2004年上半期(1月〜6月)


2004年6月4週目 第27回ああ、無常
 ここ2〜3年で、みなさんのまわりでも大きな変化が続いていると思います。その最たるものがゲームセンター、いわゆるゲーセンですね。異論があるとは思いますが、IT技術の進歩の影で衰退の一途を辿り、よくある町の風景が日本国中で変わりつつあるのです。地域振興・再開発問題の上で大きな変化だと思います。

 まあ、そんな屁理屈は抜きにしても、私の周りでは5軒ほど潰れてしまいました。私の大学の近くには、もともと5軒ほどゲーセンがありました。ですが、そのうちに携帯屋、うどん屋、空き家になってしまいまして、残った一軒も時間の問題と言えるでしょう。行き先がなくなったゲーマー達が、通い続けることで存続できるように応援しています。

 地元に近いゲームセンターも2軒、潰れました。一軒は、いつ潰れてもおかしくないぐらい寂れていて、いつ店をたたんでもおかしくない、いや、畳んだほうがいいんじゃないかと思うほどだったので、別に意外でもなんでもありませんでした。ギターフリークスはサードミックス、ドラムマニアは初代(しかも、だいぶ前から修理中)、レトロゲーム(ただ新しい基盤を入れる気がないだけ)には電源が入っていない、とヤル気が全く感じられない、次の借り手が出るまで開けている、といった雰囲気でした。

 問題は、一ヶ月ほど前に潰れたところです。駅前のビルでの3階までがパチンコ・パチスロ、4・5階がゲーセンやビリヤードという複合娯楽施設でした。学校が終わると、近所の高校生(ヤンキーっぽいのも多かったですが)の溜まり場となっていたぐらいで、結構客の入りは多かったのです。

 それでも或る日、閉店しておりました。パチンコも、人が入りにくくなっていたのでしょうか。バブル期の建築で、派手さを狙って無駄なスペースが多かったのが、資本効率を低くしていたのかもしれません。それでも儲かっていないわけではなかったようなので、潰れるとは夢にも思いませんでした。

 しぶとく生き残っているところもありますが、大抵はプリクラ・メダル・UFOキャッチャーの御三家がメインとなっています。家族やカップルで利用することを想定しているところですね。商業施設の中に設けられたゲームコーナーが最たるものでしょう。こういったところは、いわば「プチ テーマパーク」として存在しているようです。しかも、客単価が高く、3分ワンコインの法則以上のインカムを稼げます。

 他に、サラリーマンが多いところは、麻雀の通信対戦がメインとなっています。ちょっと大きいところならカードゲーム式の大型機械を導入しています。段々と、私の行き場所がなくなっているような気がします。アーケードゲームは、消え去る運命なのでしょうか・・・・。



2004年6月3週目 第26回 学生時代に勉強しておいた方がいいと思うこと
 学生時代に勉強しておいた方がいいこと、というとたくさんありすぎて困ります。普通に授業を受けている場合、受験がある人は受験勉強。専門分野のある人は、その勉強・研究が主になってしまいます。そういったことは勉強しておいたほうがいい、というより「しなくてはならない」ものですから、ここでは除外しておきましょう。

 文系・理系問わずに勉強しておいた方がいいと私が思うこと。それは生物学と歴史 です。この二つは、勉強して絶対に損はないと保証できます。それは「人間とは何か ?」という問い、「どうやってこの世はできているのか?」という問いに対して自分なりの答えを導き出す為の貴重なツールになってくれるからです。

 理系の分野で、これから時代が来るというバイオテクノロジーは生物学の守備範囲 です。化学などでも、人間や自然を相手にしなければ、何事も出来なくなってくることは多々あるでしょう。環境に配慮しなくては、何事もできなくなるわけですから。また、宇宙開発においても、生物が宇宙に進出していけるか、という観点から生物学は必須だと思います。歴史については、人をマネージメントして研究する際に、参考になることが多いと思います。

