いのかもしれませんが、知らないことで世の中に落伍してしまうわけです。不利益を被ってしまうのです。すべて自己責任。恥ではないが、損は自分で被るしかないのです。

 ヒトが1日に処理できる情報の臨界点は、とっくの昔に過ぎています。昔のような噂話や言い伝え、坊主の説教ぐらいしかなかった時代ならいざしらず、もはやすべてを理解し、記憶しておく事は不可能です。

 お任せできる専門家を、各分野に1人ずつ雇うことができないかぎり、この情報の網に取り込まれてしまうでしょう。医師、弁護士、会計士、税理士、なんとかアドバイザー、なんとかプランナー、なんとかコンサルタント、と一体何人の情報編集者が必要なのでしょう。

 ところが、高い金を出しても、その人たちが絶対的に正しく、なおかつ正しい情報を持っているかなんて保証できないわけです。もはや、カネを出せば済む、のではなく、カネを、より多く出してBEST PEOPLEを雇えた者が勝者となってしまう時代に移り変わっていくのかもしれません。

 医師も弁護士もナントカも、足りない場所は足りないのです。どこに足りないか。そ れは、お金が無いところです。絶対的な金額が足りない、報酬額が仕事に見合わないところには、すべからく市場の原理が働いて、足りなくなってしまう。

 だからこそ、なぜ国があるのか。
 なぜ国を作ったのか。
 国は、国民は何をすべきか、
をカイカクを叫ぶ前に問い直す必要があるのではないでしょうか。フランスやアメリカのように自由・平等の為に血を流して作った国では無いからこそ、一人一人が国について考えなければならないのです。指針なき、ビジョンなき改革は、結局、行き当たりばったりの、気がついてみたらワケノワカランものになってしまうのでしょう。だからこそ、ちょうどいいところでストップをかけられるだけの常識、見識を持たねばならないと思うのです。



2005年11月1週目 第94回 虚業とは何か
 例のホリエモン事件において、かのL社が「虚業だ」と言われているのが気にかかるのです。つまり、虚業とは何か、ということです。

 虚業とは、すなわち汗水たらして働いていない職業ということでしょうか。近年、昔のような「汗水たらして」仕事をするというケースも減っていると思うので、汗をかかないだけですと、判断基準に無理が生じてきます。

 辞書を見ますと、「堅実でない事業」(大辞林)とありましたが、堅実でない事業と言われましても、いまいちよく分かりません。

 反対語の「実業」には、こうありました。

「農業・商業・工業・水産業など、生産・販売に関わる事業」

 つまり、生産・販売に関わらない事業が「虚業」ということなのでしょう。こうなっ てくると、ますます分からなくなってきます。L社を「虚業」と糾弾しているマスコミ自体が虚業なのではないか、ということです。

 まあ、マスコミが虚業であること自体は、昔から言われ続けたことですから、そんなに意外なことではないのでしょうが、今の世の中「生産・販売に関わる事業」というものがすべてなのでしょうか。

 例えば、銀行や証券といった金融業、医者、教師、プログラマーといったサービス業は生産・販売には関わっていないような気がします。こういった職業も、やはり虚業なのでしょうか。あるいは、L社は、その「株」を販売することで利益を上げていたのですから、販売に関わるということで「実業」と言えなくはないのでしょうか。

 つまり、実業も虚業も、あまり意味を成さないような気がするのです。「虚業」の条件である「堅実」かそうではないか、は「無理な投資・事業拡大をしない」という判断基準が作れると思います。それを入れるとすると、L社はあきらかに虚業でしょう。すると、商業なのに無理な投資・事業拡大をしたスーパーのD社も虚業ということになってしまうのです。

 では、何が無理な投資だったのか。それは、その投資が失敗した場合にのみ言えることでは無いでしょうか。もし成功したならば「リスクを取った果敢な挑戦」と成功事例として言われていたかもしれません。株式市場でも、投資が一定基準より過大であれば「○○社は虚業」というレッテル張りをしなくてはなりません。

 財務的な観点から言って無理な投資というものがあることは分かっていますが、世間一般が企業を「虚業」として非難しているのは、どうも結果論でしかないような気がします。それを言ってしまいますと、何だって虚業なのです。汗水たらして働いても、倒産の原因となってしまうような投資をすれば「虚業」ということになってしまう。

 世間一般では、会社の様々な面を見て「あれは虚業」「あれは実業」と判断しているのでしょうが、それだって人によるわけですから、よく分からないのです。

 とにかく強制捜査から逮捕に至るまでで、あれだけ手のひらを返したように非難論調一色になってしまうマスコミだけは、間違いなく「実」の無い「虚業」だと改めて思った次第。



2005年10月4週目 第93回 追いつけ追いつけ
 この通信、言いだしっぺの私が4ヶ月以上貯めてしまって、いまはもう3月です。これは、いくらなんでも無責任、とは重々承知しているのです。

 編集長boominから電話がかかり、催促の空気がひしひしと伝わってきます。かといって、多忙はあまりいいわけにはしたくないわけです。半ば公然の秘密として始めてしまったブログの更新はマメにしているわけですから(しかも美術系の)。

「ブログ読んでいるけど、随分、文化的な生活をしているんじゃない?」
その通りです。

 編集長からは「いままで貯めた分はチャラにして、今週分から書いたら?」と何回も提案されているのですが。

 よし、ここは覚悟を決めて3月までの分を書いてしまいます。貯めていては、いつ書いたかも分からなくなってしまいますからね。

 この通信が滞ったのも、「ハイクオリティしか目指さない。原稿用紙5枚分ぐらいの長さしか書かない」といって書くのを考え過ぎていたからだと思うのです。

 もちろん、以前と比べて、しっかりと考えて書く、考えを深められる時間も余裕もなくなってしまったからですが、それならばアイデアを中心にして、書きながら考えてもいいと思ったのです。クオリティは落とさず、分量を落とし、考えながら書く、と。

 始めた以上はboominのばかり更新されている状況はあきらかにまずい。「週刊紺洲堂通信」のカンバンに偽りありです。

これでは「Weekly boomin Time」と「不定期!紺洲堂通信」名前を変えられてしまっても文句が言えないわけで。近々、物凄い勢いで更新されると思いますので、乞うご期待!



2005年10月3週目 第92回 不愉快カラオケ
 カラオケというのは、毎回行くたびに、距離感がつかめずに困ります。

 歌う事は、声楽を習っていたぐらい好きですし、「他人の前で歌うのはずかしい」という意識もありません。

 よくいるでしょう?

