2004年下半期(7月〜12月)


2004年12月4週目 第53回 コンテンツ勝負
 なんだかんだ書いてきましたが、今回で2004年の通信は最後です。皆さん、良いお年を。

と勢いで終わらせてしまうところでしたが、話を続けます。こうして時勢に逆らってブログではなくコラムを、そして小説を書いてきましたが、いつも考えていたのは、このコンテンツの大海原で、どれだけの人が見てくれているのだろうか、ということでした(カウンターを見れば分かることですけど)。インターネット上に公開されるコンテンツは、違法コピーを含めれば、相当な数に上っているはずです。このなかから、自分の書いたものを、時間を使って読んでくれる方には、本当に感謝感激雨嵐でございます(出来れば、ご家族ご友人にもお薦めいただきたく存じます)。

 インターネットというのは、一年中やっているオリンピックのようなものでしょう。競技の種類は多く、それが瞬時に全世界へと伝わり、昼も夜も無く進化し、新記録が生まれているのです。その端的な例がウィルスやネット犯罪などでしょうか。いたちごっこですが、次々に新手の技術が生まれてきます。オリンピックは4年に一度ですが、このネットの勝負は、始終、気を抜けません。

 私たちの守備範囲、かつこのCONS@WORLDのメインであります各種コンテンツ、すなわち音楽、BMS、エッセイ、小説、対談も同じことが言えます。一年で公開される新しいそれらのパターンに加え、ネットでは過去の名作も読むことが出来ます。版権の切れた漱石や鴎外の作品は青空文庫で無料公開されていますし、その他のセミプロやプロの人が書いたものですら無料で読むことが出来るのです。さらに、それら以外にもネットには様々なコンテンツが存在しており、その中で来ていただくのは僥倖といってもよいかもしれません。

 この24時間365日オリンピックに参加することだけでも意義があるのかもしれませんが、少なくとも公開するからには、趣味とはいえ沢山の人に見てもらいたいし、楽しんでもらいたい、考えてもらいたいのが製作者としての思いですし、目標です。これからも一日百ヒットを目指して書き続けていきたいと思います。また、お時間があればお立ち寄りください。今回は年末で皆様忙しいと思われますので挨拶のみといたします。
メリークリスマス。

 あと、2005年からは、懲りずに新企画をスタートさせる予定です。詳しくは、近日公開の「募集」欄をご覧ください。



2004年12月3週目 第52回 本当に日本人だけ?
 よく、新聞や雑誌、テレビのコメントで「日本人はナントカカントカ」「だから、こんなの日本だけですよ」というフレーズを耳にします。大抵は、日本社会の特殊性を海外と比較してコメントするという形ですが、よくコメントの内容を考えてみると本当に日本人だけなのか、大変怪しい場合もあります。他の国でも似た事例があったり、あるいは日本人に限らず、人間がその状態にあれば同じ状況に陥ると思われたり、決して日本人に限らないこともあると思うのです。

 もっとも、すべての国と比較してコメントするのは不可能でしょうし、複数国の経験があったとしても、その国々が逆に特殊だったりするかもしれません。もし、そこで発言するとしても、日本人は云々といった枕詞を並べなければよいですし、あるいは一般的な心理学・社会学で人間に共通していると思われる部分からどれだけ日本人が離れているか、という文脈で発言すべきだと思うのです。

 といいつつ、じゃあ日本人って何だ?という疑問を持たれる方も多いと思います。それについて発言することを職業になさっている人もいらっしゃる上に、もし私が定義したところで正確かつ万人が納得するかとも思えず、日本人=日本国籍を持つ日本国民であると言ってしまえばそれまでなので、立ち入ることはしません。それでも、カテゴリーに分類することは、よく考えると大変難しいということです。

 「日本人は流行に踊らされている」

 よく聞きます。何かが流行しているというニュースの後に出る、コメンテーターの常套句でしょう。でも、日本人が皆、流行に踊らされているかと考えると、よくわかりません。そのニュースから得られる確実な情報は、きっと「新宿では○○の売り上げが上がっており、街を歩く人たちにも持っている人が多い」ぐらいなものではないでしょうか。

 あるいは、「日本人は携帯なしだと生きられない」というコメント。本当に日本人だけなのでしょうか。他の国の人だって、そうかもしれません。たとえ日本人が携帯なしだと生きられないぐらいの中毒であったとしても、他の国も同じならば「人は携帯を一度持つと、なしでは生きられない」ということが正確でしょうし、そのコメントは「人間は水を飲まなければ生きていけない」と言っているのと大して変わらないようにも思います。

 そもそも「日本人は○○」という日本人は、誰を指しているかと追求してみると、よくわかりません。定義したところで追及してみても、国→地方→県→市町村→地区→町内→家族→個人と、結局は個人個人のレベルまで話が落ちてしまい、「日本人って言っても、AさんBさんCさん・・・・だけだよ。他の人は違うのに、なんで日本人は○○って言うの?」と結論付けてしまうと分類する意味がなくなってしまいます。

 だからといって分類するのが無意味で、日本人という概念が幻想かといいますと、そうではないと思うのです。種の分類でも、生物学の分野では厳密な判定は下せないようです。それは、生物が系統をさかのぼれば連続した存在だからだそうです(新しい生物学の教科書 池田清彦著 新潮文庫)。それでも人間は種を特定できます。チワワとゴールデンレトリバーを、同じ犬という種に分類できるのです。

 日本人も同じく、厳密には判定は下せませんが、確かに感覚的にはあると私も思いますし、そもそも万物はビッグバンから連続して今まで存在するわけですから、ケチをつけだしたら分類するということ自体が無意味ということになりますし、あまり突っ込んで考えすぎると議論自体が不毛になります。これもまた、テレビなどの討論番組によく見られる風景ですけど・・・。



2004年12月2週目 第51回 究極のゆとり教育
 ゆとり教育の是非など、論議する人は多くても結論に至らず、解決案も何もあったものではありません。そんなことを言っているうちに、日本の学力は国際的にも低下の一途を辿っており、いたずらに時間を消費するだけで解決策といえば、朝に10分間本を読ませる取り組みなんて、つまらないことをテレビで取材していたりするぐらいです。

 そこで、私が僭越ながら究極のゆとり教育を提案しましょう。ゆとりとともに劇的ビフォーアフター並の学力向上、すべての項目で国際一位を取れます。

 ズバリ言います。「公立学校一日十時間教育を敢行せよ」です。そもそも、ゆとりがなぜ無いかというと、学校の授業時間が長いからではないはずです。塾とか稽古事で時間をとられる、ひいては受験のための特殊な勉強などに時間をとられるからです。ならば、こういったものの存在を無くし、時間を効率的に使えばゆとりを得られるのではないでしょうか。それには、学校の授業の質を高め、塾に行かなくても高度な内容を学べ、落伍することの無いようにすればよいのです。

 塾で習った内容を、もう一度、学校で習いなおす。それが、そもそも時間の無駄です。まずは、学校の内容を高度化し、学習塾を無用にします。その為には、能力別の少人数クラスを取り入れるべきでしょう。児童個人個人にあった教育をするためです。教師になりたい人間はたくさんいるわけですから、新たな職の創出にも繋がります。塾の先生を雇用するのも良いでしょう。10時間勤務は、さすがにきついですから、朝シフト、夕シフトの二人制です。二人の勤務時間がかぶった時間帯には能力別の正規授業(算数とか国語とか)、一人しか居ないときは自由授業やクラブ活動とします。

   では、なぜ10時間かといいます、一つには、無駄なことが出来る為。もう一つは親御さんの為です。10時間あれば、工作や音楽などの芸術、学園祭の練習、クラブ活動、何でも創意工夫で出来ます。朝10分間読書なんてビンボウ臭いことではなく2時ぐらい読ませてあげていいじゃないですか。いろいろなことを教える、企画することが出来るはずです。学校に居場所がない、という子たちにも色々な活動の場を提供してあげれば、違った道が開けるかもしれません。

 模型を作らせてもいいじゃないですか。模型クラブを作ればいいのです。昼寝をさせてあげたっていいじゃないですか。昼寝クラブを作って活動させればいいのです。見たいテレビ番組があったっていいじゃないですか。テレビ部を作らせたらどうでしょう。しかも、ただ見せるだけではなく、自分たちでも作らせるのです。パソコンとカメラさえあれば、番組は作れます。

 ゲームなんかでもいいでしょう。親の目の届かない場所で悪い仲間でたむろするよりも、学校でクラブ活動としてやらせてみては如何でしょう。攻略法の研究、トーナメント戦の開催、ゲームの批評、自分たちでゲームのプログラミングなど、ただ遊ぶだけではない、生産的なこともする機会を与えてあげることで、学校の企画として十分、成立するはずです。自主的に、何か企画できる人間が求められているのですから、そういった場を提供して鍛えてあげるのです。チームの運営の仕方だって、上手になるはずです。

 学校内で多様なもの(サービス)を提供すれば、ひとりひとりの多様性も尊重されるでしょう。将来、こういった職につきたいというシミュレーションにもなります。就職してから、こんなんじゃなかったと辞めることだって無くなります。自分の適性を見極める為のよい機会になるはずです。

 こういった活動を提供することにより、勉強のモチベーションは高くなります。これをする為には、この教科を勉強しないと、とか。学校で習ったことも生かせたら面白いですよね。例えば模型クラブなら、社会科に興味がでてくるでしょう。昔の船とかなら歴史、いまの自動車なら、社会科の範囲です。飛行機なら、理科も関係してくるかもしれません。細かいディテールを出す為には・・・とか、自分で教科書を開いて勉強してくれるかもしれません。

 授業時間だって、10時間あればたっぷり取れるし、分からない児童に対しては工夫して、楽しく、長い時間教えたって構わないのです。円周率を「約3」なんて教えなくてもいいわけです。逆に、もっと教えて!という子には、もっと高度なことを教えてあげてもいいでしょう。

 また、親御さんにも良いことばかり。共働きの家庭が多くなってくるでしょうから、学校も遅くまで開いていたほうが安心です。塾などに通わせる負担も無くなります。給食も出してあげれば「塾通いにコンビニの弁当」なんて寂しい状況は過去の遺物となります。帰りは遅くなりますが、この時間なら親御さんだって迎えに来てくれたり、集団下校の付き添いもしてくれるはずです。

 いかがでしょう。この案の問題点は、教育に関する予算が増加してしまうくらいでしょうか。それでも、ヘンな施設や道路を作るよりは、将来、役に立ちますよ。これだけは間違いないです。だって、馬鹿でかい公民館は、ものをつくってくれますか?外貨を稼いでくれますか?