 文系の、特に大学生は学ぶことで世界観が一変するでしょう。経済系の学生なら、生物の進化の過程が、そのまま競争についての教科書になります。文字通り生物は「生きるか死ぬか」の競争を繰り広げてきたわけですから。

 文学系・社会学系でも、人間を科学的に扱うことが、文系の世界でどれだけ軽視されてきたかに愕然とするはずです。文系の学問には、屁理屈なところがあります。そこに「人間は、こうやって進化してきた、こういう生物だ」ということを理解したうえで文献を読むと、いかに頭脳だけの決め付けが良くないかが分かると思います。

 歴史を学ぶ効用については、いくら言ってもいい足りません。どの分野であっても、 文系なら歴史を学ぶことが最初に来るものです。その分野についての歴史から学び、できれば日本史と世界史の両方も、学んでおいた方がいいです。これらから幅広い知識を得、どうやってこの世界が有史以来続いてきたか、を理解しておけばあらゆる分野で応用が利くでしょう。

 大きな世界から、今の世の中を客観視する為には、生物学と歴史は非常に有益です。 必ず、本質を考える上で役に立ちます。これは勉強したことがなければ是非してみてください。新書や文庫ででている軽めの本からでもいいです。自分の興味のわいた分野から攻めてみてください。

あんまり興味ないですか?なら、ちょっと問題を。どうして世の中には男と女が居るのでしょう?別に、アメーバのように細胞分裂でもいいじゃないですか。また、何種類もいた類人猿の中で、なぜ人類の祖先だけが生き延びて人間になれたのでしょう。ほら、やっぱり面白そうじゃないでしょうか。



2004年6月2週目 第25回 そうだ、選挙に行こう
 わがCONS@WORLDでは、国政選挙になると毎回、BBSで投票を呼びかけています。私が政治学専攻だったから、ということもあるのですが投票率の低下には編集長ともども、重大な関心と危機感を持っています。BBSに書き込むことで、サイトに来てくれた人が、少しでも思い出して投票に行ってくれるようになればと願って、毎回続けているのです。

 ですが、今回は通信で、前もって「選挙に行く」ことを勧めておきたいのです。参政権を持っている人は、今から選挙に行くことを考えて、少しでも関心を持って政局を見てください。まだ選挙権を持っていない人は、自分が二十歳になった時に、その場限りの甘言(公約・マニフェスト)に惑わされずに冷静に候補者を見極められるよう、今回の参議院選挙を見てください。

 それは、この国を変えるのは、選挙権を持っている皆さんだからです。国が良くならない、政治家が公正で良い仕事をしていないと思ったら、その不満をぶつけれれる唯一の場なのです。いい政治をしているな、と思うのなら、そのエールを直接届けて上げられるのが選挙なのです。得票数こそが力であり、日本を動かす原動力なのです。

 様々なまやかしが、いまの政治にはあります。ですが、これらを放っておくことは、積極的無党派と威張れることではありません。将来、この国がにっちもさっちもいかなくなった時、皆さんは、次の世代に対してどう説明すればいいのでしょう。

「こんなに悪くなる前に、なんで変われなかったの?なんで変えなかったの?」
「いや、まともな人が居なかったから投票できなかった。知らず知らず、ずる ずるっといっちゃったんだよね」
 と言い訳するのでしょうか。

 パリがドイツに占領された時、心あるフランス人はレジスタンスとして戦いました。自分の国を少しでも良くする為に、必死で戦ったのです。ですが無党派日本人は、少しでも自分の票で、世の中を良くしようなんて考えず、そんな情けない状況になるまで放置するのでしょうか。

 たとえドングリの背比べであっても、一番ましな人に投票すればいいのです。マイナス5とマイナス3しか居なければ、マイナス3の人を選んでください。一番マシな人を選ぶのです。確実に日本は、それだけ良くなるはずです。