 音楽の歌のテストで、みんな一人一人、前に出てきて歌うのが恥ずかしいのに、なぜかうきうきしている、歌の上手い自己顕示欲の強い子。私も、そんな小学生でした。

 でも、やはり曲順を待つ、なんともいえない間というか、喋るわけにもいかず、他人の曲を聞いている時間の過ごし方がしっくりとこないのです。やはり、ベストは、一 緒に盛り上がる、一緒に歌うということですよね。共に歌い、共に楽しむ。これこそ、きっと昔は火を囲んでおこなっていただろう、人類誕生以来の宴会の正しいあり方ではないかと思うのです。

それでも、曲名を繰っていると、なんだか自分の世界に入っているようですし、どうも距離感が掴みづらい。

 特に、他の人が全く知らない曲を歌ってしまうと、それこそ一緒に歌うことも出来ない自己陶酔の場と化してしまいそうなのがネックです。これがムチャクチャ上手けれ ば「こんな良い曲があったんだ」と新しい発見が出来ますし、みんながチェックしてい ないような新曲なら「ああ、こんな曲が流行っているんだ」と知らせる(歌唱の上手下 手ではなく、流行についての情報を与える)こともできます。

 それでも、万が一、他人のカラオケ選曲に対して不満を覚えたとしても、
「くだらない」
「何が面白いんだ、こんな曲?」
「ビートルズの中でも駄作だよね」

 というなんぞ言語道断です。たとえ、そう思っていても口に出さないのがオトナでしょうし、良い関係を築こうとカラオケに行くことになった人同士のマナーではないでしょうか。

 先日、ある集まりで一緒になった人に、私はそうやって貶されましたけど。そのくせ、その人は「受験生ブルース」(年齢は、これを知っているぐらいのいい大人です)を嬉々として歌って、「くだらないんだけど、好きなんだよナ」。

 だから、カラオケは一人が一番だと思います・・・。自分の好きな選曲で、好きなだけ歌うことが出来ますから。気を使うことも、距離感を掴むことも不必要ですし。それに3時間ぐらいぶっつづけますと、良い運動になりストレスも解消されると思うのですが。



2005年10月2週目 第91回 スゴイ禁止!
 かなり以前より、気になっていることがあります。それが「スゴイ」なのです。

 例えば、レッサーパンダが立っても「スゴイ」、雪が降っても「スゴイ」、誰かがシュートを決めても「スゴイ」。何でも、この一言で片付けられてしまうのです。テレビを見ますと、私は、これが気になってしかたがないのです。何があってもこの言葉。出演者は、それ以外の言葉を知らないのか、と思うぐらい連発されることもあります。何がすごいのか、なぜすごいと思うのか、それがどれぐらいすごいと思えるのか。

 そういったことを何も言わなくても、状況が成立してしまう魔法の言葉です。個人的な感想の必要性を排除して、ただ自分の感心したということだけを表出させる言葉が「スゴイ」なのでしょう。

 これは、以前、このコラムでも書いた韓国人のお爺さんの話にも繋がります。

 彼曰く「文法的には『凄く美味しい』が正解だが、近頃、日本から来る若い子は、みんな『スゴイおいしい』と言う」とのこと。つまりスゴイとは形容詞ではなく、何にでも使える、便利な単なる記号として使われているということなのでしょう。

 テレビの場合は、仕方がない側面もあると思います。自分が関心のない分野だったり、大して面白くもないと思うことであったりしても、何か言わなくてはなりませんし、何かしらのリアクションをしなくてはなりません。泣ける話であれば涙を浮かべ「スゴイ」、美味しいものを食べれば「スゴイ」とはしゃがなくてはなりません。

 これが「著しい」「極めて」「甚だ」とか「素晴らしい」だったらどうでしょうか。

 犬が計算をできる、という映像を見た後だと仮定します。

 スゴイならば「スゴイ犬ですね〜」でコメントが終わるのですが。「著しい犬」ではコメントが成立しません。

 「著しく知能が発達した犬だろうか」

 脳神経を研究している学者のようなコメントになってしまいます。

「極めて賢い犬ですね」

 なぜか、こういった表現は官界に保存されているので、官僚的な響きがします。甚だ遺憾ですね。

「素晴らしいですね。素晴らしい犬だ」

 できればもう一言、「ウチの犬には出来ませんよ」が欲しいですね。

 そう、スゴイというコメントには、次に出てくるコメントの補足なしでも、会話が成 立してしまうのです。日本語には様々な表現があります。最近は方言がブームになっているそうですが、たまにはスゴイを封印して、新たな言語表現を開拓してみるのも、お薦めするけん、きばってや〜



2005年10月1週目 第90回 選択の自由の代償
 先日、あるデパートの食料品売り場を覗いて、ぎょっとしました。ちょうど閉店直後に、ある高級パン屋の後片付けしているところを通りかかったのです。ほんの数十分前には数百円単位で売られていたパンが、ビニール袋の中にドサーっと入れられていくのです。

   食品関係で働いたことのある方ならば、そんな光景は日常茶飯事なのでしょうけど、私は、あまりにもその「ドサー」と入れられているパンが美味しそうで、おもわず「捨てるならください」と言おうかと思ったぐらいでした。

 閉店直前に「翌朝の朝食用」としてパンを買った客がいたとすれば、ドサーと入れられているパンと、客のパンには本質的な違いは無いのです。賞味期限があって早めに食べなくてはならないものでもないでしょうし、明日の売り場に並べるには古い、というだけなのですから。

 裏でスタッフの人が持って帰る、とか何かしらの再利用法があるのかもしれませんが、その、あまりにも無造作な「ドサー」に、ちょっと衝撃を受けたのです。

 いや、別に食べられるものが大量に捨てられている現場を目撃するのが初めてだった、というわけではありませんよ。駅の売店で売っていた売れ残りのベーグルが、大量にビニール袋に入れられて駅構内を引きずられているところも見たことがありますし。それでも、高級パン屋のドサーには、ちょっと考えさせられるものがありました。

 コンビニのお弁当などもそうですが、賞味期限が切れたものは、みんな無造作に捨てられています。

なぜか。

 選ばれなかったから、というのが正解でしょう。日本には選択の自由があります。別にパンを買おうがコンビニの弁当を買おうがラーメン屋に入ろうが、食事には選択の自由があるのです。消費者は自分が欲しいと思ったものに対して自分のお金を払って買うことが出来ます。配給制ではないので「ジャガイモ3キロ、キャベツ2キロ」みたいに制限されることもありません。自分の好きなものを買えるわけです。

