2005年上半期(1月〜6月)


2005年06月4週目 第77回 蘊蓄を食う
 随分前ですが、近所のスーパーマーケットに電子マネーが導入されました。縁が無いと思っていたのですが、成り行きでドコモの「おサイフケータイ」を持つことになり、「Edy」を使っている現在に至るまで、まだ試していませんでした。

 店としては、Edyや会員カードから得た情報によってマーケティングを行い、より顧客に来てもらえるような策を出していくために、こういった設備を導入しているのでしょう。買い物客は、知らず知らずに情報を管理されているわけです。いま、いろいろなところでクレジットカードの勧誘が行われていますが、それも、こういった情報を得るということが目的なのでしょう。

 そういえば、近頃のスーパーマーケットは「物」だけを売っているのではありません。 皆さんも、食品を買うときに、決して「食品」という物を買っているわけではないのです。それは「情報」です。近頃流行の「トレーサビリティー」は、良い例だと思うのですが、「○○県産キュウリ」だけではなく「○○県××村の△△さんのきゅうり」として、農家の顔写真がついている。あるいはバーコードをピッとかざすと、どこの牛肉かわかる、といったような、生産地から加工地、小売店までの流通経路がわかる、という仕掛けです。これにより消費者は多少高くても安心・安全を買うことができる、とのこと。

 別に、情報を買うということはトレーサビリティーに限りません。例えばコンビニの棚の商品。お茶だけでも何種類も冷蔵庫に並べられていますが、どれにも「カテキン増量」とか「厳選茶葉使用」「○○製法」「××の茶葉使用」「天然の湧き水使用」などと、いろいろな情報(薀蓄)が載っています。

 そこで「何とか」を使っているといわれても、果たしてそれが真なのか偽なのか、我々消費者には全くわかりません。たとえば「厳選茶葉使用」と書いてあったとしたら、何が厳選茶葉なのでしょうか。厳選の根拠もあいまいですし、仮に明確な根拠があっても、それに則った茶葉しか使っていないのか、その基準と美味しさは関係があるのか、検証の方法がありません。製品に数値として出るであろう成分を取ってみても、きちんとカテキンがパッケージに記載どおりに増量されているか、検査器具を持ち合わせていない限りは検証できません。

 専門家と素人の間に起こりうることですが、一般の人が検証できない情報は、結局信頼できると思われる人の情報を鵜呑みにすることしかできません。その「信頼できる」という判断基準も「大学教授」「博士号取得」などの肩書きから「いい事を言う」「人相が良い」などの印象しか判断基準がないわけです。しかも、いちいちそういった人に意見を求めるわけにもいきませんし、大量に発生するそれらの問題を検証するには、我々は忙しすぎます。そこでマスメディアに頼ってしまうことになるのですが、マスコミだって常に正しいことを報道しているわけではありません。

 よって、全部ニセのものを流したとしても、判るわけが無いのです。仮に、野菜の生産者がわかったところで、直接問い合わせて、その農産物が、その人の作ったものか、あるいはキチンと生産されたものかを検証している人がどれだけいるでしょうか。電話口で「そうです。私が作りました」といわれた以上の検証をできるのでしょうか。

 ということは、我々、消費者は、「安全」という名の付加情報を得る為だけに、トレーサビリティーへとお金を払っている、「厳選茶葉使用」の6文字にお金を払っていると言えるかもしれません。もっとも、私自身も得体の知れない「ネギ」よりも「生産者の顔が見えるネギ」のほうがいいとは思います。

 しかし、以前ならばそんな「情報に対する欲求」は無かったのではないでしょうか。これからは、ただ物を生産・販売するのではなく、何にでも「蘊蓄」を載せ、消費者の情報欲を満足させる必要があるのです。どれだけ魅力的な蘊蓄をかたれる(語れる・騙れる?)かによって、商品価値も左右されてしまうでしょう(その最たる例がブランド品ですけど)。

 きっと、そのうちに全然関係ない人の写真を使って「○○さんが作った野菜」とかいうのが市場に出てきて問題になるかもしれません。ですが、検証不可なその類の情報は、長年にわたって隠匿されるでしょう。少なくとも、消費者はそのことを意識して、無意味な情報に惑わされない、国も規制を強化して万が一食品で偽装が発覚した場合は、重罪を課すようにしなくては、消費者の信頼を得られないと思うのです。



2005年06月3週目 第76回 なんじゃそりゃ!
 かなり昔、在学中の出来事ですが、ある議員の講演会に行ったことがありました(以前に触れた人とは違います)。ごく私的な勉強会で、たまたま出席者が議員の関係者と親しく、勉強会(といっても、結構、人数が多かった)にゲストとしてお越しくださることになった、とのこと。

 偶然誘われていったわけです。講演会自体は、まあ面白く、さすがに話し慣れているなあといった印象です。さすがに万単位の支持を得て議員になった人は違いました。ちょっとしたジョーク(ベタ過ぎてつまらない)を交えながら、政党の考え方の他にも、自分が主宰している政策勉強会について紹介し、普通の人も参加してよくやっている、とのこと。そこのパンフレットも配られました。

 さて、講演会が終わって自由に話してください、となり議員さん本人も「みなさんと語り合いたい」とか仰っており、勉強会のメンバーも議員に「面白かった」とか何とか声をかけています。議員の配った「政策勉強会のパンフ」を眺めていた私は、ちょっと勇気を出して、議員に話しかけてみました。

「あのお、この政策勉強会なんですけど」

 そこの中に書いて「ある政策」が能天気で、全然実現性が伴わない。もし実現させようとするならば、もっと大きな構造からの転換が必要で、こんなことをコストかけたパンフに書いているのは無駄じゃないか。また実行できないことばかり言う政党だとおもわれないか、ということを言いました

 それを聞いた議員サンは、「そういったことも確かにあるかもしれないけど、そこはまた考えないといけないね」とか言ってお茶を濁します。そこを突っ込もうと思ったら露骨に無視されて、別の人と話し出す始末。

 その当時は、自分の言いたいことを、上手く説明することができなかったので、上に書いたように要点を整理できていなかったと思います。ただ、彼に伝わらなかっただけかもしれませんが、私はそこで「なんじゃそりゃ!」と思ったわけです。話しあいたいんじゃなかったんかい、色々と教えて欲しいとか指摘して欲しいっていったの、YOUじゃないの?と。

 お客様第一とか紙に書いていながら、実際には自社の利益しか考えていなかったりする会社がありますが、非常に近いと思いました。こういった状況は多々ありますが、そういう態度を見るにつけ「なんじゃそりゃ!」と思ってしまうわけです。

 アメリカにあります百貨店「ノードストローム」という会社は、顧客が購入した商品を気に入らなかった場合、理由を聞かずに返品を受け付けるそうで、中には買収した販売店が過去に売った自動車タイヤまで、つまりノードストロームが売ったわけでもないものまで顧客からの返品に応じたこともあるそうです(ノードストロームウェイ 日経ビジネス人文庫)。もし、返品に応じないとしたら、顧客は「なんじゃそれ!」と思い、二度と店舗は訪れないでしょう。一度出した方針で顧客に宣伝するのであれば、ここまで付き合わなければ、客はついてこないのです。

 そんなことなら、彼も初めから「どんどん指摘してくれ」などと言わなければいいこと、もしくは「そういったことなら、ちょっと忙しいから、あとで手紙に書いて送って欲しい」とでも言っておけば顧客満足は上がったと思います。「なんじゃそりゃ!」と有権者に思われないための方法を、その党の人は上から下まで持ち合わせていないのではないでしょうねえ。



2005年06月2週目 第75回 もっと普及せよ 太陽電池!
 2005年7月9日の朝日新聞(http://www.asahi.com/life/update/0710/005.html)によりますと「95年に米国を抜いて以来、世界一を続けてきた日本の太陽光発電の年間設置量が、04年に初めてドイツに抜かれた」ということです。生産企業に関しては、まだ日本の会社が上位を占めているようですが、こういった21世紀に育てなければいけない重要産業について、もっと支援すべきだと思うのは私だけでしょうか。

 わが国は資源小国ですし、核廃棄物を捨てておけるような、広大な砂漠も持っていません。いくら尖閣諸島から天然ガスが取れたとしても、エネルギー自給はできないでしょう。そして、もはや二酸化炭素をこれ以上排出することも出来なくなっています。太陽電池などの新エネルギーは、日本にとっても非常に大きな課題である事は、皆さんご存知のとおりです。

 であるならば、有望である太陽電池の普及は、国家としては大変重要な戦略とはいえませんでしょうか?ものづくりの観点から言っても、まだ他アジア諸国を寄せ付けない先端商品として、今後も力を入れていかなくてはならないと思うのです。そのためには、少しでも普及を促進させるような政策を、「クールビス」なんて寝言を言っているヒマがあったら打つのが政策担当者では無いでしょうか。朝日新聞の記事によりますと、ドイツでは太陽発電による電力買い取り価格を大幅に上げた結果、一気に太陽電池の普及が進んだそうです。

 日本でも、これをすればいくら価格低下が進んだとはいえまだまだ高い太陽電池システムの普及に、一役買えると思うのです。消費を抑えて発電量を増やせば、電気を高く買ってもらえるので、実質的に太陽電池は安くなり、節電のインセンティブも働きます。国としてすべきなのは、矮小な「補助金政策」ではなく、未来産業としての太陽電池の育成ではないでしょうか。

 太陽電池は世界的に需要が見込めるものです。地球上の資源は有限であり、ほぼ無限にエネルギーを生み出すことの出来る太陽からエネルギーを生産することは、世の流れから言って必然で ょう。太陽は、地球上の太陽が照りつける場所ならどこでも設置できます。市場は大きいですね。