2004年12月1週目 第50回 オトナと子供と創造性
 子供は創造性豊かで、大人は乏しいと思われる事はあるでしょう。世間一般でも、そう思われていることはありますが、創造性、独創性と「固定観念が無い」というのはまた違うことです。ここのあたりを勘違いしますと、子供の自由な発想を狭めたり、逆に付け上がらせることになったりするかもしれません。

 子供の場合、オトナに比べて社会規範や固定観念に乏しいです。これは、周りの人たちがおいおい教え込まなくてはならないことですから、乏しくて当たり前といえば当たり前ですけど。よく子供が「言ってはいけないことを口走」ったり、オトナが思いつかないようなアイデアを出したり、発想できたりするのは、創造性が豊かなだけではなく、社会的な固定観念が無いという要素もあると思います。

 通常、オトナは規範や観念のレンズを通して世の中を見、判断して、それに従って過ごしています。いちいち細かいことに驚いていては生活できませんし、ある程度、出来事をパターンとして分類した方が処理するのに適しているからなのです。童話「裸の王様」は、それを端的に表した話で、大人たちは王様の権威やら付き人の暴力やらがあるからこそ「いい服だ!」と誉めそやすわけです。

 この場合、確かに子供の叫んだ「王様は裸だ」は独創的です。が、大人はもちろん裸ということぐらいは知っています。ですが、その裸だという事実が独創的ではなく、裸だと指摘したことが独創的なのです。では、それが創造性豊かだからか、といえばやはり固定観念や基礎知識(王様に逆らうととんでもない目にあう、とか)がないからでしょう。これを意図的にずらしたり外したりして指摘し、作品化すれば独創性があると思いますし、それを職業にしているのがアーティストではないでしょうか。

 さて、ここでboominがBBSで指摘した研究者の独創性とは、まず始めに専門性を問われていることであって、そのフレームワークを意図的に外したりして新境地を開くことに認められるものです。例えば、今までの理論では証明できない出来事が起こったとします。今までの理論とは、すなわち固定観念化・常識化しているもので、もしかすると新しい事象の方が「誤差」「実験の間違い」として流されるかもしれません。そんな中から、別の理論を組み立てていって、既成概念を打ち破る。それが研究者の独創性です。

 ですから、いくら子供が創造性豊かだとは言っても、「なんであれは○○なのぉ〜」と聞かれて「それはね・・・・あ!そうかそうだったのか!」と発見の契機になった、という展開はありえますが、専門教育を受けていない人間はそもそもスタートラインにいないわけで、創造性豊かな子供から急に「核融合発電を地上で行う際の、技術的な問題はねえ、こう解決できるよ」なんて教えられる事は100%ありえず、仮にあったとしたら有名物理学者の生まれ変わりか交霊術を体得して大学者の霊から教えてもらっているかで、発言内容よりも発言したことに対して研究のメスが入ると容易に予想できるのです。

 頭が固い、というのは逆に言うと頭の中のパターン化が完成されてしまって、崩れないぐらい硬くなっている、ということです。それでも生活できますし、むしろ日常生活や業務がスムーズに進む可能性もありますから、ムリに創造性を啓蒙しなくてもいいと思います。

 というか、あんまり創造性を発揮されても困る分野もあるわけで、宇宙飛行士はそうらしいですね。毛利衛さんの「宇宙の風」(朝日文庫)によると、

「自然科学者というのは、過去の人が見つけ出したマニュアルに書かれた解決策では満足しません。そのほかにもきっと、もっといい解決策があるのではないかと考えてしまうんです。ただ、実際にシャトルで不具合があったときに、そんなことをしていては手遅れになってしまいます。独創的な発想、自分なりの解決策というのは歓迎されません。歓迎されないどころか、邪魔なこと、してはいけないことなのです」

 武道を習ったことがある人なら、最初に型や反復練習をすることがあると思います。これらも、独創性云々よりも、まず基礎力がなければ、という典型ですね。これらに、なぜ独創性が求められないかといいますと、「ルールが決まっているから」の一言です。ルールが決まっているからこそ、まずはルールで勝てなければいけません。剣道で「相手をやっつける」ということに独創性を発揮して、相手を殴りつけても勝ちにはなりません。基礎力を身につけた上で、初めてどうやって戦うかの独創性、創造性を発揮できるのです。

 では、ルールが無ければ基礎力が無くてもいいのか、創造性で勝てるのかといいますと、ルールが無ければ勝ちも何も無いわけですから、やはり勝てません。なんだ、創造性は基礎力がないと使えないのか、といいますと、そうとも言い切れません。ルールそのものを変えてしまうという手があります。ただし、中途半端な創造性では通用しません。ルールはしょっちゅう変わらないからルールとして通用しているわけです。その変更したルールに皆が従ってくれるかも重要でしょう。独創力だけで覆すなら、一般的に思われているレベルを超えたものでなければなりません。

 創造性だけで勝負するという事は、「ギターもピアノも歌もだめで楽譜も読めないですけど、新しい音楽がつくれます」といっているのと同じです。これで新しい物が作れてしまう天才も中にはいるでしょうけど、一般的にみたらおかしいですし、おそらく、かなり高い確率で、愚にもつかないものが出てくるでしょう。やはり、最低限で、創造性をつぶさない程度でよいので、基礎力はつけないと土俵に乗ることができなくなるのでは、と考えています。義務教育に対して。



2004年11月4週目 第49回 お金を使わない子供
 休日にスーパーなどのゲームコーナーの脇を通ると、ゲーム機に列が出来ていたりして驚くことがあります。カードを使って強いの弱いの、作戦がどうのといったゲームらしいのですが、時には親御さんも並んでいたりします。親子のコミュニケーションを取るには良いのかもしれませんし、ねだられる金額だってタカが知れているとはいえ、もっとのびのびした過ごし方ができないものかと思いました。

 確かに、ゲームに限らず、子供の遊びにはお金がかかることが多いのかもしれません。私たちの世代だってビックリマン・チョコやファミコンなど、もっと前ならライダーカードといった、お金が必要なものは多かったと思います。並んでいた親御さんだって、ゲーム世代でしょうし。

 それでも、外で遊んだり、自転車に乗ったりして、お金をかけないように遊ぼうと思ったらいくらでも遊べました。集める趣味でも、酒瓶のフタ集めが流行っていたりと、お金をかけないことならいくらでもあったはずです。

 先日、行ってきた「Oh!水木しげる展」では水木サンがベイビーだった頃の収集の趣味で集めた「新聞の題字」(○○新聞、とか書いてあるやつです)とか、日本中の人口の多い都市を言い合う遊びが流行ったときに作った、全国の都市と人口が記入してあるノートなどが展示されておりました。近所の海に打ち上げられた流木などもコレクションしていたそうです。

 水木サンのエッセイを読みますと、ガキ大将はいかに子供たちを遊ばせて喜ばせるか、近所のガキ大将との戦争に勝つかが主な目的のようでした。まだ日本が貧しい時代だったとはいえ、お金をかけずに、いくらでも頭と体を使って楽しんでいたようです。

 とは言っても、よく中年以上の人がいうように「野山を駆け回れ!俺が小さいときにはそうしていた云々」とは言えません。だって、その人の故郷のようなイナカに住んでいる人ばかりではありませんし、野山を走り回っているうちに、今の時代でもっと必要になっていることを学べなかったりするケースもあるでしょうから。

 それでも、極力、お金を使わない遊びをしてもらいたいと個人的には思います。新しい遊びを開発したり体を動かしたりすることは、これから「創造性」がキーになっていくなかで、かならず役に立つはずです。(ゲームも確かに良いでしょうが、突き詰めてみれば2Dですし、ゲームクリエイターの掌の上で遊んでいる孫悟空のようなものです。自由度で言えば、やはりお金を使わない方に軍配が上がってしまうでしょう)何と言っても、遊びのバリエーションが広がります。枝葉の部分で遊ぶのではなく、まったく違った遊びを一から考え出すのです。

 それはオトナでも同じことです。お金が無くても楽しい、楽しめる方法を見つけておかないと、いざお金が無くなった時に何もすることがなくなってしまいます。お金を使わなければ頭も使いますし、お金も貯まります。マーケットに乗っているものというのは、お金をもうけるためにあるのですから、たとえばパチンコなんかは典型的ですが、依存症になるほどお金をつぎ込んでしまうような遊びも大人の世界にはあるのです。そうなってくると、なんだか精神的な充足をカネでしか買えないような、なんだか寂しいことになってしまいます。

 例えば、一日まったく財布から一円も出さずに遊ぶことができるでしょうか。楽しむことが出来るでしょうか。ためしに、オトナでもお金を使わないで遊ぶ方法を探してみてはいかがでしょうか。



2004年11月3週目 第48回 われらファミコン世代
 かなり前からファミコンがリバイバルブームのようです。ネット上で非合法にデータを置いてある所は前からありましたが、GBAで過去の名作をリバイバルしたものが多数リリースされるなど一般に目の届く場所で目に付く機会が多くなっていました。いわゆる「レゲー(レトロゲーム)」ですね。そのゲームで遊んだ世代はもとより、3DのCGを使ったゲームしか知らなかった世代までも対象にして、大々的に売り出したわけです。

 私たちの世代は、物心ついてからすでにゲームがある世代、ゲームとともに育ってきた最初の世代でしょう。おそらく、遊びの時間配分の中に「テレビゲーム」という選択肢が入りだし、屋外で遊ぶ時間が減ってくる最初の世代であったはずです。それは明らかに、前後の世代とは異なっていると思うのです。

 必ずしも全員がそうだとは思いませんが、現実とゲームを受け入れるのには三パターンが考えられます。実体験をベースにゲームを受け入れる(前の世代)、実体験とゲームを等しく受け入れる(私の世代)、あるいはゲームをベースに現実を受け入れる(後の世代)です。これから生まれてくるのは、初めからネトゲーやPS2が氾濫している世代です。そう考えると、彼らのゲームやテクノロジー、ネットワークなどに対する考え方について行くのは楽ではなさそうです(こうやってジェネレーションギャップが生まれ、それを抱えながらオジサン・オバサンと人は呼ばれるようになっていくのでしょう)。