 しかし、その裏では、日本の津々浦々で「ドサー」が繰り返されているのです。いや、飲食店だけではありません。家庭でも、冷蔵庫を整理すれば、賞味期限を過ぎた食品がちらほらと出てくるはずです。それもまた、「家庭料理の選択の自由」の犠牲者といえるでしょう。農水省の統計を見ても、日本の食品産業だけでも、年間に1千万トン以上の食品を捨てているのです。(http://www.maff.go.jp/toukei/geppo/g107a.xls)。食べ残しも売れ残りも、結局のところ選択の自由の犠牲者、といえるのでしょう。

 食品産業の場合、ロス分を見込んで値段設定しているわけで、売れ残るよりも客が来たときに売りそこなう機会損失のほうを恐れているがために食品のロスがおきているわけです。となると、それが逆転して機会損失よりもロスで廃棄される分の方の金額が大きくならない限り、経済的に飽食は止まらないのでしょう。たとえば、売れ残り食品を処分するには、とんでもなく処理費用がかかる、とかがない限り。

 ですが、私たちは、そういった莫大な犠牲を払いつつ本当に膨大な中から選択することで、シアワセになっているといえるでしょうか。電化製品を買いに行けば、数々の類似製品が複数のメーカーから出ています。車、洋服、ほとんど同じ状況。「夕飯に食べたいもの」を聞かれて即答できますでしょうか?(偏食児童だったら簡単でしょうが)。

 就職活動でも、選べる会社、職業は、それこそ無尽蔵にあるかのようです。「家が何か商売をしていて、継がないといけない」といった状況だったらよっぽど楽なのに、と思って いる学生さんもいると思います。

 私も最近、本当に自分が何を欲しいか、もよく分からなくなってきました。それって、やっぱり選択の自由って、人をシアワセにしているのかも、このごろよく分からなくなっ てきたのです。結局、選択肢がたくさん提供されても、また他の選択肢がどんなに魅力的でも、落ち着くところに落ち着くのがシアワセなのかもしれないなあ、とあらためて「ネズミの嫁入り」を思い出してしまうのです。



2005年09月4週目 第89回 どうも失礼
 最近の年寄りには困ったものです。

 話していて、ちょっと変な感じがするのです。話が、そうどこがずれている様な、あれっと思ってしまう瞬間。

 なぜか。

 と考えてみると、年寄りが戦争を知らないのです。

戦後60年が経ちました。ちょっと前から実際に戦争に行った人が少なくなってきて、だんだんと「銃後」の話が多くなってきたような気がします。従軍したという戦争体験も学徒出陣や少年兵の世代が最後です。もう、将校以上だった人は珍しいのでしょう。仮に敗戦当時20歳だとして、現在は80歳。70の年寄りでも空襲体験ぐらいしかありません。

 国を守る、とか軍隊の不条理を知る人が亡くなり、単なる被害者としての恐怖心、物不足のつらい生活といった、ある意味一面的な戦争体験しか語られなくなってしまうことは、避けられない宿命でしょう。

 そういえば、ドラえもんの中には、のび太の父親が戦争中、疎開していた頃の思い出話があります。もし、いまならばのび太パパは、70前後のおじいさんということになってしまいます(もっとも、いつごろからだったか、私たちは原作中ののび太にとって未来にあたる時代を生きているわけですけれど)。かつては自分の親からも戦争当時の話を聞く、という体験が、すくなくとも「のび太」まではあったのです。

 そして、年寄りの話の定番といえば戦争体験ですが、それもあと20年ぐらいすれば聞けなくなるでしょう。現に、これからの祖父母世代は団塊の世代になっていくわけですから。そうして、大事件というのは歴史の1ページとして後ろへ追いやられていくのでしょう。年寄りだからといって、「見てきたような戦争体験を語って」いるボランティアでも、実際に年齢を計算してみると、「戦争を知らない子供たち」と呼ばれていた世代、という笑えない話も、これからもっと出てくるのでしょうねえ。

 年寄りばかりではありません。近頃の大人も変な感じがするのです。

 なぜか。

 大阪万博を知らないのです。愛・地球博の話が出てきた頃にちょっと話をすると、知らない、もしくは物心ついていないといった人がほとんどになってきたのです。エキスポから35年経ちますと、40歳でも5歳。もう知らない人がほとんどになってくるでしょう。

 大人とは、こういうことを知っている人なんだ、という私の中での固定観念が、徐々に現実に追い越されていっている感じが、最近します。

 「年寄りとは」「大人とは」と大上段に振りかぶってみても、本人たちは生まれていないわけですから、いかんともしがたいわけですし。時代が変わっても、昔と同じような意識で見てしまうと、あらぬ間違いを犯したり、不必要に憤慨してしまうかもしれないなあ、 と思う次第。

 だからこそ、「ちかごろの○○は、こんなことも知らない」などと憤慨するのは野暮なんでしょう。知っている人は知っている、知らない人は知らない、というだけのこと。世代などに共通した体験ではなく、過去についての「知識」なのですから, 知っている人と知らない人がいて当然。もっとも、知っている人が多数ならば、知らないことが「非常識」となってしまうでしょうけど。

 やはり、どこからか経験された事実が、世間的に史実へと変わっていく転換期があるのではないでしょうか。それを越えてしまえば「信長」「秀吉」と同じくらいの史実でしかない、というポイントです。そのポイントを超えても、あたかも自分が体験したかのようにいいつのるのも、やはり野暮ではないでしょうか。

 気がつかないうちに高校球児の年齢を追い越し、テレビに出る同世代の人々が次々に結婚していくのを見ますと、世の中ばかりではなく自分も年を取ってしまったなあと、改めて思わざるを得ないわけです。



2005年09月3週目 第88回 イギリス人一人が飲む紅茶の量と日本人の消化器官について
 例えば、テレビの経済コーナーで紅茶の輸入業者や業者団体が「一年当たり、日本人は紅茶を○グラム消費するが、イギリス人は○倍の○グラム消費する。だから、まだまだ日本人に紅茶を飲んでもらう余地はある」と答えたとします。確かにそれはそうですが、さらりと言うほど軽いことではないのです。