 自動車なら道路やガソリンスタンドなど大きなインフラが必要ですが、太陽電池には「つなげる電気機器」しか必要ありません。太陽電池は海でも、そして宇宙でも使うことが出来ます(人工衛星は太陽電池で動いているわけですし)。つまりm「どんな場所でも」使ってもらえるのです。自動車のような「消費型商品」ではなく「生産型商品」であることも、21世紀を考える上で重要でしょう。

 太陽電池が日本国内で大きく消費されることになれば、生産設備の稼働率も上がり「規模の経済」も働く為、より安価に生産することが出来ます。生産技術も向上し、技術開発にお金がまわるようになれば、より効率の良い発電システムが開発されるでしょう。また、消費者からのフィードバックを受けることによって、より高性能で使いやすい商品が開発されます。太陽電池だけではなく、それに付随するサービス、関連システムを含めた商品開発が出来るのです。すると、ますます日本の競争力が上がります。もちろん、海外に売ることも出来ますし、京都議定書を守ることにも繋がります。

 まずは、「○○平方メートル以上の屋根には3年以内に太陽電池を取り付ける法律」でも作るべきです。今、上場企業は黒字決算が多いのですから、産業界の反対を押し切ってでも広大な工場の屋根に太陽電池を備え付ける法律を作れば、生産量は一気に増加するでしょう(需要が伸びれば価格も上がってしまうので、この政策はまずいとは思いますが、でもこれぐらいの策でもないと普及しないと思います)。

 また、無駄な公共事業を減らして、太陽電池の補助を大きくします。どうせ「お金を使う」のでしたら、国民の利益・財産になることに使うべきでしょう。もし個人の財産形成に加担する、ということであれば「貸与」することにして国が電池を持ち、個人からリース料を受け取る、といったことも考えられます。初期投資、もしくは運転コストを下げれば、需要は高まると思うのです。

 国内での新製品開発が進めば、「まだ使える太陽電池」の買い替えだって行われるでしょう。そんな太陽電池を、中古車のように海外へ輸出します。あるいは、円借款やODAの代わりに、諸外国へ無償供与してもいいでしょう。できれば、処理場を現地に建設し、安いコストでリサイクルをできるシステムを構築できればなお良いです。

 つまり日本から中古太陽電池を途上国に輸出→途上国で太陽電池を使用(これで電気のインフラを整えることもでき、二酸化炭素排出を抑えて排出権を手に入れ、海外に売ることも出来ます)→途上国で太陽電池をリサイクル・再資源化→日本が買い取り、新製品を生産というサイクルを構築できれば、かなり大きな国際貢献と産業育成が出来る、と妄想するわけですけど・・・・。



2005年06月1週目 第74回 ソーラーと耐用年数
 先日、太陽電池のセールスマンが我が家に来ました。最近は悪徳リフォーム業者も多いので、話だけ聞いてみたところ、これがまた大変面白いのです。投資はかなりかかりますが、「オール電化」つまりガスを止めて、すべて電気で賄うという契約内容にすればガスの基本料金もかからず、割引電気料金が適用されるので、十数年間使い続ければ元が取れるとのことでした(もちろん、日照時間などによる売電量の上下で変わるとは思いますけど、それぐらいで償却できるとのことでした)。

 化石燃料の消費を抑え、原子力発電の廃棄物を削減し、夏のクーラー使用量を抑えることもできる。結局はガソリンを燃やしているハイブリッド自動車のような「後ろ向き」なエコよりも積極的にエネルギーを生産してやろうという太陽電池の心意気が好きなのですが、いかんせん値段が高いわけです。

 セールスマンの話を聞いてから家族で検討してみたところ、導入は見送ることにしました。値段も、たしかにありますが、その太陽電池を設置する土台に問題があるのではないか、ということです。我が家はバブル期に立てられたものなので、築15年以上は経っているのです。一般的な木造住宅の耐用年数が30年。太陽電池が、ようやく利益を生んでくれるようになるのと建物の耐用期限が同じぐらいに来るのです。ミールやコンコルドのように耐用年数を過ぎてからも使い続ける事はできるのでしょうが、二つとも最後は故障続きだったり墜落したりしていたので、あまり良いアイデアではないでしょう。

 こうして私の個人的な野望だった「太陽電池生活」の夢は断たれてしまいました。ここでちょっと考えたのは二点です。@木造住宅は、なぜ30年しか持たないんだAなぜ太陽電池は高いんだ

 木造住宅は30年しか持たないというのは、ちょっと持ち主をバカにしている基準だと思います。最低でも、住宅は100年を耐えなければ意味が無いと思うのです。マンションなどが老朽化で建て替えないといけない、といった話はよく聞きますが、マンションでも何でも、建築ならメンテナンスしながら100年は持たなければなりません。

 なぜかといえば、せっかく作った建物でも30年しか持たないなら、立て替える必要が出てくるからです。こうして何回も建て替え続けていたのであれば、よけいな出費が30年周期でかかることになります。こうして造っては壊しの連続で、産業廃棄物ばかりが山と積まれることになるのです。

 パリやロンドンなんかに行きますと、平気で何百年も前に建てられた建物を使っています。消耗品ではなく、ある程度キッチリ建てて長く使う設計をし、メンテし続けることでよい物を長く使う、ということを考えなくては、これからのエコ社会は作っていけません。

そういえば、あと数十年したら、公共事業で建てられた公民館やら文化会館やらが「耐用年数を越えて老朽化」なんてことが問題になってきます。その時、おそらく日本政府には建て替えるだけの力は残っていないでしょう。余計なお世話かもしれませんが、各自治体の責任者は、よくメンテして長く保つ工夫をしておいたほうがいいと思いますよ。

太陽電池にコスト高は、次週に続く



2005年05月4週目 第73回 失望した!
 クールビズに関連して、ですが。

 クールビズを巡る話のくだらなさは、個人的にかなり失望しています。そもそも、この運動は、単なる「カジュアルな服を職場に着ていこう」などということではなかったはずです。地球温暖化を防ぐために冷房温度を上げる。そのために過ごしやすい、働きやすい格好をしましょうというのが趣旨だったはずなのに、やれネクタイをする、しないなどと、まるで中学校の制服規則のような話になったりします。

 くだらないですね。

 そもそも、クールビズというコンセプトを出したなら「非礼にならずに涼しく過ごせる、ビジネスの定番」なのだ、「着ている人は地球環境の為に役立っているんだ」ということをはっきりしなければなりません。それなのに首相自らが国会本会議場にはスーツで現れる。これでは「クールビズって言っても、ちゃんとした服装じゃないですから。ちゃんとした格好はスーツです」と公言したようなものです。もし本気で取り組むのであれば「どんな場所にでも着ていける、涼しく簡素な服装はこれです」という手本を、率先して示さなければならないと思うのです。そのためには冠婚葬祭から国会まで、恥じる必要の無いような涼しい格好

 それにクールビズのデザイナーについても、失望しました。ネクタイがなくて、明るい色のスーツをデザインすればいい、というのは怠慢じゃないかなと思います。本来、高温多湿な日本の環境で、夏でも日陰に入れば涼しい欧州で生まれた洋服を着ること自体が非合理的なわけです。なぜ、わざわざ非合理な服装で文明開化以来、日本人は夏をすごしてきたか。それがクールビズと、わざわざ言い出さなければならない原因があるはずです。

 それは、スーツの持つ意味性、記号性でしょう。きっちりした文明人、ビジネスマンの証としてスーツを着ているわけで、いくら薄くしてもウールのスーツを着る必然性もなければ、それによって仕事の効率が上がるということもないわけです。

 であればこそ、その記号性を逆手に取る、もしくは日本発の新しい礼服の概念を作ってやる、政府の公式行事だからこそ涼しく快適で風土に合ったファッションを偉い人に着させてやる、という気迫や野心が私にはデザインから感じられなかったのです。せっかく偉い人に着てもらえるなら少しぐらい冒険してみればいいでしょうし、もしそれが一般にも受け入れられるなら、きっと風当たりの強い初期に着た人に「でも、万博で○○さんも着ていました」といったエクスキューズにも使ってもらえたはずです。

 まあお役所相手に冒険ができなかった、ということなら大したことの無いデザイナーだったということになり、思いつかなかったということなら、これも平凡なデザイナーだったということになります。どちらにせよデザインには失望したわけです。

 ファッションは、当初は合理的な目的で作られたはずです。ダッフルコート、トレンチコート、ピーコート、どれも軍隊の中で合理性に合うように作られた結果生まれました。その他の洋服だって、由来には理由があったのです。暑い夏を持つ国で非礼にならない軽装礼服のスタンダードを日本から生み出すというのは、ノージャケット、ノーネクタイなどという矮小な試みのことなのでしょうか。そういった意味では、またこの運動自体にも失望しつつあるわけですが。



2005年05月3週目 第72回 帽子はどう?
 そういえば、いつの頃からか帽子をかぶらなくなりました。私個人の話ではなく、世の中が、です。例えば、古い記録やテレビ映像、映画などを見ると、サラリーマンが帽子をかぶっている光景を良く見ます。

 黒澤明監督の「生きる」では志村喬が歌いながらブランコをこぐ名シーンがありましたが、帽子をかぶっています。小津安二郎の映画に出てくるサラリーマンも、帽子をかぶっている人が多いような気がします。そういえば、私が以前に「エキストラ」として出演した「スパイゾルゲ」という映画(戦時中の日本が舞台)でも、小道具で帽子が渡されました。