 投票日に行けない人は、不在者投票が出来ます。朝早くから夜遅くまで受け付けているので、あらかじめ投票を済ませてください。仕事が忙しくて投票にもいけないという人もいるでしょう。投票は国民の義務であり権利ですから、本当に不在者投票もできないのであれば会社を休んで投票に行けます。ちゃんと法律に書いてあります。(労働基準法第7条)

 このサイトに来ていただいている、ほとんどの人は行っていると思いますし、行くと思うのですが、これからは周りの人も引っ張って、必ず行ってください。それでもなお、本当に、政治は良くならないと思われるのでしたら・・・・・海外脱出の用意を始めましょう。

 近くなったら、もう一度書きます。



2004年6月1週目 第24回 教育論を騙る
 子供がなにか事件を起こした、学力が低下した、などということがあると、決まって「教育論」が注目されます。ゆとりがどうの、とかそろばんをやらせろ、とか乾布摩擦がいいとか、あいさつをしろとか、ですね。テレビのコメンテーターだって、何にでもコメントしなれければいけないわけですから、教育学者じゃなくてもコメントしなくてはならない。政治家だってインタビューされたら何か言わなければならない。

 でも、ここで少し距離を置いて眺めてみると面白いことに気がつきます。実は、教育論を語っている人は、たいてい自分の育ってきた環境がベストであると思っている、ひいては自分がベストな人間だと思ってコメントしている節があるのです。特に、エライ人(社会的に認められている、と思われている人)になればなるほど、その傾向は強いのではないでしょうか。自分が受けた教育がベスト=だから自分はエラくなった、という匂いがするのです。

「僕が小学校だったころはねぇ・・・・・」
「僕が部活をやっていたころはねぇ・・・・」

 とか。そのあとに、たいていは今の常識からすると眉をひそめる、もしくは若者が毛嫌いするような理不尽・クラシカルなことが続きます。そして結論は、
「だから、今の教育はイカンのです(もしくは、ダメになった)」

 こういったことは、年長者の説教と同じパターンなので流しておけばいいのです。時代は流れているわけですから、同じ教育を施したからと言って優れた人間が出来るわけではありません。もっと効率の良い手法が開発されているかもしれないのですから。使えると思うところだけ使えばいいのです。

それに、そんな教育を受けてきたらどんな人間が生まれるか、サンプルが面前に居るわけですから、説得力がなさそうな人が唱えていれば無視できます。説得力がありそうな人の、応用できそうな部分だけ、耳を傾けておけばいいのです。

 たまには、
「自分がこんなにクズになったのは、教育のせいだ。もっと、こんな教育を求めていたんだ!」
「教育なんて役に立たなかった。自分はこんなことを自分で勉強したんだ。もっとこんな風にすればいいんだ」
 とか言う人がいてもいいと思いますが、それも自己肯定の裏返しかもしれ ません。難しいですよねぇ。

 別に、自己肯定が悪いと言っているわけではないのです。その人が受けてよかったと思えた教育については、大いに語ってもらう価値があります。

 ですが、単なる自慢話をしているケースも多々あるのです。そういう話に限って、自分がつらい体験(水を飲まずに野球の練習・一日二時間しか眠らずに受験勉強、など)をしたからこそ成長できた、という根性神話が多いような気がするのですが・・・。あるいは、いかに勉強をせずに有名大学に進めたか、とか。



2004年5月5週目 第23回 雨男 紺洲堂
 私は、どうも雨男らしいのです。
 開館当初からジブリ美術館に、boominとP-ALPHAを伴っていくと、必ず雨が降る のです。屋上の巨神兵に登れたのは2回目の訪問以降で、雨が降っていない時間を見 計らって、どうにか。なぜか、傘を差した思い出しかないのです。もちろん、チケットは予約制なので事前に雨が降るかどうかも分かるはずがありませんし、「雨が降っているからジブリに行こう」と決めて訪れているわけでもありません。