 日本人全員が相撲取りのように巨大化しないかぎり、紅茶の消費量を伸ばす為には他の飲み物から胃袋のシェアを奪わなくてはなりません。イギリス人が何杯飲んでいるかは知りませんが、彼らには彼らの生活スタイルがあります。朝起きたら、ミルクティーを飲み、午後のブレークにはスコーンでアフタヌーンティーを飲む、といった生活習慣に従って紅茶を飲んでいるのですから日本人よりも多いわけです。

 だいたい、人間の食べる量、飲む量は、そんなに大きな差はありません。いくら巨大化したからと言っても、その量にはおのずと限界があるのです。

 大きい事はいいことだといって、どんどんと巨大化し、消費することが推奨され、ついには消費しなければならないという強迫観念にも似たものが、世の中にはあるようです。これに従って今までの生活習慣とは異なるものまで多く消費するということは、その異質なものによって自らの生活習慣自体が変更されるということなのです。つまり、緑茶を飲んでいる生活から、紅茶を飲む生活へと変えていくということです。

 生活を変更しなければ、次々に加え、足されていく商品の山を、自分の胃袋か家に押し込み、また大量に捨てなくてはなりません。緑茶も紅茶も飲む生活、と言えるでしょう。それが出来たのは、アメリカのように人間が大きく、家が大きく、物を捨てる土地が有り余っているという国だけだったのではないでしょうか。

 他の国ではどうかといいますと、同じような生活スタイルは望めません。望ん だところで、それを実行できるだけのお金がないでしょうし。お金があったからといっても、やはり手に入るものではないようです。環境も、そこまでの生活を人類にさせてくれるほど大きくはありません。いずれは様々な面で破綻をきたしてきます。

 世界第2位の経済大国となった日本は、戦後のアメリカのホームドラマへの憧れから、アメリカンスタイルの豊かさを目指したと思うのですが、どうも私たちの手にしている豊かさは、アメリカンスタイルとは別物のようです。家は狭いし、豊かな事は豊かなのですが、それほど派手な感じではないような気がします。

 かといって、いまさらアメリカンな豊かさが欲しいか、といわれますと、私個人は別に欲しくはありません。石油を大量に消費し、砂糖がやたらに入った、栄養の無いファーストフードや清涼飲料水を大量に消費するのが豊かさであるならば、そんなものは欲しくないのです。豊かさとは、消費したカロリーやエネルギーで測れるものではないでしょうし。

 ところが、それに気がつくと妙なことになります。甘さやエネルギー消費は目に見えますが、今度は目に見えないものが珍重されます。いや、正確に言いますと、形としてデータに現れないもの、となるでしょうか。デザインや美的感覚、ウンチクなど、今まではモノ自体を消費していたものから、それに乗っかってくるものの方が珍重されるわけです。

 乗っかってくる情報は、物自体を生産するよりは環境への負荷は軽減されます。いや、むしろ負荷が出ないことが情報の根源になる場合だってあるのです。大量に水道水を使って、わけのわからないケミカルを多用している清涼飲料水と、有機農法で育てたミカンジュース。同じコップ一杯あったとしたら、間違いなくミカンジュースの方が環境にも良く、値段も高く取れるでしょう。ですが、カロリーで言えば清涼飲料水の方が高い。

 供給過剰、過当競争のなかで、これ以上、物を作って何とする。きっと、これからの社会では、そのあたりをうまく処理することが、もっと必要になってくるのでしょう。消費の為に巨大化するか、必要なものだけ選んで消費するか、実物ではなく実体の無い情報を消費するか。アメリカ型、LOHAS型、日本型、とでも名づけて、しばし様子を観察しようと思っています。



2005年09月2週目 第87回 一度止まると再発進は難しい
 皆さんは、自動車の免許を取るときに、オートマ車専用でとりましたでしょうか。それともマニュアル車で取りましたでしょうか。私は、マニュアル車で取ってしまったのですが、いままでAT車しか乗ったことがありません。あまり器用ではないので、楽なATで取れば良かったかもしれませんが、万が一の場合(逃げ遅れたときにたまたま目の前にMT車が乗り捨てられていた場合など)に運転できないと困るだろうと思って、ちょっとした苦労をしながら取りました。

 もとから、いろいろなところに気を配れる性質ではなく、どちらかといえば運転中にもボーっとしてしまうかもしれない上に、コナミの「スリルドライブ」なんぞを何回もやっていたら、おそらくろくなドライバーにはならないと思います。現に、ここ1年ぐらいはAT車すら運転する機会すらありません。結局、何の為に取ったのかよくわからない私の運転免許なのですが、公的な身分証明書と「万が一」の脱出手段を確保できたかもしれない、といったところで納得しております。

 MT車の免許を取る時の難関の一つが、おそらく坂道発進でしょう。教習所内の坂の途中で一旦停車し、そこからまた動かすアレです。AT車なら、そのままアクセルを踏めば進みますが、MT車は素早くクラッチとかを操作したりなんかして、ちょっと難しいのです。ガクッと少し後退してから進むのですが、これが私の場合ガクーっといってしまって、あわててブレーキを踏むのです。あのまま公道に出ていたら、どんなことになっていたか。

 そんな私も、何回か練習をこなすことで、どうにか坂道発進も出来るようになったらしく、免許を取ることができましたが、よく手順を覚えていません。

 コラムもそうなのじゃないかな、と思います。もともと私の興味の有ることを書いていたのですが、途中から考えを煮詰めすぎてしまい、ネタは沢山有るのに上手くかけない、という状況。前のコラムを見返すと、こんなにいろいろ書いていたのだと感心してしまうのですが、どうやって書いたのか、勘が鈍ってしまっていました。MT車と違うのは、坂道発進に失敗しても、後続を巻き込まなくても良いことです。また坂道から発信してみたいと思います。



2005年09月1週目 第86回 ルビをふれ
 新聞を読んでいると、時々、わけのわからない言葉が出てきます。以前なら「ら致」(今は拉致と漢字で書きますけど)が代表例ですけど、これもすべて常用漢字に入っていないから起こることです。旧字体で書かなければいけない人名でも常用漢字にわざわざ変換して掲載したりします。

 思うのですが、新聞はもっと積極的に漢字を使うべきではないでしょうか。常用外の漢字も含めて。しかも、かならずルビを入れて。

 最近は大人でも、言葉を読み間違えていることが珍しくありません。誤読をいい年をした大人が指摘されるのも恥ずかしいものがありますが、時には、その誤用が一般化してしまい、ついには辞書にも掲載されてしまう事態にまで発展しています。