 ファミコンというのは、今のPS2と比べてみれば「ゲーム」というよりも文章、活字に近いのかもしれません。荒いドット絵は美麗なパッケージと似ても似つきません。ドット絵を見て、それを想像力で補完して独自の世界を描いていたような気がします。想像力でドラマ性も補っていたかもしれません。その点から見れば、今の映像メディアに近いゲームよりも活字に近いと思うのです。

 現在では映像のリアリティーが重視され、現実の高度な代替品に進化し、鑑賞する対象となったことで、いかに想像力を刺激するように作るよりかは、いかにキレイに作るか、いかに度肝を抜くかへゲーム作りの比重が移ってきたと感じます。

 良い作品というのは、受け取り手の想像力を刺激するものです。もちろん、ファミコン時代からクソゲーはありましたし、映像が荒いからといって想像力を刺激するというわけではありません。しかし、受け手が想像力を働かせたり増幅させたりできる余地や表現は、かならず必要だと思うのです。活字で言う「行間」です。これは、表現方法が制限されていたファミコン時代の方が、もしかすると上であったかもしれません。

とは言うものの、だからドット絵に戻ったほうが良いかといえば、そうでもないわけです。現代でも、たまにモノクロの映画がありますが多くはありません。お客も白黒の映像を望んでいるわけではありません。あくまでも作り手が「モノクロにしたほうが、より表現に合致する」と判断したからです。

 であれば、カラー作品だって「カラーにしたほうが表現に合致する(もしくはカラーしか選択肢が無い、カラーでもモノクロでも、どちらでもいいがカラーの方が安い)」と考えたからからこそカラーなのではないでしょうか。それならばCGを使うゲームであれば「CGの方が、より表現に合致する」という考えかたが根底になくてはならないと思うのです。

 ゲームというものは、おそらく芸術の中で唯一、受け手の能動性によって成立するメディアです。文章、絵や彫刻、演劇や映画も受け手が居ないことには成立しませんが、能動性までは要求しません。サーカスや手品などではお客さんを舞台に上げたりするでしょうが、全員が舞台に上がって手品の助手にならないと成立しない、というシチュエーションはないでしょうし。

 ファミコン世代は、その能動性に、単純に感動していたと思います。ですが、それはゲームの一般化と、後進世代の増加によって人口に膾炙しました。現在のゲームで面白くないといわれてしまうのは、能動性がまだ新規なものだと考えてしまう無意識の思考パターンが、想像性を刺激するという芸術本来の醍醐味を二の次にしてしまっているからかもしれないと思うのです。



2004年11月2週目 第47回 点と点
 感覚的に言えば東京から群馬のスキー場に行くよりもソウルや香港、アメリカや欧州の方が近いのかもしれません。空間的に言えば、もちろん群馬県のほうが近いです。移動時間だって、飛行機で十時間以上かかるよりか、車や電車で数時間かかるだけの群馬のほうが遥に近いし、日本語が通じます。それなのに外国のほうが近いなんて、やはり紺洲堂はスノッブだと思われるかもしれませんが、さにあらず。

 東京ディズニーランドに「スターツアーズ」というアトラクションがありますが、ご存知でしょうか。箱型の宇宙旅客船に乗っていたら、スターウォーズの世界の中に入ってしまい、ルークたちと縦横無尽の大冒険をする(客を載せたまま戦闘するな!)、という内容です。乗っていますと、カーブや急降下の際にG(重力)がかかります。別に、箱がジェットコースーターのようにレールの上を動いているのではないにもかかわらず、です。

 もちろん、箱が中の映像とリンクしていて、箱はその場で上下左右に動くことで、あたかも飛び回っているようなGを観客に与えているわけですが、国際線の飛行機も、それに近いと思うのです。

 例えば、移動中に「移動中だ」と実感できるのはどちらか、といえばやはり群馬でしょう。ニューヨークの場合であれば「自宅→成田→NY」の点から点の擬似ワープです。飛行機の中で映画や読書、食事をして一眠りすれば目的地に着くという感じなのですから、飛行機に乗っている間はスターツアーズに乗っているのと身体的にはあまり大差がないような気がします。窓を閉めた閉鎖空間で景色も見えませんし、よほどのことがない限り、巡航中は速度も一定、Gもかかりません。

 ところが、車やバイクだとどうでしょうか。○号線から○○街道を通って・・・・といった線的な移動を意識せざるを得ませんし、カーブや減速の際にはGを感じます。同乗者はともかく、運転者は「眠っているうちについた」ということはありません。着いたとしたら、それは天国です。お花畑です。旅の目的地ではありません。

 そして窓からは絶えず風景が見えます。電車なら駅に止まります。確かにこの場所を移動している、という「地に足の着いた感じ」(当たり前ですけど)があるわけです。確実に距離を意識しながら移動する時間の長さで比べてみれば、飛行機で行く海外のほうが、車や列車で移動するよりも近いような感覚になることもありうると思うのです。

 いま飛行機のことを「ワープ」と言いましたが、パイロットにとってはワープではないでしょう(パイロットや航空会社の人たちが快適なフライトを提供してくれるからこそ、乗客は、こんな感じで移動できるわけですけど)。絶えず、機体に対して注意を向けなければなりませんし、各地の管制官とやりとりをしなければならないからです。乗客が距離を感じられるのは、もっと揺れたりアクシデントがあったりして「なんて太平洋は大きいんだ!」と意識する状況だけでしょう。

 ジェット時代になってから人の移動に関する意識が変わった、とどこかで聞いたことがあります。同じ距離を旅してもマルコ・ポーロと夏目漱石と私たちとでは感じる距離、地球の大きさは大きく変わります。地球は一つ、僕らは宇宙船地球号の乗組員、と思うのなら良いとは思うのですが、どうも点と点以外の場所について意識すること、関心を示すことが少ないような気がします。

 地図を描くとしたら、マルコ・ポーロは自分の通った土地をきっと正確に書くことができるでしょうが、ジェット・トラベラーは「成田の搭乗口→ロンドンの搭乗口」しか書けません。それは、地球を「ええとこどり」してしか見ていないことになるのかもしれません。

 とは言っても、楽しみのために旅行するのに、ええとこどりして悪いかといえば、悪くない、当然のことです。ですけど、せっかく旅に出るのですから、どこかしらで「ワープ!」ではない、地球上を移動している、という意識を、今飛んでいる下には何があるんだろう、という想像力があったほうがいいと思うのです。

 まあ、同じ飛行機でも、戦前なら風を感じられたであろうし、航続距離が短かった時代は「ああ、アンカレッジに止まっているんだな」と思えたでしょう。テクノロジーが今のまま進歩していったらきっと、将来は「群馬よりも宇宙ステーションのほうが近いような気がする」と言われてしまうのでしょうねぇ。どうですか?群馬の方・・・。

注:群馬県はへんぴだと言っているのではありません。たまたまboominとスノボーに行ったのが群馬のスキー場だったからです。決して群馬県を貶める意図は御座いません。群馬県はいいところです。



2004年11月1週目 第46回 MANGAを買ってみる
 アニメ、マンガは、ゲームはサブカルチャーの王道にして、輝かしい未来日本の輸出産業となりつつあることは、みなさんご存知のとおりです。海外を旅行すると、それを実感して、ついつい日本のマンガの現地語訳を買ってしまいます。韓国語やドイツ語など読めもしないのに買うのですが、まあそのあたりは一種の「コレクション」ということで。

 初めて買ったのは、フランス語版「新世紀エヴァンゲリオン」です。半分はフランス語の勉強のために買ったのですが、あとは「あぁ、シンジがフランス語を喋っている」という妙なシチュエーション(翻訳だから当たり前なのですが)が面白くて買いました。以前にも、「おみやげ企画」でベトナム語版のドラえもんと名探偵コナンを買ってきたことがありましたが、当選者の皆さんにとってはありがた迷惑だったようです。読めないのだから仕方がないといえば仕方がないのですが。

 いままで行ったことのある国で翻訳点数が多かったと思うのは、フランスと韓国です。ソウルにあるロッテ百貨店地下にある書店に行くと、日本かと思うぐらい翻訳されている点数が多かったです。私の好きな「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」まで訳されているとは思いませんでした。あの80年代日本の子供の知識(ロボピッチャーやキンケシなど)とは無縁と思われる韓国でも、やはり面白いものは受けるのですね。ニュータイプ韓国語版なども置いてありましたし、パッと見ると日本の本屋と変わらないかもしれません。何年か経てば韓国映画を見た日本人と、日本マンガを読んだ韓国人が増えてきて、「え?日本人なのにワンピースを読んだことないの!」「韓国人なのに冬ソナを見たことがないの?」とお互いに呆れてしまう状況が生まれているかもしれません。

 フランスも、よく言われているように日本のアニメやマンガが人気であるようです。

FNACという書店とレコード屋を一緒にしたような大きなチェーン店があります。HMVと紀伊国屋書店を一緒にしたような店で、マンガコーナーだけは黒山(?)の人だかりでした。平積みでビニールをかけていないので、みんな何冊も確保した上で座り読みです。ほぼ、無料マンガ図書館と化しているしまつでした。しかも、一冊が高いのです。8ユーロぐらいしますので、1000円強ですよ。日本版と比べて、ほぼ2倍。しかも、あんまりキレイな格好をしていない若者が、無料図書館と化した本棚から何冊も買っていくのです。そこで座り読みすれば無料なのに、わざわざ少ない小遣いをはたいて買っているのでしょう。

 ニューヨークの本屋でもマンガを買いました。その時は、店員さんに「ジャパニーズカートゥーンを探しているのだ」と言うと「マンガのこと?」と聞きかえされたので、一般名詞になっているのでしょう。ここでもほぼ10ドルしましたので、欧米でのマンガは1000円ぐらいが相場のようです。さすがに英語訳だと全部読めますね。買ったのはCLAMPの「ちょびっツ」ですけど、あまり難しい単語は使っていません。あまり良い言葉遣いではない部分以外を抜粋すれば、中学生の英語教材にも使えそうです。

 いまアニメ化されている「MONSTER」をドイツで買ったときは、舞台がドイツなので逆に日本語版よりも原作のような錯覚がしました。その時に、書店に張ってあったドイツのマンガランキングがこれです。2004年5月です。

5位 Yami no Matsuei 8 (闇の末裔 8巻)
4位 Love Hina 11 (ラブひな 11巻)
3位 Inu Yasha 12 (犬夜叉 12巻)
2位 Ayashi no Ceres 9 (妖しのセレス 9巻)