 サラリーマンだけでなく、学生だって昔は学生服を着ていたので、制帽をかぶっていたわけです。いまは制服が自由化になったり、大学生は学生服を着なくなったりしたので、帽子をかぶるひとが減ったのではないでしょうか。電車に乗ってみても、帽子を被っている人は少数ですし、ましてやサラリーマンで被っている人は居ません。

 まあ、昔と違って空調が整っている上に、交通機関の発達やIT化などで長時間炎天下や寒空を歩く機会がなくなってしまったので帽子の出番は少ないですし、満員電車では周りの人に迷惑になってしまうから仕方が無いのかもしれません。それでも、暑い中を移動したりするときには涼しい上に冬は暖かく、紫外線も防ぎ多少の雨は防ぎ、ファッショナブルで薄毛も隠せる(我らが西武ライオンズの和田選手を見よ!)という利点があるのです。

 最近、クールビズという言葉が流行している(させようと努力している!?)ようですが、そのファッションの中に帽子を取り入れるということは無いのでしょうか。涼しく過ごせる帽子、とかあれば面白くて、良い契機になるのでは、と思って万博のクールビズファッションショーのページを見ると、帽子を被っている人は、あまり見当たりません。

 ネクタイは排除の槍玉に上がっているようですが、帽子は上がっていないようですし、「花粉症」の季節の次はクールビズ、その後は寒さ対策、といった形で帽子を売り込むようなことも出来るのでは、と思ったりします。そのためには、デパートの帽子売り場にあるオッサン臭さをどうにかしないといけないのではないでしょうが。



2005年05月2週目 第71回 無駄の無いものは美しいかもしれないが、無駄なものほど面白い
 無駄のないものは美しい。限界までそぎ落とされた肉体の作るダンス。余計なものが1%だって無い文学作品。流れるような茶道の手前。名人芸。無駄な部分がないものは、やはり美しい。必要最低限までに洗練されたものだけが持つ、優雅さ、気品、ストレートに伝わってくる感情。まさにプロフェッショナルだけが持つことの出来る美なのです。

 それが工業製品であれば、デザインに無駄が無いということは「美しい」だけに留まりません。実用性を消費者に喜ばれたり、投入する資源を節約(コスト削減)できたり、と経済的にも良いこと尽くめ。機能であっても、例えば軍用製品や業務用製品の持つ、役割に徹した厳しさにグッと来てしまう人も多いと思います。

 私も確かにグッと来てしまいますし、美しいと思うのですが、個人的には、それだけでは満足はできません。無駄の無いものは確かに美しいのですが、無駄が無いだけでは、のっぺりしてしまったり、妙にシンプルすぎたり、機能が限定されたりして、「フハッ」と思える面白みが感じられないのです。

 無駄をそぎ落としたものでも、そこに「遊び心」が感じられなければいけません。そこで「無駄の無いものは美しいかもしれないが、無駄なものほど面白い」と思ってしまうわけです。洋食器のように美しく洗練された白い陶器よりも、縄文土器のような、わけのわからないエネルギーの塊が、ボコッボコッと湧いてきて固まったようなものの方が面白い。表参道のデザインされた海外ブランドのおしゃれな看板よりも、田舎の道端にあるツッコミ所満載のペンキで描かれた看板の方が面白いのです。

 でも、無駄なものなら何でもいいわけでもありません。「不快」であるなら私も嫌です。あくまでも面白いものがいいのです。ですが、その面白さは無駄とは紙一重、もしくは無駄と思われてしまう類のものなので、両者を分けるのは難しいのです。一流の仕事とは、きっと無駄なものをそぎ落としても「面白さ」を残しているものなのでしょう。

 でも、不要な機能がたくさんついた物が持つ面白さだってあります。例えば、携帯電話。機能がたくさんあってわかりづらい。あんなに機能はいらないという意見もありますが、ところがどっこい、みんなカメラがついていたりネットが出来るケータイを持つのです。シンプルな電話だけのケータイはお年寄り向けとしてしか売られていません。

 また、パソコンだって、ワープロと表計算、ネットサーフィングだけならワープロ専用機にちょっと毛が生えた程度の機械で何とかなったはずですが、みんなパソコンを使っているわけです。贅肉を限界まで削ぎ落としたようなスパルタ式の戦士育成法よりも、アテネの様々な学問のほうが世に残ったように、人間は機能だけのものより「遊び」がある無駄なもののほう選ぶように出来ているような気がします。

 人も、一芸を極めた人は美しいでしょうし、素晴らしいでしょう。ですが、音楽家・画家・彫刻家・科学者の顔を持って、絵や彫刻の為に解剖までしていたレオナルド・ダ・ヴィンチの面白さ・深さ。平賀源内の多方面に首を突っ込む奇人ぶりのほうが、やっぱり面白いなあと思うのです。イチローよりも新庄のほうが面白いように・・・。



2005年05月1週目 第70回 静観できるのは今のうちかも2
 先週に引き続きまして、未来予想です。日中間の政治問題が深刻化する危険性の一つ目は、日本の失業率が上昇することで日本国内の不満が中国へと向けられて、若年層を中心として反中が問題になる危険性があるということでした。

 もう一つが中国のエネルギー事情逼迫による尖閣諸島ガス田の強制接収、もしくは非常に日本に不利な形での契約による対立です。この場合、武力行使も含めた領土問題にも発展しかねない、デリケートな問題です。それでも武力衝突は、日本側が理性的に平和解決に徹することと国際世論からの非難で回避されると予想されます。非常に不利な契約であったとしても、日本側が呑むと思われるからです。

 中国が現在の経済成長を続けますと、エネルギーや食糧、水資源の不足が深刻にならざるを得ません。仮に省エネ技術が開発されたとしても、向上し続ける生活水準を越えるだけの省エネは無理だと思うからです。世界の工場として様々な製品を生産し続ける中国としては、エネルギーの不足・高騰が製品の価格競争力を下げてしまうことも考えられます。エネルギー確保は絶対条件です。

 それに もし、エネルギー事情が逼迫し、中国が天然ガスの確保に走る状況になった場合、日本にとってもおなじようにエネルギー資源の入手が困難な状況と考えられるため、日本にとっても国内産エネルギーは貴重なものだと思われます。

 無理な要求が通れば通るほど、日本国内での対中国感情は悪化してしまうでしょう。つまり、今ならば日本に余裕があるからこそ、ある程度冷静に見ていられるわけです。ところが、それが日本の国益に損害を与えたり、日本経済の余裕がなくなってきたりしますと、本気の反発が出てきます。これでは共存共栄は出来なくなってしまうでしょう。

 今回の騒動の発端だと思われる戦時中の話も、60年以上前の話です。若い世代にされても、「オレは戦後生まれだし、直接関わっていない。第一、お前だって戦時中に生きていたわけじゃないだろ」と反発されるだけです。謝罪している/していないは、はなはだ主観的な基準であるわけで、靖国云々のネタが尽きてしまえば、また新たな問題が取りざたされるでしょう。客観的に誰もが納得する「謝罪した。これでおしまい」というマイルストーンがあればよいのでしょうが、それも見当たらない以上、対症療法では無限に問題を量産されてしまいます。

 まずは、日本の立場、考え方、謝罪してきた歴史などを相手国の国民にも知ってもらえるように活動・宣伝することも重要なのではないのでしょうか。その上で、日本側も中国に遠慮することなく、堂々と法に照らして自分の主義・主張を通すべきでしょう。

 長年感じていた道義的責任をいかに無力化することは、相手の外交カードを一枚減らすことにも繋がります。核も他国を攻撃する軍備も持たない以上、非軍事的な活動・宣伝を行い、「政府はああいっているけど、日本って、そんなに悪いやつばかりじゃないし、あいつらの言うことだって一理あるんじゃないのか」と相手国に思ってもらえるようにすることが必要なんじゃないかと思います。



2005年04月4週目 第69回 静観できるのはいまのうちかもしれない(紺洲堂の未来予想)
 最近、日本と中国の間において政治は冷たく、経済は熱い状態が続いています。特に外交問題は大きな問題になっているようです。中国では靖国・教科書・尖閣諸島を争点とした反日デモで、大使館や日系企業に被害が出ているという報道が聞こえてきます。今のところ、日本国内は冷静さを保っていると思うのですが、私が憂慮しているのは、この日本側の静観も将来は続かない可能性があるのではないか、ということです。

 私が考える、近い将来の問題点は二つあります。
1.
日本の仕事が中国に取られることによる失業率上昇から溜まる不満

2.
中国のエネルギー事情逼迫による尖閣諸島ガス田の強制接収、もしくは非常に日本に不利な形での契約

 まず、中国に仕事が取られる点を予想します。

 仕事をとられるという点で見ると、国外・国内の二つのサイドで話を進めなくてはなりません。つまり、「日本国内で中国からの人材に仕事が取られる」ことと「中国へ仕事がシフトする」の両方です。これによる失業問題で、日本国内での中国に対する不満は高くなると考えられます。

 日本の少子化等を考えると、海外からの単純労働者受け入れは避けられないでしょう。本当は必要ないかもしれませんが、国内においてさらに安い労働者を求める風潮からいって、現状よりも基準は緩むと思います。

 その結果、例えば日本人が嫌がる仕事だけではなく、現段階でアルバイトが必要な職場すべてにおいて外国人労働者は活用されるでしょう。ITの更なる進化でアルバイト自体の必要性も低下するでしょうし、アルバイトが日本人である必要性(言語・文化問題)も低下するはずです。

 利益拡大を第一とする風潮から言っても、賃金の高い日本人をわざわざ雇う必要もなくなってくるでしょう。すでに外国人の店員は珍しい存在ではありません。また、アルバイトの単価自体も下がるので、アルバイトだけで生活する人も苦しくなるかもしれません。もっと悪いことに、出稼ぎ労働者は故国へ賃金を送金する為、日本の外貨が流出する上に内需拡大にも貢献しない、というおまけまでついてきます。