 すべて「学校教育で読み方を習うから」と知らぬふりをしてもいいのでしょうか。社会の木鐸である新聞その他の活字メディアが、なぜ日本語の乱れに対して良心的なアクションを何も起こさなくても良いのでしょうか。

 戦前の新聞には、すべてにルビがふってあったと聞きます。NIE(News in ducation)も結構ですが、子供に新聞を読ませたいのならば、どんな学年の子でも読めるようにルビを振って漢字を大いに使うべきです。無駄なコストだ、という意見もあるでしょうが、そこはIT化で、いくらでも正確なルビをふれるようになるでしょう。昔のように植字工が活字を拾っているわけではないのですから、パソコンでちょちょいのちょいではないでしょうか。

 英語教育も結構ですが、できればもっと難しい漢字でも挑戦して読めるようになって欲しいと思うのですが・・・。それが日本語の多様性と外来カタカナ語氾濫を食い止める為の、うまい訳語創出にもつながっていくのではないでしょうか。

 と、ここまで書いて不安が残ります。今の新聞記者だって、いまのような常用漢字ばかりの新聞を読んで育ってきた世代のはずです。果たして、漢字を使ってルビを振れと言っても、それを実行できるのかどうか・・・・。



2005年08月4週目 第85回 トリビア・蘊蓄・含蓄
 ここ数年、トリビアや蘊蓄といった豆知識系のものが流行っています。だいぶ下火になったとはいえ、あるべき場所に落ち着いただけであって、一度確保した世間的な位置は絶対に離さないでしょう。小理屈とかヲタク的とか優等生、がり勉といった系統からはなれて「トリビア」として認知された豆知識は、すでに便利なコミュニケーションツールとして認知されているようです。

 蘊蓄も、トリビア的なものに近いですが、微妙な差異があるように感じます。豆知識の披露という意味では同じなのですが、話者の思い入れとトピックについて派生的に連なっていく知識の山脈が蘊蓄だとすると、ぽっと浮いて場の雰囲気に作用するものがトリビアなのではないでしょうか。

 ここでトリビア的なものを一歩引いて考えて見ますと、大半は専門家から見れば当然であったりするもので、それをお手軽に、ある点だけを抜き出してきたものなのでしょう。例えば、ある生物の奇妙な生態について「へぇ〜」と言ったとしても、研究者にとっては当然のことであったり、専門の教科書に記載されているものであったりします。

 アニメのネタもあったりしますが、あれも、その筋の人にとってみれば当然であり、そういった人はトリビアだけではなく「濃い蘊蓄」を語れる人なのでしょう。しかし、その蘊蓄は、あくまでも蘊蓄でありトリビアと認知されるには、その内容が人口に膾炙している必要が有るのです。つまり、マニアしかしらないアニメは蘊蓄になり、宮崎駿作品はトリビアに成りうるのではないでしょうか。

 一般の人が知らないトリビア知識は、学校でテストもされませんし、本来ならば勉強しなくてはならないような前後の「あまり面白くない」箇所も教えてもらう必要はありません。アカデミズムの文脈からも外れた、役に立たないと割り切ることが出来ることこそが、トリビアの魅力なわけですから。

 しかし、これからはトリビアや蘊蓄のような情報メインの豆知識から、含蓄のあるコメント、つまり情報に関して、いかに咀嚼するかに重点が置かれてくるのかもしれません。DJのように場に合わせてレコードをかけるのがトリビアや蘊蓄なら、そのレコードを作り出してしまうのが含蓄でしょうか。

 とは言っても、自分の経験から発する言葉では「含蓄」には不十分です。大抵の人は普通の人なので、体験することも考えることも突飛な物はあまりなく、したがって導き出される含蓄も似たようなものになります。先輩や年寄りの話が誰に聞いても似たようなものに聞こえるのは、そのためです。自分の後輩や年下に披露するぐらいしか出来ない程度の話なのです。

 しかも、その含蓄を披露したとしても「自分の体験からすると」「近所の爺さんが言っていた」というのと「ギボンの『ローマ帝国衰亡史』によると」「呉子によると」では、ありがたみが違うわけです。なんだか超人パワーみたいな話になりますが、ありがたみパワーが強いものを出してきた方が勝ち、になってくるでしょう。これなら経験を積まないと勝てないということでもないですし、こういった含蓄ワードをたくさん知っている人の時代になるのではないでしょうか。

 あ。でも、これもトリビアだ・・・・。



2005年08月3週目 第84回 戦争は所詮、他人事
 臥薪嘗胆という言葉があります。紀元前6世紀末の中国で行われた呉越の戦いから生まれた言葉で、復讐するためにつらいことを耐え忍ぶ、といった意味に使われています(詳しいエピソードの来歴は調べてください)。

 この言葉を聞くたびに、私には「勝者は学ばず、敗者が学ぶ」という文句が浮かんできてしまうのです。通常、勝者は戦いからは学びません。古人はわざわざ「勝って兜の緒を締めよ」と戒めておりますが、勝てば官軍、勝てば「負けのタネ」を覆い隠し、真摯に事例から学ぶことを妨げてしまいます。負けた者は敗戦の原因を最大限まで考え抜き、次の戦につなげていく為に、わざわざ薪の上に寝、苦い肝をなめるのです。勝者は、こうやって次の敗戦の芽が出始めているにもかかわらず、放置する。かつて自分も敗者の立場に置かれたことも忘れて。戦争に限らず、ビジネスなどにも言える、共通の法則でしょう。

 さて、先の大戦ですが、所詮、大部分の日本人にとっては他人事です。戦後生まれの日本人にとっては「自分は関与していない」という点に関しては、中国の反日デモ参加者と全く変わりはありません。唯一の違いといえば、敗戦国にいるか「戦勝国」にいるか、の違いだけでしょう。それでも他人事です。他人が起こした出来事で、なぜ自分を偉く思ったり、相手を貶したりできるのでしょうか。

 では、他人事だから放置して無視してもよいかといえば、そういうことでもありません。本当は他人事だからこそ、被害者・加害者の枠を超え、人類共通の教訓として真摯に歴史から学ぶことが出来るのではないでしょうか。そう考えれば私たち人間すべてが被害者であり加害者であるといえます。原爆もアウシュビッツも、人類共通の教訓です。決して特定の国の人間に責任を帰して、永遠に攻め立てる性質のものではないと思うのです。

 ただ、「勝者は学ばず」です。聞くところによると、某国では原爆が見世物にされており、某国は核兵器を打ってやると脅し続け、某国では侵略で何千万も殺されたと喧伝しつつ、現在でも他国を侵略し続け、某国では自民族の受けた迫害を他民族へ強い続けていたりするそうです。げに勝者は歴史から学びません。敗者側に立った国々が以上のような行為をしていないことからしても、確実に体験から深く学んでいることが証明されるとおもうのですが、如何?