そして1位は・・・・
Manga Love Story 6 (ふたりエッチ 6)でした。ドイツでも人気があるのですねぇ。

証拠写真



2004年10月5週目 第45回 すべてのエンカウンターは仕組まれていくのか
 ITには個人情報の流出がつきもののような感じです。大手企業から漏れることも珍しいことではなくなり、いまや自分についての情報を誰が持っているかもわかりません。私の祖母のところに、どこで調べたか怪しい金融商品のカタログが送られてきます。多少、知識のある私が見ればすぐに儲からないと見抜ける(それ以前に十分怪しい)のですが、お年寄りにその判断は難しい場合もあるでしょう。

 こうした不法な手段でなくとも普通の企業も個人情報を集めることに躍起になっております。たとえば会員登録、オリジナルクレジットカードの発行、プレゼントなどですね。集めた情報を基にして、特定の集団や個人に対して「適切な」マーケティング活動を行うことができるわけです。ITの活用とは、すなわち情報による効率化なのですから、見込みのある客にアプローチして、いかに囲い込んでコンシェルジュのように役に立つようにするか、という部分にあるのでしょう。

 情報を記入しなくても、Eコマースでは過去の注文履歴が重要な情報です。覗こうと思えば「ほほう。このA区に住んでいるBという女は福山雅治ファンだな」ということまでバレてしまうわけです。余計なお世話だと思いますが「今度、新しい福山のDVDがリリースされます!」というメールが送られてきたりする。「アナタが買った商品を買った人はこんなモノも買っています」といった情報まで送られてくるわけです。物との出会いが、すべて効率よく「仕組まれて」きたような感じもします。

 そもそも、いま自分が好きだと思う映画やアーティスト、アニメやマンガなどにはどうやって出会ったのでしょうか。街を歩いていて、予告編を見て、たまたま雑誌を開いて、友達に誘われて、などいろいろな手段があると思います。広告は「仕組まれて」いるわけですし、店頭で見て(聴いて)なども広告の一種ととらえるとエンカウンターはほぼ仕組まれていると言えるでしょう。

 しかし、すべてがそうでしょうか。たまたま探していた棚の近くに、面白いジャケットのCDがあった、たまたま友達がキャンセルしたチケットで行ってみたので、学校の授業で読んだら面白くて、といろいろあったはずです。ITやマーケティングなんぞには介在できない、個人が自由に選択した結果や運命的な出会いをして、といったドラマがあると思うのです。つきつめて考えてみますと、いま自分が好きだと思っていることに出会った事は、少しは誰かに仕組まれていたと言えるかもしれません。だとしても、数多く仕組まれている出会いの中から、好きなものとして取捨選択してきたのは自分ですし、それを言い出したら「人生は運命によって決まっているか否か」というところまで突っ込む必要が出てきます。

 ただ、すべてのエンカウンターがマーケティングされて、「自分」という存在が出会うものすべてが、効率よく私が消費する為だけに仕組まれていると考えるのは、とても嫌なことだと思います。
 確かに心地よくて、サプライズも「適度に」存在する世界なのかもしれませんが、自分の活動すべてがITによってデータベース化されて数字がつけられ、行く道に置かれているものすべてが仕組まれているというのは、自分が消費する為のプログラムされたロボットで、こうやってインプットすると一万円を出す存在だと思われているようで、はなはだ不愉快なのです。これから、似たような状況になっていくのでしょうけど・・・。



2004年10月4週目 第44回 銀幕デビユウした!(撮影編)
※前回からの続きとなっております。この回をお読みになる前に前回を読まれますと、より楽しめます。

 席に座った後も、助手の指示で何度か席替えです。渡された小道具のパナマ帽を持って右往左往した後、一人のノッポ外国人が入ってきました。一目見たら「この顔にピンと」来るぐらい、本物に似た雰囲気。いよいよ主役のゾルゲの登場です。座ったのは何と私の真後ろ!これは、スクリーンに顔が判別できるくらい映るかもしれませんよ!

「どこに目線を合わせたらいいのかな」
とゾルゲが英語で周りの人に尋ねています。(あれ、ゾルゲって英語を喋るんだっけ?話すんならドイツ語かロシア語だけど、この俳優さんってどこの人だろう、と思いました。イギリス人なので英語を話して当然なんですけど)スクリーンの上にある校章をみてください、と助手が言って通訳さんが伝えます。

 もうすこし私が横に動けばOKということで、隣の席を移ってから、いよいよ撮影開始。かと思ったら「ゾルゲが持っているパナマ帽がいまいち。誰か、いいのを持っていないか?」ということで、泣く泣く私のと交換することになりました(気に入っていたのに・・・)。さて、今度こそ本当に撮影開始です。

「アクション!」
 シーンは、ゾルゲが映画館に入って映画を見るという内容。ゾルゲが何食わぬ顔で仲間の隣に座ると、手にしたパナマ帽の下から、こっそりと秘密情報を渡します。受け取った仲間は、すぐに劇場を後にします。その後ろを日本の私服警官が・・・・・その、こっそり渡すのが、ちょうど私の背後なのです。もしアップになった日には、映画館でいまだかつてないほど拡大された自分をみることになるわい、と内心はドキドキしながら、駅馬車を見るふりに力が入ります。

 シーンが撮影し終わったら、また別の映画館のシーンとのこと。再び席替えの結果、一番後ろのほうの席に移動です。

「今度はニュース映画で、ナチスドイツがパリに無血入城した、という設定です。この時、ドイツは日本の同盟国ですから、うれしそうな感じにしてください」

 隣に座った女の子に話しかけるふりをして、終了です。(あと、もう一回同じようにニュースを見ているふうでやりましたが、内容は忘れてしまいました)終わり際に、みんなで記念撮影をして、去り際の監督に握手をしてもらって終わりました。
 帰り際に映画のロゴ入り特製フリース(ユニクロ製)とお弁当を貰います。腹が減っていたのですが、外に出ると雨が降っており、大学も閉まっていたので弁当を食べる場所は全くありません。仕方がないので家に持って帰りました・・・・。

 時は流れて忘れて頃に「スパイゾルゲ」が公開されました。いよいよ銀幕デビユウですよ。緊張しながら、自分の出番を今か今かと待ちます(もちろん、スパイ活動にも緊張します)何と言っても、スパイが情報を渡すシーンですからね。日本の刑事につけられて、ばれてしまうわけですからね。どれぐらい大きく映るのでしょうか。

 見ていくと・・・・。あ、映画館のシーンだ!でも、あの時は、顔なんて分からないぐらい後ろにいたしなあ。まあ、次を待ちますか。あ、ゾルゲが逮捕される!あ、逮捕された・・・・・。
イマジン・・・・・エンディング・・・・・。あらら・・・。全部カットされてしまいました。

 しかし、映画というのはお金が掛かるものですねえ。あのワンシーンを撮る為に、確実に100万円以上はかかっているはずですし。私の銀幕デビユウの夢は、こうして潰えたのでした。(DVDで復活しているかどうかは確認していませんけど、まずありえないでしょうし・・・)



2004年10月3週目 第43回 銀幕デビユウした!
 前回は、はじめて映画について書きましたが、実は、私は映画に出たことがあるのです。イアン・グレンというイギリスの俳優と共演しました。といってもエキストラをしただけですけど。当時、CONSのBBSでも「出たよ」と言っていましたが、篠田監督の「スパイゾルゲ」という映画です。

 たまたま大学の掲示板をチェックしていると、「映画ボランティアのエキストラを公募」していました。これは面白そうだと、事務所に行ってリストに名前を書きました。何週間か経って、撮影日になりました、現場は普段から馴染みのある大学の構内だったのですが、行ってみると、何台ものトラックが横付けされていて、ただならぬ雰囲気です。休日なので、学生はいません。

 同じように応募してきたボランティアの学生と一箇所に集められると助手の人(正式な名称は忘れてしまいました)が来て「映画というのは、待つのが仕事のようなもので、いま準備をしていますのでお待ちください。それまでに、そこのメイクさんにメイクをしてもらうことになります」とのこと。

 同じくらいの年の学生は、なぜかチョビヒゲをつけられて、小道具のロイドメガネを渡されて昭和のオッチャン風になりました。もう一人は学生服。私は、どんなコスプレができるか楽しみだったのですが、「じゃあ、あなたはそのままで」と持参したスーツで出演することになりガッカリ。それでも、頭にポマードを塗られて、こちらも昭和の雰囲気です。私としてはヒゲが欲しかったのでポマードを塗られている間、いつヒゲが装着されるか楽しみにしていましたが、最後までその機会はありませんでした。

 エキストラの中に見慣れない年恰好の一団がいました。どう見ても学生にしては年を取りすぎているし、近所の人が来たのかと思って尋ねてみると、プロのエキストラさんでした。「この前は、山奥でトリックの劇場版に出てね。阿部寛と出たんだよ」とのこと。こういった場には馴れているのです。

 いまだかつてないほどに髪を固められてから、3時間。横になって、みんながだれてきて無口になった頃、ようやく撮影に呼ばれます。舞台は、いつもの講堂だったのですが、スモークがたかれ、遠くには大きなカメラがすえつけられ、篠田監督が見えます。傍らにはビデオカメラを持った岩下志麻さん。そこで、また助手の人が登場します。

 「ここは、映画館です。当時、封切られたばかりのジョン・ウェイン主演の駅馬車を公開しています。で、インディアンが駅馬車を襲う、手に汗握るシーンです。皆さん、前のスクリーンに、その緊迫したシーンが映されているという感じでお願いします」

 真っ白なスクリーンには、時々、光がちらついて、いかにも映画を見ているように私たちに光を浴びせます。その助手の指示に従って席に座ります。で、いよいよ私の銀幕デビユウの時間が刻々と近づいてくるのでした。



2004年10月2週目 第42回 お父さんのバックドロップ
 朝、起きると今日も雨が降っていた。
 出かけようと思ったときに雨が降っているのはいつものことだ。だが、今日は大型台風が午後から上陸するらしい。外出先で大雨になって帰れなくなるのはつまらないから、大抵、家でじっとしているに限る。読みたい本だって、棚ひとつぶんは溜まっているのだ。