 こういうのは、やはり無意識下で「雨が降りそうなときに行きたくなる」と設定さ れているのでしょうか。やはり、単なる偶然なのでしょうか。あるいは、雨が降った日がたまたま印象に残るイベントだったからでしょうか。統計を取ってみればそこのところはクリアになると思うのですが。そのあたりは謎のほうが、晴れだと一層楽しいかもしれません。

 過去、もっとひどかったのはアメリカ旅行の時でした。去年の9月にアメリカのワ シントンD.Cに行ったときのこと。空港に着くと、妙に閑散としています。バス乗り場に行くと、バスが来ない。窓口の人に聞くと、もうじき来るというので、しばらく待つと「今日のバスは終わった」とのたまう始末。しかも訛りのひどい英語でまくし立てるものですから、こっちとしてはわけが分からない。いっぺんにアメリカの印象が悪くなりました。(日本の空港などにお勤めの方、どんなに機嫌が悪くても外国人には愛想良くお願いします)

 多分、お客が少ないからバスが来ないのだと判断して、乗り合いタクシーにしまし た。だんだんと雨が降ってきます。で、ポトマック河まで来ますと、大増水。ナント、私が乗ってきた飛行機が最後で、あとはハリケーンの為に欠航になっていたのです。土色に濁った流れが、岸の散歩道を浸しており、しかも流れが速いので木の根などがどんどん川上から流されているのが見えました。

 ホテルに着いた後、ますます雨は強くなります。長年の夢でありましたスミソニア ン博物館まで徒歩圏だったので、横殴りの雨風の中、どうにか入り口までたどり着く と、警備員に「今日はハリケーンで休みだよ」。普通、日本だったら開館する程度の雨風だったのですが、休みだということ。明日開くかと尋ねると、分からないので朝、博物館に電話して聞いてくれとのこと。帰り道の雨が、妙に冷たかったです。他には人っ子一人、車一台、犬一匹いませんでした。

 ワシントンには早い時間に着いたにもかかわらず、どこも閉まっており動けないの で、貴重な一日をホテルで過ごしました。アメリカのテレビでハリケーン情報を見ると、増水で甚大な被害が出ている、また周辺の○○学校、○○大学は休校です、とご丁寧にもいろいろな学校やショッピングセンターの開閉を放送していました。疲れや時差もあったので、さっさと寝るしかありませんでした。

 台風一過、翌日は本当に良く晴れました。テレビをつけると、まだ昨夜の学校や公 的機関の台風休みが続いているようでした。台風で休校が決まったのに、晴れていたりすると、本当に得ですよね。週末だったから、連休にしようということだったのかもしれませんが。ワシントンの小学生は、こんな程度の台風で休めて嬉しいだろうなぁ、と思ってスミソニアン博物館に向かいます。

 すると、運輸省前の並木が倒れているではありませんか!かなり大きな木なのです が、ワシントン周辺は土の深さがあまりないらしく、根が水平方向に伸びるので倒れやすかったのでしょう。

 雨男ではなく「嵐を呼ぶ男」に昇格した瞬間でした。(今回は全然ためになる話で はなかったです)



2004年5月4週目 第22回 4年前からの宿題
 4年前、非常に気になっていたことがありました。別に、誰かから問われたわけでもないのですが「この世の中で、お金で買える一番高いものは何か?」というものです。なぜ、そんな質問を思いついたのかは思い出せないのですが、四六時中考え込んでいたのです。これがわからないと本当の意味でお金を使うことは出来ないのではないか、と思いました(今でもそう思っています)。お金を使っても、逆にお金に使われていることから逃れられないと思ったのです。そう考えていると、この質問から金銭哲学といいますか、どんな人なのかが端的に現れることに気がつきました。

 考えても満足のいく結果を得られなかった私は、周囲の人に手当たり次第に聞いてまわることにしました。予想したとおり、どんな人なのかよく分かるような気がしました。フランスの美食家、ブリア・サヴァランの言葉「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう」は有名ですが、私は「君が金で買えると思う、世界で一番高いものを言ってみたまえ」と言ってみたわけです。