 また、高度な技術者も中国から来るという可能性も高いわけです。すでにインドからIT技術者が来日しているように、ITに限らず、広範囲な第三次産業で中国から人を受け入れることになりそうです。よって、「日本人の職が奪われる」ため、ドイツの抱えるトルコ人問題と類似した状況の上に、高付加価値労働まで追加された文化・経済摩擦が増加する危険性があると思います。

 二つ目に中国へと職が流出するということですが、主にコールセンターなどの業務が中国へと移転するでしょう。アメリカの場合はインドへとアウトソーシング(外部委託)することが増えているそうですが、そのうち同じことが日本でも起きるでしょう。コールセンターへ電話すると、中国へとIP電話で飛ばされて、中国人スタッフと会話することになるのでしょう。

 また、企業の間接部門は、すべて中国へと移転すると考えられます。ITの進化は、たとえば翻訳ソフトの技術向上などで、高度な日本語力が不要な状況を作り出すでしょう。となると将来、日本語という非関税障壁も低くなることはあっても、高くなる事はありません。その上に、IT化によって間接部門の処理に関わる人員も削減されてしまうでしょう。よって、新しい産業が雇用を創出しなければ、ますます失業率は上がります。

 こういった問題を避けるには国内での外国人労働者を規制するか、あらたな産業へ人材をシフトさせ、フィンランドのように新産業を興す、といった政策が必要なのですが、おそらく今の状況では、そのようなことは政治家にはミッション・インポッシブルでしょう。そんな能力がある人間は、今のところ見当たりません。

 むしろ、政治家には所得二極化の不満を国内の外国人労働者に向かわせることになる危険が大きいように思います(これは、反日デモが中国国内の不満のハケ口になっている、というニュースの分析と類似した状況です)。失業問題と安易なナショナリズム、小学生の低学力化(リテラシー不足)が結びついたとき、フランスの極右政党の党首が大統領の決選投票に残ったような状況が、日本でも再現されるのではないか、と確信しています。

 こうなると、もはや日本側も静観できる状態にはならないでしょう。また高度な情報化とブログ文化によって、あまり練られていない、短絡的な考え方が世論を席巻する可能性もあると思います。そうすると、もはや「良識派」はお払い箱、政治家は次回の選挙のための人気取りとして世論に迎合し、強硬になっていくといったことも懸念されるでしょう。

 また、これらの抗議行動が一種の「イベント」として機能する可能性もあります。イギリスのフーリガンのように、何かにつけてサッカーを口実に暴れまわったりすることが常態化するのです。この口実に「抗議行動」が使われるのです。もしくは、抗議行動に参加すること=日本人としてのアイデンティティーを再確認できる、といったイベント性も考えられます。こういったことが、抗議行動を「ファッション」にし、強い不満を持つ層以外にも、抗議行為が広がってしまうことで、ますます問題が泥沼化する、といった状況も考えられます。

 これらの問題が自然解決するのは、中国が一人当たりのGDPで日本を追い抜いたときですが、それは日本がアジアの重要な地位から滑り落ちたことを意味しますので、あまり好ましいことではありません。もちろん、仮に実現するとしても、中国の内陸部にある巨大な貧困層の圧力から言って、そのような状況は「かなり長い間」実現はしないと考えられます。これらの問題には遅かれ早かれ、もっと深刻な事態になる前に対処すべき問題だと思うのです。

 もう一つは次週に続く



2005年04月3週目 第68回 絶対悪の魅力
 物語やゲームにとって一番必要なのは、主人公ではなく魅力的なライバルや悪役なのかもしれません。どんなに立派な主人公が冒険しても、冒険の原因である悪役がしょぼければ、やはり全体がつまらないものになってしまうでしょう。悪役は冒険物にとっては不可欠です。

 しかも、叩いても叩いても簡単には倒せないものがよいでしょう。すぐに倒れてしまっては面白くなく、主人公が成長し、修行し、いろいろな体験を積んではじめて倒すことが出来るのが物語の常道でしょう。しかも、ただ倒されるのでも面白くないので、ボスが復活したり新手が繰り出してきたりと、手ごわい方がより受け手は興奮できるのではないでしょうか。

 これら悪役は、100%弁護の余地なしに「絶対悪」であるほうが、受け手としてはカタルシスを感じてすっきりできます。問答無用で「悪」なものが良いのです。

例えば、時代劇で斬られる人。首魁である悪代官は、番組の前半部を使って悪事を働いており、どんなに悪いやつなのかということが受け手に了解されます。100%悪役で、良い所は絶対に見せません。だからこそ、不法侵入者である正義の味方が斬ることで100%の正義を達成できるのです。

 とは言っても、悪事を働く代官が斬られるのは納得できるのですが、冷静に考えると「出あえ!」で出てくる下級武士は斬られるだけの悪をしているのかなあ、と思ってしまえるのです。やっぱり先祖代々続く下役で、嫁と子供を路頭に迷わせないように勤め、上司の代官のやっていることが悪いことだと知っていても、権力には逆らえないし、たまに貰える口止め料なんかで一杯やってしまって、ちょっと自己嫌悪気味で、それでも侵入者が居たら斬らなくてはならないし、仮に斬ることが出来たら、加増してもらえるかも・・・と考えている34歳の小役人。

 ほら、なんかもう昔のように単純に斬れなくなってきます。やはり悪役は問答無用で悪のほうがいいんですね。事情を気にしていたら、心底楽しめないし、正義の味方も罪悪感にさいなまれます。

 悪役に事情があるのなら、それを成敗する側にだって事情があるはずで、そうなってくると、なぜ主人公は悪を斬る(裁く)権利があるのか?という問題にも繋がってきます。問答無用の正義が悪を斬る、という構図が必要なのです。やはり悪役は「絶対悪」のほうが安心してみていられるのです。

 翻って、私たちがこの世を「冒険」するにあたっては、悪役は見えません。そもそも、 そんなに弁護の余地の無いほどの悪役なんて現実世界には稀なのです。都合の良い悪役なんて居ないし、ましてや完全な悪などというのはありません。しかし、それがないということは、すなわち、私たちが寄って立つ絶対的な「正義」というものが無いことにも繋がります。

 絶対的な正義と言うものは、大きな魅力です。自分の行いが正しいと世間的に認められる事は快感ですし、悪を叩く事はストレスの解消にもなります。だからこそメディアのバッシングを見ていると、その過剰なまでの攻撃には、自らを100%善としたい、我々の自画像が透けて見えるような気がするのです。

 絶対善を手に入れる事は、決して困難ではありません。何かしらの価値基準があって、それに抵触するものは絶対悪、と決め付けてしまえば簡単に善玉になることができるのです。ユダヤ人だから悪人、地主階級だから悪人、と100%悪のレッテルを貼ってしまえば、人間は容易に正義の側に立って、冷静に酷いことが出来ます。「問答無用に悪い」連中を問答無用にやっつけることは快感ですが、それは勧善懲悪という名のフィクションです。

 我々には、そういったフィクションが少ない、ということなのです。メディアは次々にバッシングや糾弾すべき「獲物」を探してきてくれますが、それらは世間の集中砲火に合うとすぐに沈没して舞台袖へ下がってしまいます。100%正義の虚構を支えられるだけの魅力的な「絶対悪」が居ないのです。その点、中国や韓国の一部の人たちは、シアワセなフィクションを信じることができて、大変羨ましい限りである、という見かたも出来るのではないでしょうか。



2005年04月2週目 第67回 紺洲堂モバイル支店が開店いたしました
 ひょんなことでPHSに加えて普通の携帯電話も持つことになってしまいました。しかも通信料定額サービスまで結んだので、じゃんじゃんパケットを使っていました。使わないと損ですからね。そこで使い倒してみた結果、それまでの自分にとって驚くことが多かったのです。

@ケータイは暇つぶしに最適だ
 当たり前ですが、本を常時携帯している自分にとっては驚きに値しました

Aしかも、面白いものはお金が要る
 有料サイトが多いのですね。確かに面白そうなのですがお金がかかります。

Bしかも通信機能が付いている
 メールがあるのだから、当たり前と言えば当たり前なのです。

 という当たり前のことですが、実感すると違うものですね。PHSオンリーの時代では、 あまり自分の問題として捉えられませんでしたので。以上の3点から、

A.小説のような暇つぶしコンテンツは、自分が文庫本を持ち歩いて読むように、ケータイで読めるようにすれば読んでもらえやすいのではないか?