 それでも、今日はいつもの土曜日とは違った。「お父さんのバックドロップ」の公開初日である。

渋谷で能を見た後に映画館の前を通ると、聞きなれたタイトルのポスターが張ってあった。黄色と緑のポップなポスターに「Backdrop del mio Papa」。そう、今年亡くなられた中島らもさんの作品が映画化されたのだった。さっそく映画館に駆け上がり、前売り券を買って(特典のタオルも欲しかった)、楽しみに待っていたのである。雨が降っているぐらいでは、見逃すことは出来ない。

 満員で見られなかったらどうしようか、と心配しながら渋谷に着いたのが開演一時間前。そんなに心配するなら早くくればいいのだが、これ以上早く起きるのは無理なのだ。駅から映画館まで走って、いそいで受付に前売り券を渡すと、まだ余裕があるとの事。もちろん、初回の舞台挨拶付きのを見ることにした。(初回は50人ぐらいしか見なかったらしい。急がなくても席はあったのだ)

http://www.cqn.co.jp/backdrop/backdrop.html

 いやあ、いい映画だった。時代設定を80年代にしたのも良かった。でないと、異種格闘技戦が普通になってしまった現代にしてしまうと、プロレスと空手で勝負するっていうことがファンタジーとして成立しなかったと思う。主演の宇梶さんの大阪弁は、さすがに関西人の生瀬さんたちの中で聞くと、どうかと思った。が、演技はお父さんのダサくてカッコイイ部分がよく出ていた。おじいさん役の南方さんもエエ味だしていますよ。子役の隆之介君の、ただお父さんがプロレスラーだから嫌い、という単純なものではなくて、もっと愛憎半ばした演技が、また良い。原作者のらもさんも登場していて「ほんとにこのオッチャン、大丈夫か?」というとぼけた演技を披露している。

 どのキャラクターにもリアリティがあるし、脚色も原作をなぞっただけではなく、関西テイストで肉をつけていった感じで、原作には出てこないエピソードで、お父さんたちや子供たちの世界もきっちりと描いている。原作自体が、こういった関西テイストと親和性が高かったのかもしれない。ただ、せっかくのビデオのエピソードが、後半に生きてくればと残念だった。

 そして舞台挨拶。監督、宇梶さん、隆之介君が登場した。撮影のときの裏話など、こういった挨拶にお決まりの話でも、劇場が小さいので親しみが沸いてくる。監督(イタリア映画好きらしいが、ヒゲの外見もラテン系っぽい)が編集しているときに、親子がラストで全く会話を交わしていないことに気がついたという話をした。それを聞いたとき、あれっと思ってしまった。確かに、思い出してみると何も言っていなかった。会話がなくても会話があったのと同じくらい伝わってくることがあったのだ。

 上演前にプログラムを読みたかったが、映画を見る前からプログラムを買うのは、邪道だと思う。やはり映画を見て、納得してからでなければと思って買わなかったのだが、終わってからもちろん買ってしまった。

 前日に主演の宇梶さんが「虎乃門」に出ていた時「せっかく台風の中、来てくれたお客さんだから、舞台から降りて抱きついちゃいますよ」ということを言っていたのだが・・・。そういったシーンは見られなかった。まあ、次の回にも舞台挨拶があったのでそちらに行ったのかな、と一階に行くと大きな男性が立っている。宇梶さんだ。来てくれた人を出口で一人、見送っていたのだった。感想を言って、握手して、プログラムにサインまで貰ってしまった。私も大きい方だが、彼はもっと大きく、手は思ったより大きく感じた。

 宇梶さんは最後に、「宣伝してくださいね」と言っていた。ということで、宣伝しておきました。個人的には、原作本を読む前に映画を見ることをオススメします。映画から入ったほうが、もっと新鮮に楽しめると思うので。



2004年10月1週目 第41回 旅先にて本を読む
 旅先で本を読むというのも、旅の楽しみの一つだと思います。「別に、本だったらどこでも読めるじゃないか。なんで景色を見ずに本なんか読むんだ」と仰る方もいるとは思いますが、まあそれなりに楽しみはあるのです。

 旅に出ると、待つ時間が多いわけです。飛行機や列車の中。いろいろなイベントや、交通機関を待つ時間。眠る前。そういったとき、新聞や雑誌、もしくは映画を見るか。たまに景色を見るにしても、飽きてきます。飛行機などでは、ずっと喋り続けるわけにもいきません。そのまま眠ってしまう、もしくはガイドブックなどを読むのも良いでしょうが、旅に出だからこそ、本から感じとれることもあると思うのです。

 なので、持って行くのは邪魔にならない新書や文庫本で、その土地にちなんだものにします。「○○の舞台として有名云々」といったガイドブックの通り一遍の講釈よりも心に残ります。移動している間に読むと、光景が実際に迫ってくるわけで、窓からの風景も期待感を盛り上げてくれます。そして、着いたらあそこに行こうと想像を巡らすことも出来るのです。岩手に行ったときは宮沢賢治と遠野物語。メトロポリタン美術館なら「にせもの美術史―メトロポリタン美術館長と贋作者たちの頭脳戦」や「ギャラリーフェイク」などを選びました。

 その街をテーマにした本が多いのなら、テーマを決めるのも面白いかもしれません。京都に行くなら、今回は幕末物で、それにちなんだ場所に行く、とか。事前に読んでも面白いのですが、その本が書かれた場所で、街で、著者や登場人物たちが歩いた道を歩き、ベンチに座って人々を眺めるながら読むと、本の世界に入ってしまった気分が味わえます。

 映画が好きでしたら、映画を出発前に見直してみるのも面白いかもしれません。いくら好きな映画でも、もう一度見てみると、自分のイメージと随分違うこともありますし、自分があったと思い込んでいたシーンが無かったりします。「あれっ。これってディレクターズカット版?」いえいえ、思い込みで勝手にシーンを追加していただけですよ。

 ロケ現場を見ると、がっかりすることもあるかもしれませんが、登場人物の真似をして記念写真を。その次に映画を見たときに「あ、あそこの角に映っていないんだけど○○があるんだよね」とも浸れるわけです。

 本や映画に描かれたおかげで観光名所として整備されているケースも多くありますが、感動できるか失望するか。大抵はあまりのコマーシャリズムに辟易しますけど、たまに「どうってことないよ」といった感じで地元の人が歩いていたり、誰もいなかったりすると嬉しくなるのです。



2004年9月4週目 第40回 旅先にて、また話しかけられる
 「どこか旅に出たい」とこの頃は、真剣に思っています。今年の夏は結局どこにも行かず、それはそれで面白いこともあったのですが、やはり「違う空気」を吸ってみたくなります。喩えではなく、街によって匂いも空気も全く違います。美術館の引越し展覧会や旅番組、書籍では決して味わえない、インターネットにも載せられない感覚です。違ったものを食べ、違ったものを体験する。道を走ってみる。どこかで、そういった非日常を持っておきたいのですが、なかなかそうはいかない。ですので、せめて通信だけ旅の話です。

 また今年の話ですが、欧州内を移動している飛行機の中で話しかけられたこともありました。空港に到着した後、飛行機の出口が開くまで待たされますが、乗客は立って、前方へ向かいだす、あの時です。あまり早く行っても荷物が出てきませんから、ゆっくり座席で本を読んでいると、

「それって、日本語?」と英語で聞かれました。
 振り返ると、アラブ系の小太りのおじさんでした。
「ええ。そうですけど」
「どうやって読むんだい?こう?」
「いえ、そうじゃなくて、右上から下に。で、左の行に移るんですよ」
「へぇ。アラビア語は右から左に読むんだけどね」
「アラビア語のネイティブなのですか?」
「そうだよ」
「どちらの国から来たのですか?」
「わしらかい?エジプトだよ」
「おぉ。エジプトですか。偉大な文明の国じゃないですか」
「いや、そうでもない」
 と言うと、おじさんの表情が止まりました。

「ブッシュが攻撃を始めてから、中東には文明なんてなくなったさ」
「うーん。そうですねぇ・・・」
 私にはフォローすることができませんでした。というのは、もちろんおじさんの笑顔が急に真顔になってしまったこともありましたが、正直に言って、おじさんに声をかけられたときアラブ系と飛行機という取り合わせにギョッとしてしまった自分を発見してしまった部分も確実にあったからです。話を変えました。

「エジプトなら、日本にヨシムラサクジという有名な考古学者がいるのですけど、知りませんか?」
「うーん、しらないなぁ」
「ピラミッドの近くとか発掘しているはずなのですけど」
「うーん、知らない」
 どうやら吉村教授はエジプト人ビジネスマンには知られていなかったらしいです。



2004年9月3週目 第39回 旅先にて話しかけられる
 旅行先で、同行の人以外に話しかけられることは、あまりありません。私から話しかけることも、あまりありません。あったとしても、ホテルとか、レストランとか職業的に話す必要のある場合、列車などで乗り合わせてしまい、コンパートメントに向かい合って無言では気まずいので喋らざるをえない場合。あるいは、観光スポットで観光客とおぼしき人に道を聞いたり、情報を交換したりする場合。そんなところです。それ以外にも、話しかけられる場合はあります。

 五ヶ月ほど前、友人の韓国人を訪ねに、高校時代からの友達と韓国へ行った時のことです。外国に行くと日本食が恋しくなって、ついつい食べてしまう人もいますが、幸い私は日本食なしでも過ごせるので、ひたすら韓国料理を食べつくしてきました。ご想像のとおり、韓国では周りの人みんながキムチを食べているので、遠慮なく匂いのきついキムチを大量に食べられました。付け合せにキムチが出てくるのですが、サービスと言うことで多めに盛られていて、余るともったいない(大量の付けあわせが捨てられるところを目撃)ので、意地になって食べていた側面もありますが、やはり美味しいですね。帰りにキムチを3キロほど買ってきてしまいました。辛いものは苦手だったのですが、ずいぶん食べられるようになりました。

 閑話休題。何日目かに道を歩いていると、史跡の中でイベントをやっています。民俗音楽が聞こえて、普通に近所の人が入っていくので、ついていきました。何人か小さな女の子が伝統衣装をつけて壇上に上がっています。詳しいことは分からなかったのですが、どうやら宮廷儀式の再現イベントのようです。隣の友人と日本語で喋っていると
「あんた、日本人?どこから来たの?」
 と、おじいさんに日本語で聞かれました。住んでいる場所を伝えると、おじいさんが戦争直後まで住んでいた近所だった、とのこと。沿線の駅をすべて暗記していると披露してもらいました。「あそこに陸軍病院があってね、そこに国民学校の慰問で劇をしにいったんだよ」 韓国にいることを忘れて、なんだか地元の話に花を咲かせてしまいました。