 さて、皆さんが協力してくれたにもかかわらず、なかなか私が納得して満足する答えは返ってきませんでした。確かにジャンボジェットや大型タンカー、人工衛星なんかは高額ですが、それより高い物だって存在できるような気がします。だいたい、お金も数字ですからいくらでも積み上げることが出来るわけです。ある意味、その無限の羅列のどこにけりをつけるか、という話でもあるでしょう。

 お金で買えないものなら、いろいろあります。人によって、愛や命、幸福、時間、思い出などさまざまなことを言うと思いますし、家族や恋人など大切な人を上げる人もいるでしょう。昨日、ある映画祭に参加した某日本人俳優は、観客のスタンディングオベーションを見た後のインタビューで「感動はお金では買えない」とコメントしていました。では、お金で買える最高額のものは、なんでしょうか。私も、それなりの答えを出しましたが、それに対して満足はしていません。みなさんの答えは何でしょうか?

 高額納税者の人にも、ちょっと聞いてみたいですね。



2004年5月3週目 第21回 リアルだということ
 よく、私たちは、映画やゲームを見たときに「リアルだ」という感想を漏らしま す。でも観客のほとんどは、カーレーサーでも自衛官でも警察官でも傭兵でもないので、超高速でF1カーを操縦したこともなければ銃も撃ったことはないし、戦闘機を飛ばせたこともないわけです。その上、ジェット戦闘機や戦車の実物を見たこともない人がほとんどではないでしょうか。では、なぜリアルだとおもうのか。考えてみると、面白そうです。

 例えば顔面から直接、型を取って作った像が、ディティールだけは妙に細かくても リアリティーに欠けている場合もあれば、逆に彫刻のほうが本物の持つ存在感を持っていたりする場合もあります。また、刑事モノのドラマが好きで「銃というのは撃つとズキューンというのだろう」と思っていて、戦場中継などを見たら意外にも銃声は乾燥した音だったので衝撃を受ける。あるいは、アニメを描く場合、実写と同じようなコマ割ではなく、少しタメを作って人物を動かす方が、キャラクターに躍動感が出るらしいです。

 こうして考えてみると、決してリアリティー=本物をそのまま写し取る、というわ けではなさそうです。やはり写実だけではなく「こうあるべきだ」という受け手の感覚に合うようなものがリアルだということになるのでしょうか。もしくは、物の本質・核心をより表現したものがリアリティーを獲得できるのでしょうか。おそらく、この二つを含んだものだと思いますが。

 映画やゲーム、書籍、絵画などには、やはり作り手がいるわけですから、それら創 作物は、作り手の目や感覚を通じてインプットされたものが、脳の中で混ぜ合わさって新しいものとなり、手などの器官を通してアウトプットされたものなのです。ならば、現実をそのまま写し取ることは原理的にムリなわけですし、そもそも現実だって人によって違うわけですから、仮に作者にとっての現実を100%書けたとしても、思ったより共感は得られないと思います。

 そのようなことを考えていたら先日、国吉康雄という画家の展覧会で、面白い言葉 を見つけました。展覧会の壁に書いてあったので、おそらく画家の言葉だと思うのですが、あまりにもすっきりと書いてあったので、うなってしまいました。全文を引用します。

わたしにとって現実とは、出発点であると同時にそこから離れていくべき点で もあります。
感受性や想像力、直感といったものは、現実と混ぜ合わされて、写実性以上の ものを創り出します。それは、彼が置かれた時代、状況、環境などを暗示する、 内的な意味を呼び起こすのです。
これこそがリアリティーです。