2005年08月2週目 第83回 わからぬ郵政民営化とは
 わからない。どうにもわからないことが多いのです。
なぜ民営化が必要なのか、全く理解できないのです。私は、しょっちゅう怒られていますので、自分の頭が特別悪いことを自覚しています。どうか、どなたか聡明な方に教えていただきたいのです。

・なぜ民営化で、経営が良くなるのかわかりません。
 そもそも、民間で経営が良くなるなら、潰れる会社なんて無いはずですし、私たちは満足のいくサービスをいつも受けられており、不祥事は存在するはずはありません。ところが、私の狭小な知識によってしても十指に余る企業が倒産し、市場から撤退し、不愉快な思いを客にさせ、不祥事を起こしております。市場の競争がないからでしょうか。であればなおのこと、競争を導入すればいいだけで、民営化する必要はないように思いますが、これ如何に?

・民営化するとサービスが良くなるのかわかりません。
 JRが民営化されたことでサービスが良くなったとは聞きますが、どうでしょうか。確かに人口の多い場所では良くなったかもしれません。ですが、利益追求で何百人もの方が尼崎の事故で亡くなりました。一方では、地方の利用者の少ない場所で廃線が相次ぎ、地元の人々の貴重な足が失われたと聞きます。もし、民営化がそんなに素晴らしいなら、その大変優れていると私が伺っております経営手腕で、不採算の路線も儲かるようにできたはずだと愚考しますが、これ如何に?

・ユニバーサルサービスは本当に民間で出来るものなのでしょうか。
 よく、携帯電話会社は日本全国にアンテナを立ててユニバーサルサービスをおこなっていると聞きます。故に、民間だからできないことはない、民に任せられるものは民に、と言われているのはよく分かります。ですが、ここもよく分からないのです。よく言われている人口カバー率は100%になっていませんし、そもそもその算定方法も、いい加減なものだと聞いたことがあります。山の中では聞こえませんし、繋がりません(たとえ、そこに何かしらの施設があったとしても、です)。

 また、携帯電話会社は、電波の免許がありますので、少ない4社しかサービスをしていません。なので、いまのいままで儲かっていた。儲かっていたからこそユニバーサルサービスを出来たのではないでしょうか。となると、儲けさせればユニバーサルサービスができる、というだけであると愚考する次第です。民間にすべて任せても、結局、競争が激しくなって儲からなければ不採算は斬らざるを得ない。結局、ユニバーサルサービスが実施されたとしても、離島や僻地に住んでいる人間には高額な特別料金が課されることになりはしますまいか。現に、「にゅうじぃらんど」などという国では、実際に起こったとききますが、これ如何に。

・民営化で、より皆が儲かるようになるのでしょうか。
競争の悪しき部分、すなわち過当競争になって誰も儲からず、従業員は毎日残業、疲労困憊、多額のボーナスは「倒産させずに会社を保った経営陣」に行くだけのような気もしますが、如何?

 皆が適度に儲かる為には、棲み分けが必要で、いまの郵政公社は上手く棲み分けで着 ていると思うのです。だいたい、NTTの料金が下がったのも民営化したからではなく DDIやソフトバンクが参入したからで、それは参入の門戸を少しだけ開いて適正な競争をさせればいいだけの話だと思うのです。物流も金融も適度な競争相手がおり、民営化する手間をかける意味が無いと思うのですが、これ如何に。

・再び、民営化で経営が良くなるのでしょうか?
 良い経営者が経営できる体制だけ整えればいい話ではないのでしょうか?実際、フランスの郵便は国営ですが、うまくやっているということを耳にしました。本当は、ちゃんとした経営者がいて、郵政公社が便利なサービスを全国どこでもできることが重要なんであって、「全国どこでも」が保証されている今、民営化するよりもきちんとした経営が出来る体制さえ整えればいいだけだと思いますが、これ如何に?

・どうしても民営化しなければと仰るなら、
 首相も国も政府も国民も民営化しては如何?



2005年08月1週目 第82回 カジノへようこそ
 さあ、ようこそ当カジノへいらっしゃいました。

 ここには様々なアトラクションをご用意して御座います。ルーレット、スロットマシーン、ブラックジャックからポーカー、バカラ、ジャンクボンド、カラ売り、キャッシュリッチな企業の乗っ取り、何十年も続く重厚長大企業のM&A、石油や大豆のトレーディングから弱小通貨の浴びせ売りなど、お客様自身の自己責任で、いくらでもお稼ぎになってください。マジメにコツコツ働くのがバカらしいような巨万の富がお客様の懐めがけて押し寄せますぞ。

 手始めにリスクの少ない外貨取引やREITなど如何でしょうか?リスクを楽しめるようになれば、もっと株などもよろしいかと。いまならインド、ブラジルなどが狙い目です。パチンコ、パチスロごときは子供のするもの、脳髄だけで生きている人間のするものにございます。お客様のような英知に溢れる人物は、リスクを計算し、あくまで自己責任で人生を豊かにしていくことこそが「勝ち組」の指標で御座いますぞ。

 疲れになりましたら、大物老人対IT長者のガチンコ対決、バブルピエロの狂い踊り、ライオン髪の獅子舞に、兄弟の骨肉バトル相撲。夏なら将軍様の大花火まで取り揃えております。

 ああ、お客様はリアルなアクション物がお好きで。ならば「いつも安全なお手軽戦場中継」、大地震パニック、街で爆発する爆弾、猟奇連続殺人犯まで、お好きなチャンネルでご覧ください。絶対に安全なスクリーンのこちら側から、言いたいことがいつでも言える、カジノのストレス解消になりますぞ。いつでもどうぞ。

 そう、選択の自由こそが、当カジノのモットーで。もしお気に召さなければ、いつでも仰ってください。なに、モラルと法さえ変えられれば、何でも「お楽しみ」として提供できます。お金と自己責任で、買えぬ物など、この世にありません。