「そういえばね、このごろ日本の若い人とこうやって話すことがあるんだけど、ちょっと近頃の若い人の日本語がおかしいと思うんだよ、文法的に。すごいおいしいって、言うでしょう?」
「はい」
「おかしいと思わない?」
「・・・・。『すごく美味しい』が正しい使い方ですよね」
「そうなんだよ。すごいの後には、名詞とか(以下、文法の話なので略)」
 なんだか、お年寄りの話をただ聞いたような感じだったのですけど。



2004年9月2週目 第38回 迅速に反応する事
 迅速な反応は、一般的には良いことといえるでしょう。客からの苦情電話に対応する、出前を迅速に届ける、と世の中はスピードを求めており、それらにより適応していくことが「一番良いこと」で、待たせてはならないのです。待っている人々はスピードに期待しています。ディズニーランドで待つのが好きな人はいないでしょうし、市役所で盥(たらい)回しにされるのが快感な人もいないはずです(待つこと自体を目的にしている人は別でしょうけど)。ほとんどの場合、素早く反応してくれることが良いサービスであり、それができる人が「デキる人」なのであります。

 情報過多の時代には、人々はニュースを聞いた次の瞬間には対応策が無ければ満足しないほどスピードに対して期待しています。何か事件が起きれば、瞬時にマスコミや世論が反応してしまうわけです。原因があり、様々な過程を踏んで起こったものに対して、迅速かつ正しいものを求めてしまうのです。

 素早い対応を求める事は、正しいことでしょうし、良いことでしょう。地震が起きても腰の重い政府が良いわけはありません。ですが、のちのちになって当時の新聞や雑誌を読んだり、世論の流れを振り返ったりしてみると、かなりピントはずれなことを言っていることもあるのです。現在、いろいろ言われていることも、後で振り返ってみると、噴飯ものであることがあります。それらを十分な検討なしに判断の材料としてしまうことに、脊髄反射的判断の限界があるのです。

 あの911から3年が経ちました。その間、世論の沸騰と迅速な参戦が、映画やゲームのように観客を飽かせなよう激流に放り込んだ結果、この世界は確実に住みにくくなってしまったと思います。時には立ち止まって考えるべきだ、とありきたりな結論を言うつもりはないのです。考えても、必ずしも正しい結論に達するとは限りませんし、何が正しいのかもわかりません。それでも、速度に関わらず、冷静に未来について考えて判断することが、短期的な物事ばかりを一時のブームの中で追い続ける風潮に欠けていると思われるのです。

 聞いた話ですが、情報の少なかった旧ソ連の内部事情を探るには、少ない情報を穴があくぐらい検討して考え抜いていたのだが、冷戦後は情報が氾濫して、やりにくくなった、ということです。情報が少なければ、より冷静に熟考することができたのでしょうが・・・。



2004年9月1週目 第37回 携帯できる電話?
 いつごろからか、「携帯」という言葉は、「携帯電話」を指すことになりました。「携帯ラジオ」「携帯食料」「携帯型灰皿」などは駆逐され、ケータイと漢字で書けば、即、電話です。いや、もはや「ケータイ」と「携帯電話」は同義語ではないのかもしれません。いまや話すことよりもメールのやり取りが主になってきているようですので、早晩、携帯電話という言葉も的外れになってくるのでしょう。ただ、電話も出来る機能がついている、というだけの物になるのかもしれません。

 やや旧聞に属するのですが、boominは一年ぐらい前まで携帯電話を持っていませんでした。「電磁波が体に悪い」「お金が無い」「そもそも、みんなが持っているからいいじゃん」と駄々をこねていたわけですが、何の間違いか彼もケータイを持つようになったのです。

 boominが手に入れたとのいうことは、よほど市場が飽和してきたとみて間違いないでしょう。なぜ持つようになったのか、その心境の変化には立ち入りませんが、周囲の人間にとって良かったことは、彼が遅刻する時に、かならず連絡を取れるようになったことです。ケータイが無ければ、現在位置も、どのような状況にいるのかもわかりません。このままどこかで時間をつぶせばいいのか、あるいは少し待ったほうがいいのか。予定変更も、すぐに出来ます。

 こういったとき、ケータイが無かった時代は、時間を守る意識が高かったような気がします。いまなら、どれくらい遅れるかも連絡できますし、待ち合わせ場所を変えることも容易です。また、すぐに予定を入れたり変更したりすることも楽になりました。それだけではなく、様々な情報を取り入れ、発信することも可能です。ケータイの利便性は、家にあった電話を外に持ち出せるようになったことではなく、時間を有効に利用できるようにしたことにあります。ケータイが無いのは、時間を損しているのと同義なのでしょう。

 しかも、いまやカメラはもとより非接触型プリペイドカードまでつくわけで、これにより、時間の節約度はますます高まります。たとえ電磁波で寿命が縮まろうとも、有効に利用したいままでの時間と持たなかった場合のそれを比べたときに、もしかするとおつりがくるかもしれません。

 もはや携帯電話とは、携帯できる電話のことではなく、「携帯すべき電話」となっているわけですが、実は、私は携帯電話を持っていません。

 PHSです。一時期は、携帯番号を聞かれると、相手が090と打っているのに私が「番号は、070の・・・」と言い、相手が「あ・・・」とため息をつきながら文字を消す、という悲しさがありました。いまは080が増えてきたので、そういったケースも無くなり、嬉しい限りです。さて、どこまでPHSを使い続けられるのでしょうか・・・。



2004年8月5週目 第36回 自己嫌悪。
 先日、大学のOB会に出てきました。大抵のOB会は卒業してからでなければ入会 はできないのですが、ウチは少し違って現役の学生からでも入ることができるのです。毎年、新入生歓迎会を催すので、90歳を超えた先輩から18歳の新入生が揃う、ちょっと不思議な会で、私は入学してからずっと顔を出しています。もっとも、若者はほとんど出てこないので平均年齢は、かなり高いのですが。おかげで、若い世代の中では顔を覚えてもらっているほうだと思います。

 今年のOB会で楽しみにしていたことの一つは、前回、自分が投票して当選した議員が来るということでした。実は、選挙公報やウェブページは見ていたのですが、実際に見るのは初めてですし、議員がOB会に来ることも初めてなのです。

 会が始まってからも、議員は忙しくあいさつ回りをしているので、話しかけるタイミングを掴めません。そうこうするうち、はじめて来た人の挨拶の時間になり、議員が壇上に立ちました。

「(略)・・・実は、入学してから学費を払っていなかったのですが、学長から払うように言われて、先日払い終えてきました。もう、未納議員ではありません・・・(略)」

 一次会が終わってから二次会になり、議員が居なくなると、出るわ出るわOBの皆さんから非難の連続。なんでも、初めて来たにもかかわらず、先輩方には選挙の「営業活動」しかしていなかったらしいのです。それで、そそくさと行ってしまった、と。要は「なっていない」上に、「勉強するために入った大学に、忙しいから行けず、そのうえ学費を払っていなかったって、ふざけるのもいい加減にしろ」ということでした。

 こんな様子だったのに、なぜギイン本人に忠告しないのかと言いますと、単純に私も失望したからです。ユーモアと不真面目は違いますから。誠実そうな顔をしている不真面目な人間には議員はやって欲しくありません。その上、センス―――受け取り手を予想する、自分の発言に責任を持つ―――もないのにギインをしているヒトに対して、助言する気も起きませんでした。個人的に話す機会もなかったですし。帰り道、本当に自分の投じた一票を恥ずかしく思いました。

 帰って公式ページを見ますと、選挙期間や国会の期間のみ更新されています。こういった商売は、どれだけ有権者とコミュニケーションをとって、支持を継続してもらうかが焦点なはずで、その(誠実を装った)現金な態度に改めて失望し、自己嫌悪に陥りました。



2004年8月4週目 第35回 細分化していく世界
 今の世の中は、団体や組織よりも、もっと小規模な集団もしくは個人が主役になる ことが多いのではないでしょうか。例えば、軍隊でも、昔は何万という軍団・師団などが主役でしたが、いまや特殊部隊といった数名のスペシャリストからなる部隊の活動が重要視されているようです。マーケティングの分野でも、マス(みんな)からセグメント(特定の集団)、そしてワントゥーワン(特定の個人)マーケティングと注目されている対象が小さくなっていく傾向があるようです。

 こうした細分化は、物理の世界で「○○より小さいものはなにか?」と探求していって、分子から、原子、陽子と中性子、クオークなどと、どんどんこれ以上分割できないと思われていたものを分割していったのと似ているような気がします。そうすると、人間も個人以上に分割することは出来ないのでしょうか。

 私は、出来るのではないかと思います。それは、個人の内面です。同じ人物の中でも、好みはいろいろあります。運動好きなひとが、図書館に行かないということは無いでしょうし、辛いものが好きな人が、ぜんざいが嫌いとは限りません。その人の中にある、さまざまな側面を切り取っていく、そういったものが主流になり、ますます細分化が進むのではないでしょうか。

 いわば、その人に統合されている、ある側面だけをとって名前をつけ、そのとおりに振舞うこともあるでしょう。ハンドルネームや、オンラインゲームで使っている名前といったものは、すでにその萌芽なのかもしれません。こうなると毎日、異なる状況や気分によって複数の名前を使い分ける生活をするようになるのかもしれません(多重人格者的な意味ではなく)。

 また、毎日違うことが出来るように、個人の内面に、次々と違う側面を誕生させることが重視させられるのかもしれません。運動モードの自分、とか勉強モードの自分、とか。今でも、ほとんどの人は普通に使い分けているものなのですが、これがもっと明確な使い分けを伴って、自分も他者も使うようになってしまうのかな、と近頃は考えています。あんまり根拠がない妄想話ですけど。



2004年8月3週目 第34回 忘れられない暑中見舞い
 暑中見舞いを書いていると、中学2年生のときにもらった1枚の葉書を思い出すのです。その頃、私は生徒会の執行委員(書紀のようなもの)をしていました。Boominを推薦人にして、選挙に出、どうにか当選したのですが、選挙前に考えていた企画が次々と却下されていき、仕事も無く(だいたい、生徒会の仕事なんて、何人も役員が必要なものでもないのです)、思っていたより面白くなかったわけです。ときどきまわってくる仕事を適度に、最低限こなしていくぐらいのものでした。今思ったら、色々やりようはあったのでしょうけど、その頃は全く、代替案が思い浮かばなかったのです。