B.しかも無料ならば、そこそこいいと思ってもらえたら読んでくれる人が多そう

C.ちょっと面白いと思ってもらえたら通信機能で他人に薦めてくれそう

 という浅はかな考えが導き出され、紺洲堂書店の更なる発展の為にはケータイ支店を置くべき、という結論に至ったわけです。

 4月10日に開設し、QRコードも作ってみました。サイトもQRコードも簡単に作れる サイトがあったので利用してみました。あまりこういった製作は得意ではないのですが、 簡単でした。ケータイ向けだとPCよりもチープでも許されるということが、私に味方してくれたのでしょう。

 これからはモバイル専用の作品も載せていく予定です。もちろんPCからも見られますので、まあ物は試し、クリックしてみてください。

 モバイルのお供に、紺洲堂モバイル支店をよろしくお願い申し上げます。



2005年04月1週目 第66回 国立サブカルチャーミュージアム宣言!
 どの都市に行っても、その土地にしかない名物ミュージアムがあるものです。パリのルーブル、ロンドンの大英博物館、ニューヨークのメトロポリタンなどが代表例でしょう。パリならば他にも、オルセーやオランジュリー、マルモッタン。ロンドンならテート、ビクトリア&アルバート、ニューヨークならMOMA、グッゲンハイムなど、世界的に有名な館をいくつも上げられます。どこも観光名所として世界中から人を集め、あるいは地域に根ざした文化施設として地域の人に来てもらえるため見学者でごったがえしています。

 だいたいYOKOSO! なんて言っているだけで観光客が来るわけが無いのです。来て欲しいのなら、行ってみたいと思わせるためのソフト作りが必要なのです。ヘンなCMを流す予算があるのなら、世界に誇れるミュージアムを作ったほうが長期的には有効だと思うのですが。それにより、世界に対して独自の文化を発信し、研究し、保存していくことで、将来にわたって「日本にはアレがあるから行きたい」といわせられるカードを手に入れられるのでしょう。

 そこで、提唱したいのが「国立サブカルチャーミュージアム」の設立です。日本の大衆文化を系統だって展示・研究するのです。能や歌舞伎も、もとはサブカルチャー的なものでした。そういった古典文化から戦前戦後の映画や演劇、アニメ、ゲーム、現在の「萌え」文化まで含めても良いでしょう。

 大衆文化は、失われやすいもの。皆に読み捨てられ、消費されてしまう一方です。手に入りにくい映像などは必ず保存しておくべきでしょう。少なくとも、毎週発行されるマンガ雑誌を蓄えておくだけでも、十分に価値があることではないでしょうか。

 展示物としては、たとえばマンガの生原稿、アニメのセル用撮影カメラ、特撮の衣装、初代ゲームウォッチなどが上げられます。企画展として、各国のアニメ文化と受容の比較、正義のヒーローの衣装や思想の変遷、エポックメイキングな作品(ガンダムやエヴァなど)の影響を探る、ロボットデザインで見る仮想技術史、サブカル作品の元ネタ特集などは如何でしょうか?

 もちろん、館の前にはシロナガスクジラの模型ならぬ1/1ガンダムとザク、銀河鉄道999の模型、ゴジラやウルトラマンなども(原寸大は難しいかもしれませんが)置いてみましょう。殿堂なんかも設けて、サブカルチャーに貢献した人のレリーフを掲げるのも良さそうです(ハリウッドにあるスターの手形みたいに)

 国立博物館で「スターウォーズ展」や「テレビゲーム展」をやるような時代です。せっかく大衆文化を取り扱うのなら、アメリカの物を持ってくるだけでは芸がなさ過ぎます。せっかく国内に優秀なコンテンツがあるのなら、きちんと記録・保存していくことが、後進を刺激してあらたなコンテンツを生み出すことに繋がるのではないでしょうか?

 なんでアニメやゲームを国が集めなければならないのだ、というのなら現代のサブカルチャーなら現代美術との接点に注目してもいいでしょう。村上隆氏は、まさにそうですね。これから起こってくるアートも、作る人間がサブカルチャーの洗礼を受けているわけですから、ますます両者の関係を保存しておく意味が出てくると思うのです。(将来の研究用としても)

 コレクションはどうやって充実させるか、が問題です。これは、フランス政府がピカソの遺族に使った方法、つまり高額の相続税をかけて、亡くなったコレクターの遺族から現物で頂く、ということで解決できそうです。いや、部屋を埋め尽くすコレクションをゴミ同然と思われて、遺族から「はやく引き取ってくれ」と言われてしまうかもしれませんけど。



2005年03月4週目 第65回 「とっっかえて」
今週の通信は、主人の短編小説 「とっっかえて」 をお送りすることで、代えさせていただきます。
ご了承ください。


2005年03月3週目 第64回 美術館に一言!
 週末に美術館に行くと、大抵は混んでいます。それはそうです。平日は行けませんから。中には東京国立博物館や東京国立近代美術館など、金曜日は8時まで開いている場所もありますし、六本木ヒルズにある森美術館のように週末は夜12時まで開いているところもあります(でも、森美術館の場合は展望台とセットになっているので12時まで開いているだけかもしれませんけど)が、たいていの場所は5〜6時には閉まってしまいます。平日に美術鑑賞なんて無理でしょう。

 みなさんアートに興味があるのは良いことだと思います。文化的なことに親しむことも素晴らしいと思います。ですが、土日にリタイアした年代の人がいるのは、どうなのかなあと思うのです。平日に来られるでしょうに、なぜ混んでいる週末に「あえて」美術館に来るのかがよくわかりません。ただでさえ混んでいるのに、と思ってしまうのです。

 一緒に行く人がなにか仕事をしていて、というのならわかるのですが、どうもそれらしくも無いですし・・・。60歳以上の方は平日に行けば大人普通料金の半額、週末は通常の大人料金、と改めた方がいいと思うのです。そうすれば平日にも来てもらえる上に、ゆったりしているので物販やカフェなどでお金を落としてくれると思うのです。(私見ですが、年齢層が高くなるのは、印象派の大家や○○寺の仏像、ルーブルや大英博物館といった展覧会だと思われます。こういった美術展では、なんらかの対策を講じて客を平日へシフトしてもらいたいものです)

 美術館も美術館で、展示方法がよろしく無いと思います。順路設定するのは仕方が無いとして、混んでしまうとガラスの展示ケースの前が行列になってしまいます。前から思うのですが、あれは非効率極まりない。それに係員が「立ち止まらずに歩いてください」などとほざくのであります。

 だいたい美術品なのですから、気に入った作品の前で立ち止まってもいいじゃないですか。それにガラスケースの前以外にはデッドスペースといいますか、誰も居ないわけです。スペースの無駄です。気に入った作品の前に、じっくり居れるような作品は位置になっていません。空間内で鑑賞者が分散されるような配置にしてほしいですね。

 また、ずっと居られたら困るのか、椅子やソファ類が少ないのもありますが、それこそユーザーフレンドリーではありません。少しでも快適に鑑賞できるようにしたほうが、また美術館に帰ってきてくれると思います。(私は美術館の椅子で小休止と称して居眠りすることが多いので、これは重要ですね。そういえば、随分前にパリに行ったときに某美術館で居眠りしていたら係員がやってきて「大丈夫ですか?」と真顔で起こされたのには恐縮しました。「少し疲れていただけで、大丈夫です」としどろもどろになって答えて逃げましたけど)

 やはり、落ち着いて鑑賞できる環境を整えてもらうのが重要だと思うのです。珍しいものを見る、という目的の他にも「直に作品と対話が出来る」というのが大きな魅力なはずです。画集など印刷物では決して表現できない色や筆致、立体物ならば雰囲気、迫力、そういったものすべてに触れるために、わざわざ足を運んでいるわけですから、それを壊さず、いかに最適な状態で提供してくれるか、が展示の課題だと思うのですが・・・。学芸員の方々は頑張っているのでしょうが、そういったことももっと改善してもらいたいなあ、と思うのです。



2005年03月2週目 第63回 どちらが先なのだろう
 オレンジレンジ(Orange range)がメジャーになる前に「オレンジ・オレンジ」の題名を書いたと思うのですが・・・。自分の書いた題名に似た名前のグループがいるのを知って驚いた記憶もあるし・・・。

なぜこんな名前にしたかというと、一作目が「青」だったので、色のついた題名がいいな、と思ったからで、野球場に沈む夕日をイメージして「オレンジ」。それだけだとつまらないので「オレンジ・オレンジ」にしたわけなんですが・・・。

 私は、オレンジレンジのファンの人に「名前をパクって、ヒット数を稼ごうとしている、ひどい人だ」と糾弾されてしまうのでしょうか・・・?

 でも、糾弾されるなら、もっと前にされているはず。やっぱり黙殺されているのでしょう。もちろん、彼らのバンド名の由来は、私の作品からではないですから。

 ・・・。こんなことなら「オレンジ・オレンジ」でboominと一緒に音楽活動をしておくべきでした。もしやるとすれば・・・

「シェア・クラブ」
「シェル・クラブ」
「シェア・グローブ」
「シェル・グローブ」
「シェル・ブログ」
「シエル・クラブ」
なんてどうでしょうか!?

(多忙につき、やはり通常の通信ではございませんでした)



2005年03月1週目 第62回 「遅延」
 この頃、時間の経つのが早く感じます。本当に一日が早くて、その割には実感が無くて、私のどこかからさらさらと時間の粒が流出しているような感じです。こんな感じで一生が終わるのだけは御免だなあ、と思うのです。

(主人、寝る暇をようやく確保している状況で通常のクオリティーを保つことが出来ません。あらためてお詫びいたします。なるべく早く以前と同じクオリティーへと復帰させます)



2005年02月4週目 第61回 本当に、さらなる議論が必要なのか!?
 よく、テレビのコメンテーターなどが「国民の間で、さらなる議論が必要ですね」ということがあります。結論がまだ出ていないとき、どう考えても万人が納得する結論が出せないような難しいとき、世論調査でも反対が多数なのに強行しようとする政策決定のとき、もしくは自分が反対している案が通りそうなときに発せられると思うのですが、いかがでしょうか。

 この言葉は非常に便利ですし、コメンテーターの「締めの言葉」としても申し分ありません。議論には「ここで終わり」という終着点はありませんし、深めようと思えばいくらでも深められ、広げようと思えばいくらでも広げることができます。やろうと思えば、論者個人を攻撃したり、「○○は存在するのか?」といった哲学論争にすりかえたりも出来ます。

 たとえ議論が長く続いてきたとしても「更なる議論が必要」と言ってしまえば、いままでの議論が不利であっても「不十分だった」とチャラにすることができるでしょう。結論を、自らの責任で出すことも回避でき、「ふっ。俺の目から見れば、みんなまだ議論が甘いよ」と一段、上からものを見るような言い方もできます。コメンテーターには無くてはならない「職業的」態度です。