2004年5月2週目 第20回 少子化と宇宙開発
今週の内容は先週の「完成された生活」の続きです。

 少子化と宇宙開発。全く関係がなさそうに思えますが、未来を語る上でこの二つは 切っても切れないと思います。少子化は、地球という「限られた空間」で「完成され た生活」に近づいていく過程にとって不可欠なプロセスなのではないか、ということ です。世界には、まだ食料がない地域がいくらでもあります。ということは、やはり 将来的に疫病や戦争による人口調整を無くしていくならば、人間の生息数が地球と折 り合っていけるぐらいまで少子化が進むのは当然となるでしょう。

 ニッポンだけを考えてみても、食料自給率はカロリーベースで四割しかありませ ん。無為無策の食料政策を続けるとすれば、あと八千万人は減る可能性があるという ことでしょう。ちょっと多すぎると思われるかもしれませんが、江戸時代にこの国に 住んでいたひとは三千万人もいなかったわけですから、少なすぎるわけでもなさそう です。

 それにもかかわらず少子化がこれだけ喧(かまびす)しく言われておりますのは、 人口が増加することを前提に社会を設計しているからだと思います。しかし、それは あくまでも「人間の数は環境が許容できる量を超えていない」ことを基礎にした発想 なのでしょう。「産めよ増やせよ」の時代には、戦争・疫病が頻繁にあったわけです から、人類が存続していく為には、これぐらいの気構えがなくては絶滅していたかも しれません。ところが環境の許容量をオーバーしてしまったのであれば、調整局面を 迎えるのは当たり前です。

 さて、今日のもう一つの本題。宇宙開発です。勘のいい方なら言わなくても分かる と思いますが、「少子化を解決するには、宇宙開発をするしかない」。宇宙は、幸運 なことに無限に増殖しているそうですし、今ある手近な太陽系だけだって、今日の人 類にとっては大きすぎるほど大きい土地に溢れているフロンティアなわけです。移住 する環境があるならば、少子化を解決して人口が増加しても食糧危機は起きません。 環境問題だって深刻にはならないわけです。国土も資源もの少なく、植民地も持って いない日本にとって宇宙に進出するしか、「少子化を解決した後」に残される問題に は対処できないと思います。

 でも、それは「完成された生活」には程遠い、無限に続く試行錯誤の繰り返しを生 きなければならない、茨の道なわけです。地球は有限ですから、その有限な環境で満 足するかどうか選択することは出来ます。ですが、一歩、宇宙に進出してしまえば途 中で止めることは出来ません。宇宙が無くなるまで続く、永遠の開拓。

 完成された生活を目指すか、それとも無限の増殖の旅に踏み出すか。現在の宇宙開 発には、人類の生き方が問われているのではないでしょうか。



2004年5月1週目 第19回 完成された生活
 ジャングルの奥地で発見された民族、なんて言われると「コロンブスがアメリカ大陸を発見」という年表に「てやんでぇ、こちとら大昔から住んでるんでぃ。発見なんざへそで茶を沸かすぜ」と反応するネイティブアメリカンを思い出してしまいます(なぜ似非江戸言葉なのかは置いておいて)。が、あくまでも発見した側からすれば、「僕らは知らなかった。僕らにとっては発見なんだ」ということだと思います。まずは、それを踏まえて、本題に入ることにしましょう。

 そもそも、なぜ発見と言われるかというと、そういった民族が外界から一切の干渉を受けずに今までやってきたからです。それは、すなわち「完成された生活」を送っていたからだと思うのです。自給自足の生活です。その環境において手に入る資源だけで何万年も過ごした結果として、試行錯誤の繰り返しの彼方まで進んだ、無駄の無い、それこそ完全にエコで「持続可能な」生活なわけです。

 そこに、外部からのアクセスがあると、どうなるのでしょう。

靴のセールスマンの話があります。ある日、靴のセールスマンが二人、ジャングルの奥地で靴を売ろうとします。ですが先住民は、靴をはいていない。
A「見ろよ、連中は靴をはいていない。しかも足の裏は頑丈だ。とてもじゃないが買ってくれないよ」
B「いや、彼らは靴をはいていない。売ろうじゃないか」