 夏休み前、生徒会がボランティアの生徒を集めて、独居老人のために暑中見舞いを書くという、誰が始めたか知らない、偽善的な企画がありました。一人三枚ぐらいのノルマだったでしょうか。で、ボランティアが集まらなかった分は、生徒会の役員が受け持つわけです。十数枚の葉書と住所録を会長に渡されて、とにかく「書いてこい」ということでした。

 私は、それがたまらなく嫌だったのです。だって、全く見ず知らずの一人暮らしのおじいさん、おばあさんに何を書けというのでしょうか。独居老人といったって、様々な背景があるでしょうし、趣味も違うだろうし、とにかく名前以外のデータはまったく知らないのです。親切の押し売りといいますか、これなら例文が用意されていてそのとおりに書くと決まっていたらどんなに楽だろうと思いました。

 考えあぐねた結果、当たり障りの無い話、たとえば学校のプールが水不足で中止になっているので残念だ、とか暑くて大変だけど体に気をつけて長生きしてください、とかスイカが美味しいとか、何種類かの文例を考えて、葉書ごとにアレンジして(お年寄りがゲートボールをしている間、暑中見舞いの品評会を開いているような気がしたので)どうにかノルマを達成したのです。

 当然、そんな暑中見舞いに返事も来るはずも無く、それならもらった葉書を売ってしまったほうがよかったと思い始めたとき、一通だけ返事が来たのです。同じ区に住む七十代後半のお爺さんでした。万年筆できっちりと書いてあって、水不足なら山に行って、川で泳げばいい。暑いが、体を鍛えて夏ばてをせずに頑張って学べ。幸運を祈る、と。その時、何だか、そのお爺さんを騙しているような気がしたのです。

 もちろん、気持ちを込めて書いた葉書だったのですが、いわばその葉書は私にとってフィクションのようなものだったのです。見ず知らずの人の健康を祈るなんて、宗教家でもあるまいし、白々しい。その上、プールが無くなっても、泳ぐのがそれほど好きではない私にとっては、そう痛くもないことでした。何よりも、お爺さんに自分が何と書いたのか全く忘れてしまっていたことが恥ずかしかったのです。律儀に返してもらった暑中見舞いを受け取ったとき、これでこのお爺さんとは見ず知らずではなくなった、と嬉しかった反面、残りの老人たちにフィクションを送ったやりきれなさでいっぱいになりました。

 このことがあってから、自分の感情を込められない手紙は絶対に書かないと決めたのです。



2004年8月2週目 第33回 迷惑な楽しみ
 今年の5月、欧州を旅行したとき、携帯CDプレイヤーを無くしてしまってから、外で音楽を聴くことがなくなってしまいました。しかも、オペラのCD全2枚組みの1枚目を入れたまま紛失したので、CDから新しく買いなおすかどうか判断に迷っています。

 最近までプレイヤーが無いことで特に不便も感じなかったのですが、やはり英語の勉強をしなければならないと思い直し、英語のニュースが吹き込んであるCDを聴くためCDプレイヤーを買いなおしました。昨今、巷で話題のiPodなどでも良かったのですが、予算がないのとCDの音質が好きなので、あえて時代を逆行してみました。

 久しぶりにヘッドフォンをして電車に乗ったのですが、隣に立った人が、ちらりとこちらを向いたような気がしました。すぐに自分の音量が気になって、耳から外して再確認。音は漏れていなかったです。よく大音量で聞いている人もいますが、彼らはこうやって自分の騒音量を確認した上で聞いているのでしょうか、とふと思いました。あるいは、自分の聞いている音楽を、他人にも聴いてもらいたいのでしょうか。(そういえば、隣に立った会社員のヘッドフォンから、のべつ幕なしにハロープロジェクトセレクションが流れてきたこともありましたけど)

   他人の楽しみは、否定すべきではありません。いや、たとえどんなに自分がつまらないと思っても、否定すべきではないと思います。その人にはその人の価値観があるのです。ただし、それは法律やモラルに反しない限り、であって人様に迷惑をかけない、どうしても迷惑がかかってしまう場合でも、最小限に止ようとする姿勢が無ければ、楽しむ資格はないのです。自分の楽しみの裏で、誰かが楽しくない思いをしているなんて、不愉快極まりないわけですから。

 欲望を解放する権利ばかりが幅を利かせる。欲望に忠実にいきる。ほんの少し、ハレの舞台だからと羽目を外す。非難されれば「税金を余計に払っている」「年に一回だから多めに見ろ」「経済的な効果があるんだから」と屁理屈を並べる。でも、それはどうなんだろう。自分自身も、こういった人々の仲間にならないよう、自省しようと思います。



2004年8月1週目 第32回 メトロポリタンミュージアム
 NHK「みんなのうた」に大貫妙子さんの「メトロポリタンミュージアム」というのがあります。なんだかミステリアスで、タイムトラベル。最後は絵に閉じ込められてしまう。ァンタジーなんだけど、ちょっと不気味さが漂っていて、印象深いものでした。初めて聞いてから随分たって、その美術館が実在していることを知りました。

 去年、「第23回 雨男 紺洲堂」で嵐を呼んでしまった旅行のとき、ニューヨークのセントラルパークにあるメトロポリタン美術館を訪れることが出来ました。いままで、ある程度の美術館を回ってきましたが、いまのところ一番好きな美術館です。古今東西から、さまざまな一級品を集めて展示してあるのです。普通の美術館なら特定のジャンル以外は置いていないものが多いのですが、メトロポリタンは古代エジプトから現代美術まで置いてあってしかも一級品ぞろい。2日かけても惜しくないと思いました。

 館内を回ってみて思うのは、やはりアメリカの豊かさです。普通、ヨーロッパの美術館を見てみると分かりますが、その国が豊かだった頃の作品だけが充実していて、それ以外だと極端に貧弱になってしまったりします。たとえばウィーンならハプスブルグ家の勢いが盛んな頃。イタリアはルネッサンス、といった感じです。ドイツやフランス、イギリスなどは、植民地時代にかき集めた古代美術から、近代までが比較的強いようです。もちろん現代美術もそうとうなものを持っています。アートの中心地だったため、代表作・名作は生まれ故郷の欧州に留まっているようです。

 ところが、アメリカの豊かさは、売りに出た欧州産の名作・名品があれば、金に糸目をつけずにアメリカに持ってきたことに大きく表れています。欧州の貴族や蒐集家が、金に困ったりして作品を売りに出すと、新興国アメリカの金持ちが競って買い集めて大西洋を渡って運んできました。そのような金持ちたちは、たいてい自分の家などに飾って見せびらかしたり一人でこっそり楽しんだりした後、遺言によって美術館に寄贈するようにしたわけです。これによって美術館のもつコレクションは充実していきました。

 収集したアメリカの上流階級には、ヨーロッパに対するコンプレックスもあったでしょう。移民という、いわば逃げてきた人たちが作った国なのですから。ですが、ヨーロッパ文明の正当なる嫡子でもあるわけです。様々な機会を捉えて旧世界の美術品をあつめ、挙句の果てには修道院を移築して、中世美術専門の別館すら建ててしまったほどです。

また、ヨーロッパだけではなく、敗戦後の日本に入って、貴重な日本美術を、食料を買うお金に困った日本人から買い集めたりしていました。メトロポリタンの日本コレクションは、一見の価値はあります。こうして世界各地から美術品を集めていったわけです。街を歩いても、あまりアメリカの豊かさは感じませんでしたが、この美術館とワシントンのスミソニアン博物館は、アメリカの懐の深さと国力をつよく感じ取れた場所です。

 しかし、やはりホンモノの一級品は、国が威信をかけて流失を防いでいるわけですから、あまりアメリカにはないわけです。そこが新興国の悲哀なのでしょうけど、現代美術の中心地はアメリカなのですから、これから益々、コレクションの質は向上していくでしょう。

 日本の美術館も、もっと世界的なコレクションを持てるようになるといいのですが。海外には、それを訪れる為だけに観光客を集められる美術館がいくつもあります。一流国と言われる国には、ほぼそれはあるでしょう。ですが、日本は、と思います。国とアメリカのような「金持ち」の力を結集して、是非とも世界に冠たる大美術館を作っていきたいものです。

 そういえば、大学でオーストラリアを研究している先生の話。彼が豪州に行ったとき、文化財と言うことで、小屋が保存されているのを見たそうです。どこから見ても何の変哲も無く、同行の豪州人に、この小屋がどれぐらいの月日が経ったものか聞いたところ、ほんの百年ぐらいなものだったらしい。なんで、そんな小屋が文化財なのか聞いたところ、その豪州人は「この小屋が300年経てば、立派な文化財だ」と真顔で言ったのです。歴史の浅い豪州ですが、こうして開拓時代の遺産を保っていけば、子孫に伝えるべき立派な文化財になる、ということなのです。

 一時の勢いに関わらず、文化は長い目で育んでいかなくてはならないのでしょう。



2004年7月4週目 第31回 現代人の大好物
 どことは言いませんが、あるレストラン運営チェーンの内装は非常に素晴らしく凝っています。店内からメニュー、従業員の制服から、どこも洗練されていて、みるからに「美味しそう」な雰囲気を作っているのです。で、肝心の味なのですが、いたって普通で、「内装から想像されるレベル」よりは劣ってしまっています。失望、までは行きませんが、なぜか釈然としません。この店を見るたびに、現代人の好物は「情報」なのだなぁ、と思うのです。

 例えば、皆さんは目隠ししてミネラルウォーターと浄水器を通した水の違いが分かるでしょうか。4種類ぐらい買って試してみてください。個性の強い硬水のコントレックス、ヴィッテル、エヴィアンぐらいだったら分かるかもしれませんが、軟水だったら浄水器の水とわからなくなってしまうかもしれません。ラベルを変えてテストしてみたら、なおさら判断できないと思いますし、飲む前に、その水に関する蘊蓄(うんちく)を散々聞かされたあとなら・・・。

 他人から流される情報からの干渉を外して、すべて自分の感覚で判断するのは難しいですね。ラーメン屋に行きますと、そこの麺やスープがどれほど手の込んだものなのかが切々と壁一面に書いてあったりします。それほど「こだわった」スープでしょうけど、客である私たちの何人が使っている食塩の違いがわかるか、あるいは書いてあるものが使われていなくてもわかるのでしょうか。