 また、議論がなぜ必要なのかも、この決めゼリフでぼかすこともできます。だいたい、議論の終着点として、どこを意図してコメントしているのかすらわからせません。それだけ議論について「不十分」とコメントできるならば、「この問題は議論され尽くしました。あとはどう決定するかだけです」「今年の夏ごろまでには国民の間でのコンセンサスも議論によって形成されると思います」といったコメントだって、あってしかるべきでしょう。ですが、私の記憶にはありません。 

 この決めゼリフを、番組の最後につけると、結論は「国民」に預けることができますし、コメンテーター自身が反対している内容についてなら「国民がまだ納得していないのに決定しようとしている、一部の偉い人間はひどいやつらだ」と思わせることもできるような気がします。

 というよりは、そもそも「さらなる議論」を続けたところで意見を統一できるか、という問題もあります。納得しない人は納得しないでしょうし、そもそも譲歩する気が全く無い、もしくは立場上できない人がいれば「さらなる議論」をしても解決はしません。議論を続けたところで小田原評定になってしまい機を逸する危険性も出てきます。

 それに、「さらなる議論」は、どこで行われるのでしょうか。「国民の更なる議論」と言われても、いままでに他の国民の皆さんと「さらなる議論」をした記憶がありません(私が更なる議論の仲間はずれにされていた、記憶力が悪くて参加したことを覚えていない、議論をしたことはしたが「更なる議論」と認識していなかった、そもそもそんな議論は存在しない、といった可能性が考えられます)。

 もし、そのような場で議論したとしても、その結論は国の政策に対して何らかのフィードバックとして機能するのでしょうか。そこで出た結論が国会に上がっていくこともなさそうですし、上がっていくとしても投票結果や世論調査でしかないと思います。その投票すら、真面目に考えて投票した人も、学校が同じというだけで投票した人も、知り合いに頼まれて投票した人も、名前がかっこよいという理由で投票した人も、洗脳されて投票したひとも、等しく一票で、議論なんか無意味で、結局、数の勝負でしかないという身もふたも無い現実の前では、「国民の間での更なる議論」が、ますます空虚に見えてくるのです。

 そう考えていくと、コメンテーターの「国民の間でのさらなる議論が必要」とは、何を言っているのかよくわかりませんし、大して意味の無い言葉なんだろうなあ、と思ってしまうのです。



2005年02月3週目 第60回 嗚呼、新幹線。
 祖父母が遠隔地にいたことから、もっぱら飛行機に乗ってきました。小さいころから乗っていたせいか飛行機や空港が大好きで、何度か「とんでもない目」にも合わされましたが、やはり好きです。旅に行くとすれば、その出発点は駅ではなく「空港」。新幹線には、仙台に旅行で一回、修学旅行で一回、計二往復しかしたことがありませんでした。そんな飛行機党の私ですが、なぜか近頃、新幹線に乗る機会が多く、この原稿も実は新幹線の中で書いているのですが、やはり飛行機のほうがいいなあ、と思うのです。

 まず、飛行機は手荷物から開放されます。新幹線では、手荷物を引いて駅やホームをウロチョロしなくてはなりません。車内でも、混んでいれば手荷物の置き場所に困ってしまいます。ですが、飛行機ならチェックイン時に預けてしまえは、あとは手ぶら。最低限の身につけられる貴重品だけ持てばよいのです。

 こうしてキーボードをタイプしてみると、新幹線は結構振動があります。まだ飛行機の中でPCを使ったことが無いので何とも言えませんが、飛行機ならばよほど気流が悪いときじゃないと、こんなに揺れないんじゃないか、と思います(思い込みなら済みません。いずれ、試してみたいと思います)。

 新幹線は乗り過ごす危険性があります。「ごゆっくり」という言葉に甘えてリラックスしていたら、寝過ごしてしまった、ということがあるかもしれません。目的地が終点なら構わないかもしれませんが、途中で降りる場合は緊張してしまいます。その点、飛行機は目的地に着くまではリラックスして眠れる上に、目的地についても眠っていたらキャビンアテンダントさんに起こしてもらえます。

 列車は、地震にも弱いですね。先日の地震でも新幹線が横転してしまう事故がありました。地上を走っている新幹線、いつ地震で脱線してまっさかさまに落ちるか、実はかなり心配しています。飛行機なら、地震は関係ありません。万が一、目的地が被災したとしても、別の空港へ飛んでいけます。

 飛行機は、飲み物をくれます。新幹線では車内販売で買わなければ飲めません。機上で富士山を眼下に眺めながら飲む烏龍茶が、またいいんですよね。狂牛病騒動の前なら、気兼ねなくビーフコンソメスープを頼んでいましたけど、烏龍茶でも構いません。

 景色、特に夜景は飛行機ならではです。いろんな街の夜景が見えます。きっとスペースシャトルから見た夜景はもっと神秘的だとは思いますが、飛行機の中でもその何十分の一の雰囲気が味わえます。着陸態勢になってくると、「ああ、やっと着くんだな(もしくは、帰ってきたんだな)と。ところが新幹線はトンネルが多く、夜景も大して綺麗ではありません。むしろ近場の風景が続くので、酔ってしまいそうになるほどです。窓外の輝きでは間違いなく飛行機が上でしょう。

 新幹線は速いと思い込んでいる人がいますが、新幹線は遅い。少なくとも、飛行機と比べたら遅くて仕方がありません。出発するときの高揚感も、飛行機の離陸時に比べたら、すんなりしすぎていてあっけない。国産の素晴らしい技術であることは認めますし、賞賛を惜しみませんが、個人的な好みを言えば、飛行機のほうが好きです。つくづく、日本もオリジナルの旅客機を持っていれば、と思います。

 とまあ、これだけ新幹線の悪口を言ってしまって飛行機のを言わないのはアンフェアかもしれません。飛行機は空港が近くにないし、手続きが面倒くさいし、セキュリティーチェックをしないといけないし、それでも事件に巻き込まれることもあるし、落ちたら助からないし、手荷物を間違えたりするし、気流が悪いと新幹線以上に揺れます。

 でも、やっぱり飛行機がいいんですよねえ。



2005年02月2週目 第59回 未知との遭遇
 この頃は、普通に生活していても外国人を見ることが、ありふれた光景となってきたようです。電車に乗れば、外国語講師風のアメリカ人がペイパーバックを読んでいたり、IT技術者風のインド人が仲間と喋っていたり、韓国人の学生が日本語の教材を読んでいたりします。国際化は、なかなか身近になってきたな、と実感しています。そういえば、私の小さい頃は、それこそ進駐軍ぐらいしかいなかったのですが、ジープに乗った兵隊さんからキャンディーやチョコレートを貰って・・・ということはありませんでしたけど、本当に見る事は稀でした。

 初めて、日本人以外の人に実際に会ったのは、おそらく3歳か4歳ぐらいの春だと思います。当時は団地に暮らしていて、年中、近所の公園で遊びまわっているような子供でした。その日も、いつものようにバトミントンのラケットと羽、黄色い縄跳びを抱えて公園へ行きましたが、いつも遊んでいた友達を誰一人発見できません。つまらないので、ラケットで羽をぽんぽんと高く飛ばして遊んでいました。

 すると、風にひょいと持っていかれたかと思うと、立ち木の枝に引っかかってしまったわけです。近くの回るジャングルジムから手を伸ばしても無理ですし、すらっとした肌の木でしたので、登ることもできませんでした。小さい自分からすれ、まさに巨木で、どんな人間さえも手が届かないような高さに引っかかっているように見えました。

 途方にくれた私は、残っていた縄跳びを投げ縄のように振り回して枝から外そうと試みてみましたが、その縄跳びの持ち手さえも太い枝に引っかかってしまって、引いても取れなくなってしまったのです。やっとのことで縄跳びだけは取ることが出来ましたが、良く見ると私が投げていた高さでは、まったく羽までは届かなかったのです。

 そうこうして、懲りずに縄跳びを振り回していたところ、白人の若者二人組みが、団地の公園に入り込んできました。絵に描いたような、ドラマに出てきそうな「外人の若者」が、団地の公園には場違いのように思えました。しかも山のように大きいのが二人、談笑しながら迫ってきたので、私は二人を「見なかったこと」にして、作業に没頭するふりをしていましたが、横目で追っていました。

 二人は、私の近くにくると、何事か話し合って、私の投げ縄が届かなかった上空から、ひょいと羽をつまむと、ほうってくれました。ぽかんとしていたと思います。子供心に、日本語で通じるのか、御礼を言ってわかるのかと、あたまの中がぐるぐると回っていました。そこで、ふと父が「サンキューなんて、アメリカ人は言わない。向こうではセンキューというんだ」と言っていたのを覚えていましたが、とっさには口から出てきません。やっと、ふたりが歩き去る後姿に、小声で「センキュー」と言ってみました。

 言った事に夢中だった私は、そのか細い「センキュー」が相手に届いていたかどうかはわかりません。そのまま話し続けていたので気がついていなかったのかもしれませんが、ちょっと眼で合図してくれたような気がします。

 その団地から引っ越しましたが、数年前、近所に立ち寄ることがあって、その木のところに行ってみました。10年以上経っていたのですが、記憶の中にあるような大きさではなく、自分で手を伸ばせば羽の位置まで手が届きました。

 後年、海外に行くことが何度かありましたけど、私の根底には、もしかするとこの体験があるんじゃないかな、と思うことがありました。これが、初めての海外に行って「とんでもない目」に合わされていたら、とてもじゃありませんが、外国人に対してシンパシーを感じられなかったかもしれないと思います。初めての「未知との遭遇」の善し悪しは、その後のイメージを決定付けるのかもしれません。