 ビジネス、特に営業に関してのたとえ話なのですが、こうやって商売人(資本主義!?)が、そういった民族に入り込んでしまうと、生活パターンが崩されて、村人は現金収入を目指し、文明の利器を買いそろえ、自給自足の暮らしは消えてしまうのでしょう。外国に有名人がホームステイする番組があって、好きでよく見るのですが、奥地を舞台にした回になると、やっぱりそのことが浮かんできます。

 翻って、私たち自身はどうなのでしょう。確かに、自給自足とは程遠い生活です。日本という国に限ってみても、資源は少ないにもかかわらず大消費社会を謳歌しています。江戸時代には海外との通商がほとんどなく、国内的に自給自足でやってきたので出来なくは無いのでしょうが、その当時と比べて人口は多く、まず無理です。

 それにエネルギー。私たちの使っているエネルギーはどれも有限で、いまのままの生活様式を何万年も繰り返すことは、絶対に不可能なのです。地球規模で言えば、(宇宙から輸入しているわけではないので)自給自足の生活なのでしょうが、それでも試行錯誤の繰り返しで無駄ばかりの生活です。私たちの世界が、「完成された生活」に落ち着くまで、あと何万年かかるのだろう?そう思うと、なんだか寂しくなってしまうのです。



2004年4月4週目 第18回 就職活動の一こま
 随分と前になりますが私が、ある携帯電話会社(仮にX社としておきます)の採用試験を受けたときのことです。幸い、エントリーシート(ES)が通って一次面接に進むことが出来ました。一次面接は、その会社の若手社員と一対一で話すのですが、場所は喫茶店で、社員もカジュアル。やはり進んでいる大手企業だと思ったものです。そこでESや履歴書をタネにいろいろと話をするわけです。

 私が意気込んでESに書いたのは、ズバリ「使い放題プランを作る」です。いま、家計における通信費は、これ以上は無いほど飽和しています。だからこそ、使い放題プランによって、他社が提供するサービスのプロバイダーとなり、その提供の手段として、すべての消費シーンで手数料を頂くようにすれば、この限界を突破できると主張しました。そして、もっと使ってもらうことによって、携帯がないと何も出来ない社会を作り出せば、シェアも独占できると言ったわけであります。

 このプランをぶち上げて意気揚々だったのですが、その若い面接人は顔色一つ変えませんでした。曰く、ウチの会社は独禁法に触れそうということで公正取引委員会から睨まれるぐらいだから、これ以上シェアを上げる気はない。そんなことよりもいかにトラヒック(注)を上げるか、いかにゲームや音楽から消費者の財布のシェアを奪うかが、我々の考えていることなのだ、ということです。要するに「そんなプランは必要ない」ということです。

 その他にも、いくつかのプランを出しましたが(まだ実現されていないので、ここには書けません)、だいたい上のような回答。すっかり私は意気消沈してしまいました。そこで、せめて少しでも収穫を、と週刊誌で読んだ「面接官にダメな理由を聞いてみる」という戦術を実行してみました。

 「うーん。よくわからないけど、まだ志望動機が甘いのでは」

 礼を言って暇乞いをする時にも、かなり私が落ち込んだと見えて励まされてしまいました。

 その後は、みなさんがご承知のとおりです。X社はライバル会社が導入した「使い放題」サービスを後追いで導入したわけですが、ここまで戦略的に考えたから導入したわけでもなく、ライバルがしたから、といった理由で採用したに過ぎません。先がどうなりますか、大変楽しみにしております。

 こんなことがあったので、絶対にX社(改めて言っておきますが仮称です)の携帯は使う気がしないのです。新規加入者数で、一位から下がったと言うことですが、お気の毒です。溜飲が下がりました。

 だから、いま就職活動をして内定が取れなくても、あまり落ちたからといって気まで落とさないでください。良さを分かってくれる人は必ずいます。ただ、その良さを分かってくれる会社に、まだ巡り会っていないだけなのですから。