 ならば、使っていなくても「厳選素材を使用」と書いてあるかもしれません。客である私たちが付加価値を見出しているのは、「蘊蓄」であり「情報」なのです。そのほんのちょっとの差に高いお金を払っていても、真実と異なるのであれば、私たちは何に対してお金を払っているのか。壁に書いてある文章や、オヤジのかけているタオル、軒下につるされた提灯に対してでしょうか(ディズニーランドではないのですから)。そんなことを考えてしまいますとあまり人を信用できなくなってしまいます。

 だからこそ、情報が間違っていたり、意図的にゆがめられていたりしていた場合、大問題になってしまうのです。温泉や食肉、自動車などで露呈してしまったのは、まさにこれですね。昨日まで喜んで使っていた、食べていたものが、実は自分の考えていたもの(看板、ブランド、言っていること)とは大きく違ったということです。非難する私たちには、きっと「騙された!」と思う反面、流されていた情報に踊らされていた自分自身を恥じている部分もあると思います。

 しかし、現代人は情報が好物なのですから、不祥事も大量の情報で強引に押し流す、という手もあり、実際に使っている人が多いですね。結局そこを判断するのは自分ですが、判断に足る材料がいつもあるとは限りません。信用できるものと信用できないものを判断することから始めなければならないのです。そんなことを考えるのが嫌で、実態ではなく情報や効能書きにお金を払っていると割り切れられれば問題は無いんでしょうけど・・・・。



2004年7月3週目 第30回 本当に良いものとは?
 本当にいいものを見分けるコツの一つは、そのものが何十年か経ったところを想像してみることだと思います。特に、建物や人物などはそう思います。

 例えば、どうも男性が女性の雰囲気やメイクに呑まれてしまっていると感じたら、その女性がどんな風に歳をとっていくかを頭の中でシミュレートしてみるわけです。それでも可愛いおばあさんになるようでしたら、やっぱり可愛い人なんだろうと思います。反対のケースでも、もし女性が男性をシミュレートしてみた結果、汚い歳のとり方しか出来なそうだな、というのでしたら、きっ とあまりいいひとではないのでしょう。

 この方法は、別に、シミュレーションした結果が何十年かしてからの画像と一致していなくてもほとんど関係ありません。なぜかと言いますと、観察者本人の印象から、無駄な部分をそぎ落とした、いわば観察対象の「本質」を客観的に見ることが、この方法の目的だからです。長期的な視点に立ったとき、年齢に左右されない、その人の本質(観察者の感じ取ったものでしかありませんけど)が、見やすくなっていく。そこで良いものと悪いものを見分けるわけです。あくまでも、自分にとって良いものか悪いものか、ですので普遍的に良いかどうかはわかりませんが。

 それは建物の場合でもおなじで、新しく出来たものが数十年後に見て、老朽化しているか、時代遅れになっているか、はたまた斬新さを失わずにモダンの地位を維持しているか。あるいは、過ぎ去った時代の代弁者となっているのか。既に取り壊されてしまっているのか。それらを考えてみれば、その建築(特に住宅)が、自分にとって本当によいものなのかどうかが分かるのではないでしょうか。

 こういったシミュレーションの結果、時間が経ってもいいと判断したものは、刹那的ではありません。永続的に自分が価値を認められるというわけですから。自分の性格にも合致しているのだと思います。

 だからと言って、すぐに無くなってしまう物が悪いとは限りませんから、注意は必要です。かげろうにはかげろうの美しさがあるのです。それは、「何十年経っても」という視点では評価できませんから、そのまま見るだけでいいのだと思います。ですが、それは次の瞬間には美しいと認められなくなってしまう危うさと表裏一体だと思います。

 こうやって考えると、本当に良いものとは、やはり骨董やワインのように、存在した分の時間をプラスの価値に変えられるものなのでしょう。私たちも、これまで生きてきた時間、これから生きていく時間をプラスに変えていければいいのですが・・・。



2004年7月2週目 第29回 ゲーセンを考える
みなさん、選挙には忘れずに行きましたか?前回は、投票日一週間前ということなので、選挙について書きました。本当は、ゲームセンターの続きを書くつもりだったので、今回、改めてゲームセンターについて考えようと思います。

 私の周りでも、あれだけのゲームセンターが閉店しているわけですから、皆さんの周りでも、だいぶなくなってしまっていると思います。それも当然で、だいぶ前からゲーム機は家庭にも入り込み、対人ゲームもネットを媒介として自宅で、より安く楽しめるようになった結果、ゲームセンターの存在理由がなくなってしまったからだと思います。

   その結果、従来の筐体でできるゲームから「自宅ではできないもの」にメインがシフトしてきたようです。具体的には、これも前回触れたプリクラ・メダル・UFOキャッチャーの3つですね。ここで面白いのは、どれもモノを媒介としているということでしょう。

 シール、コイン、商品とモノを媒介して、はじめて成立するわけですが、実は、そういったモノ自体がコミュニケーションの媒体となっているから支持されているのではないでしょうか。ひとり黙々とプリクラを撮る人は、あまりいません。その他ふたつも誰かと話しながら「取れた」「取れない」と、盛り上がれるから面白い。

 こういったゲームは、カラオケと全く同じ構造なのです。何かをすることで、共通のテーマを持ち、時間と場所を共有しながら楽しむわけです。女子高生がカラオケとプリクラを好むのは当然でしょう。

 いわば、これらのゲーセン機械は「自宅では味わえない体験」を売っているわけです。それは会話のネタ提供にかぎらず、普通のゲームで感じられないものすべてです。例えば、レーシングゲームのハンドル、音ゲーのドラムや太鼓、カード式ゲームのカード、そしてガンシューティングの銃にも言えます。

 そして、近年導入されたインターネット回線を経由した、ネットワーク系のゲーム。手軽に、自分の身分を明かすことなく誰かとゲームを楽しむことが出来ます。しかし、それは諸刃の剣となり、一旦取り込んだ客からは、ながくインカムを稼ぐことが出来る一方で、新規参入の障壁を高めてしまっています。まずは「お試し」から「面白いゲームだ」と認識してもらわなければなりません。このあたりは、まだ発展途上といえるでしょう。

 そして、ゲームセンター自体に求められているのは健全化でしょう。ゲームセンターと言えば、「不良の溜まり場」というのが相場です。そしてタバコの煙。これらが、ゲームセンターと言う場所を「教育上、安全上、よろしくないところ」としていると思います。となると、お母さんが買い物をしている間にお父さんと子供が暇をつぶせる、ショッピングセンター併設型以外のゲーセンに、家族や子供だけで遊びに行かせる、ということはないでしょう。

 また、お金が掛かると思われているのであれば、一回あたりの客単価を抑えて、毎日来てもらうというのも手だと思います。やればやるだけ上手くなるのは間違いありませんから、安く上手くなれるのなら、通ってくれるお客さんだって増えると思います。あるいは、一日の特定の時間だけマンガ喫茶やカラオケのように何時間いくら、という課金システムにする、とか。お金の心配なく対戦がやり放題なわけですから。やり方はたくさんあると思うのですが・・・・。

 本来的には、ゲーセンは健全だと思うのです。パチンコで1万円を使うのはあっという間でも、ゲーセンで一万円は、なかなか使えません。使おうと思えば使えますけど、圧倒的に長く遊べます。しかも、射幸心を煽りません。払ったお金が何倍になって返ってくるという幻想がない分、純粋に「ゲーム」として楽しめるわけです。パチンコ・パチスロ・カラオケ・マンガ喫茶などから、いかにお客さんを取り返すかを考えれば、決してゲーセンの未来は暗くは無いと思うのですが・・・・。



2004年7月1週目 第28回 選挙に行こう(再び)
 今回の参院選が一週間後ということで、また選挙についてです(近くなったらもう一回書きます、と書きましたし)。選挙権というのは不思議なものですよね。二十歳になった日本国民なら、自動的に貰えるものなのです。自動車を運転するには免許が必要ですし、海外に出るならパスポートが必要です。ところが、選挙権を手に入れるためには、知能試験も啓蒙ビデオもないですし、自分で申請して投票権を貰いに行かなくてもいいのです。どんなに考えていても、また考えていなくても一人に一票です。

 歴史の授業などで、初めての国政選挙の参加資格を覚えさせられましたが、覚えていますでしょうか。「満二十五歳以上・男性・直接国税15円以上」ですね。戦後になって「満二十歳以上の日本国民」だけに改められたわけです。この間、大正デモクラシーなどがあって、いまの民主的な選挙まできたわけですね。

 理屈とか思想とかは抜きにして、実際みんなが選挙にいけるようになったということの何がよかったのでしょうか。今のように選挙権があっても選挙に行かない人が多いのなら、選挙権が拡大したからと言って、無意味だったのでしょうか。それなら、また何らかの制限を選挙につけてもいいのではないでしょうか?

 でも、そういったことではないですよね。たくさん税金を納めた人だけで国が支えられているわけでもないですし、まして男だけで成り立っているわけも無いわけです。この国がどうなっていくか、については誰だって平等に意見を行使する権利があるということなのです。一部の人間が、自分たちの都合で他人を嫌な目に合わせないようにするためのものなのです。

 そりゃ、自分の納得しない人が当選する事だってありますし、選挙や民主主義に制度的な問題が無いわけではありません。当選した人が、かならずしも自分の望む行動を取るかどうかもわからないわけです。

 それでも、国を良くしていく力は選挙だけなのです。テレビで、支持率がどうのこうの、と言っていることもありますが、制度的には何の力もありません。いいですか。いくらアンケートで「支持します!」「不支持です」と言っても、いくら居間で政治家を罵倒しても、ほとんど無意味なのです。

 選挙で選ばれた議員が法律を定め、内閣を作るわけです。支持率が上下したり、何かの政策について賛成・反対の調査があったりしても、直接には何の影響もありません。ただ、次の「選挙での反応」として返ってくるから影響になるわけで、その人たちが選挙にいかなければ、何のサポートにもなりませんし、何のプレッシャーにもならないんです。しかも、その意見を表明できるのは、数年に一度だけなのです。これから数年、このひとならマシかも、と思う人に投票すればいいのです。特に難しいことでも、面倒なことでもありません。「どうなってもいいや」とか、「日本からいつでも移住できる」と思うなら別ですけど。