 いま、日本にいる外国人は多くなっていますし、今後も増えると思いますが、すくなくとも子供たちとの「最初の出会い」が良いものであることを願ってやみません。



2005年02月1-2週目 ・・・・・・・・・未入荷!?
boominが代筆しております。
ちょっと今週の主人は、ちょっとばたばたしているので
お休みさせてください。


音沙汰ないなぁ。



2005年01月5週目 第58回 エコとはおっしゃいますが
 よく、車などで「環境にやさしい」「燃費がよい」、あるいは家電製品でも「消費電力が少ない」などという売り文句を耳にします。それを聞くたびに、なんだかなあと思うのです。

 例えば、今乗っている車を廃車にして新しく「環境に良い車」に乗るよりも、今の車を乗り続けたほうが環境にやさしいのかもしれません。あるいは、いくら環境にいい車に乗っていたとしても、遠くまで楽しみの為にドライブなんぞに行くのであれば、地球環境にはあきらかに悪いのです。

 そもそも車を持つこと自体が、環境に対して悪であるわけですから、「環境にやさしい」と言うよりも、「環境に対する汚染の程度が、従来に比べたらマシ」という程度でしかありません。「これに乗ることが環境にプラスになります」といった正の効果は皆無なのに、「環境にやさしい会社」なんて言っているのを見ると、首を傾げざるを得ないのです。昔、外国のメーカーが「自分たちの会社の製品は環境を汚染している」という趣旨の広告を出した記憶があるのですが、彼らの方が、まだ潔く、環境に関する自覚があるように思います。

 だからと言って、車に乗ること自体を否定しているわけではありません。それを言ってしまったら、車以外に交通手段が無い場所では生きていけませんし、車を趣味にしている人、それを仕事にしている人たちが困ります。そもそも多かれ少なかれ先進国のライフスタイルは環境を犠牲にしているわけですから、私がエラソーなことを言える立場にいるわけでもありません。

 それにしたって、「環境」で新しい欲望を刺激して、もっと消費させようとしているにも関わらず「環境にやさしい」は無いだろう、と思うのです。例えば、「この車は、ソーラーで動いているので、燃料は一切必要ありません」とか「この車に乗れば、空気中の二酸化炭素を吸収して、そのエネルギーで動くので、環境にやさしいです」というなら、話はわかるのですが、新しい余計なモノを買わせるための言説として「エコ」を多用するのはちょっと・・・と思うのです。

 いっそのこと「わが社の製品は修理した方が環境に悪いと判断できるまで使い倒せます。修理が安いか買うのが安いかもキッチリ計算します」とか「新技術が開発されれば、お使いの製品を迅速に、環境フレンドリーへグレードアップします」と言ってくれたほうが良いと思うのですが・・・。

 環境にやさしい商品を否定しているわけではありません。燃費が良いに越したことはないですし、リサイクルしたものを使った方が良いに決まっています。ですが、それによって全体の消費が増えてしまったら、結局のところ環境に悪くなってしまうのではないか、という視点が企業のCMにも消費者の側にも欠落していることが、どうも引っかかるのです。

 数年前のことですが、週刊誌に載っていた自称「環境にやさしい」主婦の記事は印象的でした。それは、牛乳パックの回収に沢山のパックを持って行きたいが為にせっせと家族に牛乳を飲ませていたそうです(健康にも良いですし、お子さんの背は伸びるから良いとは思いますけど、必要以上にのむ必然性はないのですが・・・)

 また、私が中学校の生徒会役員をしていたときのこと。生徒会で空き缶回収を実施していたのですが、なぜか一リットル入りのビール缶を大量に持ってくる人がいる。そっと話しているのを聞いてみると、お父さんに毎晩ビールを大量に飲ませて意気揚々と持ってきたということです。本来の趣旨は、家庭から出るのもそうですが、道端に落ちている空き缶も拾ってこようというものでした。その割には通学路すぐに放置されている空き缶を誰も拾わず、遅刻ギリギリの私が拾っていったことも多かったのです(回収担当は当番制でしたので、そんな用でもない限り遅刻ギリギリです)。

 要は、そんなツマラン虚栄心を満たす為に、ムリに消費する人々を、私は気に食わないのです。その虚栄心や欲望を、良い方向へ持っていければいいと思うのですが、現状は、企業によって「より多く消費させるため」への宣伝材料にしかされておらず、やはり世間でエコとおっしゃる事柄には気に食わないものが多いのです(モチロン、尊敬できる会社もありますけど)。



2005年01月4週目 第57回 街には余裕が無い
 「ドラえもん」のいつもの風景に「土管が置いてある空き地」があります。誰が何の目的で土管を放置して、なおかつマンションも建てずに駐車場にもせずに遊ばせてあるのかは不明です。そういえば、マンションが建つ!という話も作品内に出てきたことがありますけど、基本的には何も建たない。のび太たちの遊び場と化しているわけです。

 こういった場所は、住宅地では本当に少ないと思います。遊んでいる土地であれば固定資産税を払わなければならないので、マンションや駐車場にして少しでも収入を上げようと考えるのが普通です。所有権がややこしいことになって・・・という場合もあるでしょうが、それは一時的なことであって長いこと何も使われないことはありません。こういった土地があること自体が、今の私たちにとってはファンタジーと言えるでしょう。のび太の街には、こういった土地があることを許容している「余裕」があるのです。

 ただ、今年は阪神・淡路大震災から10年ということで防災から考えてみるならば、こういった空き地は、防災面では本当に役に立つと思うのです。避難場所にもなるでしょうし、延焼を防ぐ空間にもなるでしょう。仮設住宅の建設現場になることも考えられます。

逆に言うと、この種の余裕(あそび)の無い都市は、避難場所も緩衝地帯も、仮設住宅の建築場所もないということです。何かあった場合、非常に脆くなるのではないでしょうか。

 都市には、何にも使われていない空間はありません。どの場所にも値札が付いており、勝手に不法占拠しても、大目には見てくれません。無駄なスペースは「公園」として整備・計画された猫の額ほどの土地として供給されています。それ以外は、すべてICチップのように高度に集積化されて、高速にお金をやりとりしているのです。ところが、都市というのはコンピュータと同じくらい水や衝撃に弱くなっているのです。

 無駄が無いことは、一見良いことだと思われがちです。リストラした会社は高く評価され、ダイエットした人は異性にもて、無駄な歳出を削減した政治家は再選されます。ところが、無駄が無いことが良いというのは、あくまで世の中が平和に何事もなく回っていることを前提とした、単なる幻想にすぎません。その前提も「昨日は無事だったから、今日も無事だろう」という、何の根拠も無いことなのです。

 ひとたび何かがあったとき、その無駄のなさは致命傷になるかもしれません。リストラした会社は意気消沈、もしくは社風が一変したため次の危機・チャンスに弱く、ダイエッ トした人は災害のときに贅肉が無いので真っ先に倒れ、無駄と言われた福祉・文化を削った結果、長期的に無味乾燥な地域と化してしまうかもしれません。すべて、何事もなく物事が進む平和な世の中では賛美されていても、ひとたび状況が変われば、まったく脆いものでしかないのです。

 ですから、都市には意図的に「無駄な」空間や施設を作ります。公園や劇場、博物館や美術館などですね。こういった施設の中には、確かに何の役にも立たず、レベルの低いことしかやらないゴミのような場所もありますが、それだって使いようによっては良い施設になるかもしれません。だいたい、こういった無駄は、何かの改革ですぐ削減されてしまうものなのかもしれませんが、むしろこういったことで意識的に、街や人間に無駄な部分を作ることこそが本来、人間にとって必要なことだと私は思います。

 そもそも、無駄・無駄というならば、日本人のほとんどが無駄な職業についています。人間は、最低限の衣食住があれば生きていけるわけで、その職業がゴッソリ世の中から無くなってしまったら、即日本人が全員死亡してしまうほどのインパクトのあるものは第一次産業と一部の第二次産業の職業ぐらいしか思いつきません。総務省の統計によると、平成16年11月だけで237万人しか農林業に従事していないわけです。これ以外の日本人は、何かがあれば、都市から買出し列車に乗って米を担いでくるしかない状態になる可能性だってあるわけです。それが、都市から「農地」という無駄な空間を排除して高度集積化した結果であることは間違いないでしょう。

 たまにビルから外を見ると、嫌になるくらいビルが建っていて、それが嫌になるくらい遠くまで続いていて、やりきれなくなり、外国で市街地から少し出ただけで郊外の自然に触れられるような生活がとても羨ましくなります。そういえば、都会に住んでいる人の心も余裕が無いですよね。



2005年01月3週目 第56回 場の共有
 OFF会開催に関連して、なのですが、場の共有に関してです。

 慣用句にも「同じ釜の飯を食う」というように、その場で飲食を共にするという事は、人間にとっては非常に重要な意味を持っていました。例えば聖書の「最後の晩餐」もそうでしょうし、茶道はそれを芸術までに高めた文化です。いくらIT時代と言ってもOFF会で飲み食いするのは、やはり、そういった人間的な部分は不変であり、決してオンラインには載らない性質のものだからでしょう。

 ここでともに飲食するということは、意識の共有に重要だからです。例えば、原始時代にグループで狩などを行い、火を囲んで共に飲食する。そこで、自分が集団の中の一員であり、共に倒した獲物を食べることでその成果を実感し、この集団に属していることの意義を確認する。つまり、意識を共有できるわけです。これは、肉体に必要な飲食物だからできることであって、オンライン銀行から全員にお金をオンラインで分けたところで何の感慨もないと思います。