 お食事も、安価で安心、安全美味なアメリカ産牛肉ステーキから、産地の特定できぬ有機野菜のサラダ、流通量が多すぎるぐらい人気の「関アジ」の刺身も入っています。お時間が無いようでしたら、自然食品風のコンビニ商品も各種、取り揃えております。朝まで眠らなくて良い無水カフェイン、合成成分でできた栄養スタミナドリンクまで取り揃えておりますので、倒れるまでゲームに参加していただけます。もちろん、自己責任でよろしいのなら、もっとよく効く各種薬物も手配いたしております。その気になればオリンピックにも出られるぐらいのカクテルも用意させていただきます。

 そうそう。お食事も、すべて自己責任とリスクで、いくらでも安く、美味しいものを召し上がっていただけます。そのためにBSEになったらどうするかと仰いますので?それはお客様の自己責任でございます。安さと美味しさを得たのですから、その対価としてのリスクは払っていただけないと。それが当カジノのルールですので。

 対価さえ払っていただければ、そう、いくらでも寿命を延ばせるようにサービスも万全、抜かりはありません。内蔵が悪ければ、いくらでも替えをご用意して御座います。どうぞこころゆくまで、最後まで当カジノでお楽しみください・・・。

 はあ・・・。なんでしょうか。市場もリスクも自己責任もうんざりだ、茶番にイカサマもうたくさん、ですか。

 申し訳ありませんがお客様、もう戻れないのです。二度と。



2005年07月4週目 第81回 思ひ違ひ
 今年で、終戰から60年です。

 今まで、老人は戰爭を知つてゐて、少なくとも戰中の記憶がある人だと思つてゐたわけですが、もはや還暦過ぎの人でも「戰後生まれ」が珍しくなくなり、「戰爭を知らない子供たち」が「戰爭を知らない老人たち」になつていく時代に入つていくのです。平成生まれが大學に入つてくるのも來年で、昭和自體を知らない大學生が≠ヲていく。昭和も先の戰爭もますます遠くになり、より觀念的になり、歴史の1ページとなり、現代史から近代史へと編入されていくのでせう。

 さて、今年の終戰記念日は首相がi國b社に行くとか、行かないとか(結局行かなかつたはけですけど)でしたが、私は、原點となる60年前に放送された昭和天皇の「玉音放送」のテキストを讀んでゐました。そこで、有名なフレーズ「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ」を見つけたときのことです。

 何かが違ふのです。

この「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ」、誰が何を耐へ忍ぶことなのでせうか。それはモチロン、つらい戰爭を國民が耐へ忍んできた、そのことについて昭和天皇がねぎらひのコメントをされたものだと・・・・思つてゐました。

 ですが、違ふのです。原文を當たると、昭和天皇が「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ」未來の爲に平和を實現していかうといふ言葉でした。普段から、ドラマなどで白の資料映像と共に「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ」の部分だけテレビで放送されてしまふと勘違ひしてしまひます。日本人全體が、これまでの戰爭を耐へ忍んできたのだ、と。

 これから日本が受けるであらう苦難を思つて、それでも復興と平和を實現していかうといふ決意でありました。素晴らしく未來志向だつたのです。他の部分も、ただ「負けました」とだけではなく、その後の平和や經濟復興に思ひを馳せると、まさに玉音放送が日本の「原點」と言つていい内容だと思ひました。

 戰前の最後と見るか、戰後の最初と見るか判りませんが、少なくとも世界や國民に配慮された内容で、日本史上もつとも有名なスピーチだと思ふのですが、なぜ今まで知らなかつたのだらう、何度か見返しながら後悔しました。



2005年07月3週目 第80回 ゲイシャフジヤマ
 外国人に日本を説明するのは難しいというのは、外国人と接した事のあれば誰でも思うことでしょう。伝統文化から現代社会まで、質問されると自分自身でも分からないことが多いのに気がつくでしょう。まあ、質問に答える、といった明確なゴールがあるのなら楽なのですが、もっと漠然と「あなたの国って、どんな国?」と聞かれてしまうと、難易度は格段に上がります。

 相手の質問力の無さを非難することもできるでしょうが、国際親善のためにグッとこらえて何を話せばよいか。これがアメリカだったら簡単です。映画などのカルチャーが世界に輸出されている為、説明も簡単ですし、「あんな国」というイメージがあるので、話が進みやすいのではないでしょうか。同じように、その国がどういう国か世界的に知られているケースであれば、説明はしやすいでしょう。その知られている情報をベースに説明も「つかみ」もOKです。

 また、国土に特徴があれば説明もしやすい。例えば、砂漠の国だったり、山国、や冬は雪と氷に閉ざされる国だったり、熱帯でとにかく暑い国などであれば、第一声は簡単です。「とにかく暑い」「山の中」「とにかく寒い」「とにかく雨が降る」さて日本の場合はどうでしょうか。

 前回、紹介した一緒にサッカーをした外国人は、なぜか日本のニュースについても知っていて、「この前、中国で凄いデモがあったでしょ」とか「日本人って中国人のことを嫌いだよね」とか「日本のオンナって××××なんでしょう?」とか聞いてきましたけど、その一環で、他の質問に答えていると、なかなか説明するのは難しいのです。たとえ説明できたとしても、

ブラジル人「そういえば、ブラジルって世界最大の日系人社会なんだよね」
私    「そうそう。多いよね。日本に来ているブラジル人って、ほとんど日系人なんじゃないかな。戦後に渡った人も結構いるらしいけど」
ドイツ人 「え!?そうなの。じゃあ、ドイツとおんなじだね。ドイツだとナチスの残党なんかがアルゼンチンとかに逃げていったんだけど、そうか日本人も逃げたんだ、南米・・・」
と納得されてしまうと、ついつい「ちゃう!」と訂正できなくなってしまいます。

 昔、学校の先生が、私たちに対して外国の学生に対して日本を紹介するという課題を説明する際に「ゲイシャフジヤマみたいなステレオタイプではだめ。例えば・・・」と自分でも答えに窮してしまっているのを見て「ご利用は計画的に」と思ってしまいました。その先生も、自分で否定していたとしても、漠然と「どんな国」といわれてしまうと、ニンジャ、スシ、サムライ、ゲイシャ、フジヤマとなってしまうのです。そして、ソニー、ホンダ、トヨタと会社が続いてしまう。「どんな国?」ではなく「どんなモノがある?」となってしまい、ハイテクとサムライが共存しているような図式で理解されてしまうおそれが生じてしまいます。

 しかし、それは楽です。そういった、諸外国に共通してあると思われるイメージに合わせて説明すれば何だって楽なのです。それに、もうちょっとディテールを加えてあげればホンモノの面目は立ちます。あとはアニメかマンガでも読んでもらえれば、百万言を費やすよりも簡単です。

 それに、街の説明をしても、どこにも特殊なものは無く、全世界の「都会人」であれば、他の都市も推して測れます。何、全世界の大都会、どこへ行っても似てきました。まるで地方都市が小東京と化すがごとく、です。アジアの諸都市はビルが立ち並び、東京だかソウルだか上海だかわからなくなっていくのです。

 そうなってくると、余計に「ゲイシャフジヤマ」と言わなければ差別化できなくなるのでは無いか、と。



2005年07月2週目 第79回 表面とはなんだろう
 色々な事情があって、ブラジル人とサッカーをすることになりました。まあブラジル人だけじゃないのですが、日本人は私だけ。あとはイギリス人、イタリア人、ドイツ人・・・あれ?みんなワールドカップ優勝国です。結局「ヨーロッパ勢対その他」というチーム分けになり、それなのになぜか人数の関係でイギリス人が「その他」チームに入ってしまい、「ヨーロッパ大陸勢VS南米・英国・日本」という括りになりました。

 サッカーをやるのは中学生以来、しかも革靴。「ポジションどこ?」と聞かれたので、走らなくてもいいと思われる「ディフェンス」と答えたものの、結局は走ってばかり。何度かチャンスメークらしきものやシュートも撃ったのですが、キーパーに阻まれます。

 ところがサンパウロ出身のブラジル勢が、速い速い。個人技で抜き去ってはゴールを決めて余裕の表情。さすがはサッカーが国技だけのことがあり、相撲が国技の私は、最後は立つだけで精一杯。しかも夕食抜きでプレイの上に、みんな「真剣」なので抜けられない雰囲気です。さすがに全員の動きが鈍くなるまで計4時間ほど走り回っていました。

 部屋に帰ると、もう足が痛くて動けません。空腹なのですが外に出ることも出来ず、部屋にあったクラッカーと水だけを口にして、シャワーも浴びずに眠ることしかできません。

 そして翌朝も足が痛くて仕方が無いのです。見ると、革靴でサッカーしたせいで、ひどい靴擦れが出来てしまい、足の裏が火傷にでもあったように白く水ぶくれしていました。結局、消毒した後に包帯を巻き、足を引きずりながら一週間ほど過ごしました。徐々に普通の生活に戻り、また一週間ほど経つと足の裏の皮膚は完全に新しい皮ができ、古いのをカットしました。

 カットした自分の皮膚を触ると、なんだか奇妙な感じがしました。思ったよりもキレイな感じで、気持ちのいいような悪いような感触がします。弾力性があるのに、硬い感じ。足の裏なので、指紋のような溝が深いのですが、肌触りは良いのです(まあ、当たり前ですよね。すぐ前まで肌だったんですから)。

 そしてふと「こうやってカットした皮膚の一部は、自分なのか、自分から独立して今は無関係なものなのか」と思ったのです。もししかるべき設備があれば、私のDNA情報が取れるわけですから、自分の一部と言えなくも無いでしょう。ですが、あきらかに物理的には分離しているわけです。

 では、カットする前、つまり剥がれかかったまま一部分だけ体にくっついていた状態だと、これは自分の一部だといえるのでしょうか。では、全部くっついていれば「体の一部として認められるのでしょうか。皮膚ではなく、髪の毛だとしたら、生えた時点で自分なのか、あるいは頭に留まっている時点で自分の一部なのでしょうか。と考えると、どこからが自分と、それ以外の境界になるのか、どこが自分の表面であるか、単純に皮膚が境になっているわけではないのかな、と思うのです。

 考えると、そう世の中割り切って境界線を引けるものでもなく、純粋な表面もないのかもしれません。例えば、「本音と建前」という表現があります。外部向けの建前と、内部向けの本音は別の顔をしているような表現をしていますが、建前にも必ずや本音が滲み出ているのではないでしょうか。

 渾然一体として、どこからが境かはわからぬが、二者の違いは認識している。それは理屈で割り切ってもしっくりこないし、理論で片付けたとしても意味が無い。そんな切っても切れぬ世の中では、やはり「ビミョー」としか言えぬこともあると思いました。



2005年07月1週目 第78回 情で済むならば
 二年目の上半期が終わりました。公然の秘密ですが、この紺洲堂通信は、一ヶ月ほど遅れて書いています。できるだけ追いつけるように書いているのですが、なにぶん事情が色々とありまして、まだ達成しておりません。この回を書いている時点で、すでに8月6日です。それでも年間に均せば、ちゃんと毎週書いているようにしておきたいと、配信の週は直していません。今年中には追いつけるとは思うのですが・・・。

 現在、郵政関連法案で政治が騒がしい状況になっています。連日、ニュースでも報道されているのですが、どうなるかはまだわからない、と言ったところですね。

それで思うのですが、なぜ派閥や党議拘束、個人の情、などのことで代議士が法案に賛成・反対するように動いているのでしょうか。マスコミも、どちらの派閥が優れているか、競馬の予想並みにそろばんをはじき、「揺れている」という議員を直撃し、密着取材をし、両陣営がいかに情によって票を集めているかを報道しています。

 これを見て不思議に感じてしまうのは、なぜ郵政民営化に賛成/反対するかが、国の為ではなく、党のため、派閥のため、解散のために置き換わっているのではないか、ということです。本来ならば、国にとって必要な改革であれば、党が何を言おうが、恩人が説得に来ようが、マスコミがインタビューに来ようが、堂々と自分の意見を開陳し、自分の一票に責任を持つのが真の政治家ではないでしょうか。

 説得に来た人、マスコミに向かって自分の意見を言わない、立場を偽装するなどは、確かに優れた政治屋の「戦術」かもしれませんが、いったい国民の何に寄与しているのか、教えていただきたいものです。

 情で政策が左右できるのであれば、政治家なんて誰だって出来ます。ボスの言うとおりに投票するだけでいいのですから。政治家は第一に国民・国家のことを考えなければなりません。にも拘らず派閥などに従い、自分の選挙の安穏を図るだけならば、ただ自分の利益のためだけに動いているというだけのこと。ポリシーのない人間に、議員バッジをつける資格はないと思うのは私だけでしょうか。

 もっとも、マスコミが面白おかしくする為に「情」で動いているように報道しているだけだと願いたいですが。