 ひとりが東京、ひとりが大阪にいて画面を通じて一緒に寿司を食べるとします。それでも意識の共有は出来ないでしょう。寿司は絶対に同じものではありませんし、「私、ウニが嫌いなんです・・・」「じゃあ、僕が食べてあげるよ」といったやり取りも出来ません。こういった身体のインタラクティブ性は、身体がある限りなくならないでしょう。

 インタラクティブ性を考えてみると面白いですね。初期の映画を見た観衆は、向かってくる汽車の映像にパニックを起こしたそうです。演劇の延長で映像を見て、そのうえに本物の汽車しか見たことが無かった人々は、実際に自分たちに向かって汽車が向かってきて轢かれてしまうと思ったのです。いくらCGが進化しても、これと同じぐらいのインパクトはありません。ここで我々が古人を笑うことが出来るのは、映画にはインタラクティブ性がないということを知っているからです。

 演劇を例にとって見ましょう。劇の最中に舞台に係員のような人物が出てきて「劇場が火事になりました。落ち着いて係員の指示に従って避難して下さい」と言ったとします。ほとんどの人が避難するでしょう。ところが、映画の中で「豪華客船が氷山にぶつかって 沈みます。救命ボートに避難してください」と言われて避難する人はいません。見ているものは同じく非現実なモノですが、その場を共有しているか、ということに重要な差異があるわけです。

 また、インタラクティブ性が無ければ緊張感もありません。芝居には観客の反応がダイレクトに伝わってくる緊張感があります。映画にも、もちろん緊張感はあります。その緊張感は、あくまで監督やスタッフ、カメラから発せられるものであって、決して劇場で見ている観客から発せられるものではありません。俳優は、そういった撮影現場のインタラクティブ性に対して緊張感を持っているのではないでしょうか。

 劇場では、ギャグが受けているか、泣いているか、といった場の雰囲気が伝わってくるのです。もちろん拍手でお客さんがどれだけ楽しんでくれたか、もわかります。ライブコンサートでしたら、曲の一節を一緒に歌うこともできます。スポーツの応援でも、直接、選手に対して声援をかけることが出来ます。

 この一体感は、いわば観客を「共同作者」「共犯者」にまで引き上げるものであって、オンラインや映像芸術にはありえないものです。それがライブ盤というCDが売られる一つの魅力ともなっているのでしょうし、これこそが芸術が持つ、複製が絶対に不可能な魅力であると言えます。

 考えていくと、通信教育が挫折しやすいのもなんとなく分かります。緊張感がないのです。通信教育というものは、それを生徒が学習しなくても送付した時点で完結しているわけです。もちろん、回答を送ってもらって、採点をしなければならないというプロセスがあるから、とは言うものの、受講者以外の人が代行しても、あまり差し支えはありません。「その受講者じゃないと意味が無い」という部分が希薄なのです。それでは、よほどモチベーションがある人で無い限り、続きません。

 それは大学の授業でも同じことで、日本の大学の授業は、そのインタラクティブ性に欠けていることが多いと思います。せっかく場を共有しているのですから、それを利用しないのであれば、授業をストリーミングで流し、課題の出題・回収・返却をウェブ上で行う方法と大差はありません。一方通行であるのなら、です。

 かといって、学生に話しかけておけばいいという問題ではありません。一方的な「頭のいいオレが、愚学生に教えてやる。何かあったら質問に来い。教えてやろう」的な態度は、まさにインタラクティブ性を履き違えているのか、自分を何かの教祖サマだとカンチガイしている人物だと言ってよいでしょう。学生の反応・考えから、自分の授業を改善していく、自分も共に学ぶという視点がなければ、インタラクティブ(意識の相互交換)ではないと思うのですが・・・。たかが数十年、余分に生きているだけなんですからね。宇宙の規模に比べたら、そんなの誤差なんですし。



2005年01月2週目 第55回 時計あげます。
 数年前の、こんな寒い時期でした。日も落ちていて早く帰って温まりたかったので、駅から急ぎ足で帰ったとこと、自宅近辺に怪しい車(しかも窓ガラスが黒い)が止まっていました。なんだか「お近づき」になりたくないなあと思って知らん振りして通り過ぎようとしたところ・・・私の希望を打ち砕くかのように、黒い窓がウィーンと下がっていきました。

 中からは、本当に絵に描いたような、そういう感じの人です。ありゃりゃ。別にガンをつけたわけでもなく、つけようなんて気も毛頭なかったのですが、何だろうと見てしまったのかもしれません。中から
「こいつでいいかな」
との声。

 うわ・・・。拉致られる。拉致されて湾に沈められる・・・と思いましたが、こうして原稿を書いているので、生還できた事は間違いないですね。

「兄ちゃん、ちょっと・・・」

 道に迷った感じの気楽さの中に、このまま逃げたら地の果てまで走って追いかけてきそうな狂気が含まれているような、いないような感じです。いつ拳銃を突きつけられるか爆発物を投げられるか、白い粉を「預かって」と言われても逃げられるように、そっと近づきました。

「お兄ちゃん、時計欲しくない?」

 はあ・・・・時計ですか。時計?

「実はね、東京の○○っていうデパートの裏でブランド輸入の店やっているんだけど、いま展示会からの帰りなのよ。それで、展示会用に間違えて1個余分にオーダーしちゃったのね。このまま持って帰ったらオーナーにエライ目にあうから、兄ちゃん買わない?」

 見ると、ごつい金の腕時計がケースの中に納まっています。
「これ、○○○○っていうブランドなんだけど、聞いたことある?凄い高いやつで、普通は20万ぐらいするんだけど、今回は・・・・」

 来ました。とんでもない展開になりました。買わないと離してくれなさそう。しかも、案の定、財布の中には2千円と図書券が3千円分しか入っていません。これは、兄ちゃんナメとんのか→誘拐→ボコボコ→とてもここでは書けないような目にあう、というコースを辿るのではないか、とダッシュ体制を整えました。ゴツイ車ですからUターンは出来ないだろうし、このあたりのナンバーじゃないので、撒いてしまえば地元ですから、交番に駆け込んで車のナンバーを伝えることも出来ます。

「で、今回はいくらでもいいんだけど。もって帰れないからさ。今夜の酒代ぐらいでいいし」

 確かにブランドは私も知っているぐらい有名なところでしたが、どんな田舎の親父がするんだ、というセンスのかけらも無い金無垢の時計で、そのオジサンの「18金でダイヤがついている」というテレビ通販並みの売り文句も、まったく色あせてしまいそうなものでした。たとえ本物だとしても、絶対に着けたくないような代物です。暗かったので、万が一、本物であったとしても分からなかったと思います。

「兄ちゃん、これ本当に買うと高いんだよ。何なら、買った後にどこかに売りに行ってもいいんだよ」
「はあ、でもいいです」
「兄ちゃん、いくらもっているの」
「現金は千円、図書券は3千円ぐらいです」と少なめに申告。

 チッ、それなら、図書券でもいいか、との声が車中から漏れてきました。
 それを聞くと、なんだか図書券を取られるのも嫌だし、このまま穏便に、金を出さずにお引取り願う為にはどうしたらよいか、とようやく冷静に考えられるようになりました。

「やはり、私にはブランド品の価値が分かりませんし、そんな何十万円もするもの、やはりお金は出せません。こういうのはどうですか、私が預かって、後で売りに行きます。それで売れた分を折半しましょう。後輩だといって、その店に行きますから、そのときに残りのお金を渡します」

 結局、これの一点張りで相手は諦めて、穏便に引き取っていただけました。

 ああ、デパートの裏手の店ですか?もちろん、該当しそうな店はありませんでした。それで、やっと「あの時、千円でもいいから出して買っておいたほうが良かったかな」という迷いも吹っ切れた、というわけです。

 しかし、謎ですね。なぜ通行人、しかも金を持って居なさそうな私を、住宅地のど真ん中で捕まえて、金の腕時計を売りつけようとしたのか。そもそも、なぜあんな場所にいたのか。まあ、よく分かりません。つっこんで考えるのも止めておきましょう。



2005年01月1週目 第54回 新年のご挨拶 2005年
 明けましておめでとう御座います。今年も、わがCONS@WORLDをよろしくお願いいたします。今回でboomin&紺洲堂のお送りする紺洲堂通信も、丸一年、毎週欠かさず続けることができました。BBSへのコメントを書いていただいた皆様、誠に有難う御座いました。

 さて、新年ということでまた、今年の抱負・目標を宣言したいと考えておりますが、まずは昨年の達成度を検証し、あらたな年へと繋げていこうと考えております。

@週に一回の紺洲堂通信
これは、毎週ギリギリのところを何とか持ちこたえて、いままで続いております。

A月に一回の新作小説発表
数えてみたところ、昨年度の実績は2065シリーズの改訂も含めて、やっと6回。 つまり2ヶ月に一度という、目標達成率50%の不甲斐ない結果に陥ることになりました。

その結果、かどうかは分かりませんが、
2003年 平均 約50ヒット
2004年 平均 約44ヒット

 と、なんと前年よりも下降傾向にあるのです。週に一回のコラム更新だけでは、なかなかヒット数の上昇は見込めないことがわかりました。そこで、今年度も新たな企画を立ち上げます!

<<月に一回の新作小説発表>>
 現状では、オリジナル短編小説・2065・地図シリーズの3本柱を中心に書いておりましたが、今年から「ライトノベル」の分野に挑戦いたします。それも、2年ほど暖めておりました「学園もの」の執筆に取り掛かろうと考えております。

 これにより、さらに広範囲の方に楽しんで頂けるサイトを目指してまいりますので、ご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします。

2005年 元旦

紺洲堂主人