(注:トラヒック)通信量。具体的には通話時間やパケット量です。現在は、このトラヒックに対して料金従量制を採用しています。つまり、トラヒックが上がれば収入も上がるのです。これが限界なのだから、その方針を変えるべき、というのが私の主張だったのですが、彼には理解できなかったのです。



2004年4月3週目 第17回 危機感
 だいぶ前のことです。東京の歌舞伎町にあるファーストフード店で友人と話していた時、突然、大きな音で火災報知機が鳴り出したことがありました。2階席だったので、万が一、階下が火事になっていた場合は逃げられないでしょう。少なくとも窓を蹴破って飛び降りなければならなくなる。飛び降りれば足を折るかもしれません。もっと怖いのは、有毒ガスがすぐに充満して、飛び降りる前に倒れることです。

 さて、皆さんならこんな場合、どう行動するでしょうか。客の中には、地震の時のように机の下に潜っておどけていた「オメデタイ」者も数人いました(例外なくカップルの男の方でありました)。煙を避けるために屈んだのなら正しいかもしれませんが、ただふざけているだけならば、冗談ではすまないでしょう。

 フロアは八割がた客が入っているので、もし有毒ガスが充満した場合は逃げる列の後部がどうなるかわかったものではないのです。私はすぐさま席を立つと階下へ降り、従業員に事の次第を問いただした。幸い手違いだったのですが、鳴り終った後、一切の説明もお詫びもありませんでした。

 「考えすぎだよ」
 と友人に言われましたが、どうでしょうか。
 その数日後、歌舞伎町のビルが火事になって数人が亡くなったというニュースを見ました。9.11やアフガン、イラクによって忘れ去られた感覚が強いとは思いますが、テロよりもむしろこういった国内的な事件のほうが、日本にいる人間の日常にとっては怖いと思います。

 「火事になったら、真っ先に従業員が飛んできて逃がしてくれる」と思う人がいたとしたら、もう少し疑うことを知る必要があります。その店に避難マニュアルがあるかどうか、従業員に訓練をしているかどうかはわからないのです。また、アルバイトの従業員が自分の生命を危険にさらしてまで知らせてくれるかどうかもわからない。まさか、と思うなら自分の職場やバイト先の防災対策を思い出してみればよいでしょう。

 もちろんアルバイトに命をかけろというわけではありません。時給何百円で命をかけろ、というのはアルバイトに酷です。ただ、自分の命は自分で守るしかない、ということなのです。そのためにはある程度の危機感をもつ必要があるでしょう。

 たしかに自分の注意だけでは防げない事も多々ありますが、怪しいものに近づかない、何かあればすぐに逃げるぐらいの心構えがなければ、国内でテロが起こったとき、または海外で何かが起こった時に真っ先にやられてしまいます。

 とは言っても、何かが起こっても、すぐに避難する人はすくないようなので、パニックを起こさずに良く見極めて対処すれば生存率も上がるでしょう。危ないところには行かない。行くのなら、最悪の事態も覚悟する。その結果に対して責任を持つ。それは、決して極地や戦地だけでなく、常日頃の生活にも言えるのではないでしょうか。



2004年4月2週目 第16回 ITの体
 以前、アメリカの某大手IT企業の社長の講演を聞く機会がありました。会長が世界一のお金持ちとして有名なあの会社です。話自体は特にどうと言うことは無かったのですが、さすがはアメリカの経営者。プレゼンテーションは飽きさせませんでした。巨体が舞台狭しと動きまわり、聴衆の呼吸を見て身振り手ぶりを交え、いかに自分たちが時代の先頭を切り開いているかを力説するのです。人をいかに引き込むかについて相当な訓練をしたのか、またはそういった人材だから社長になれたのかは知りませんが。

 それでも目新しいことも、珍しいことを彼の口から聞くことが出来なかったので、来たことを後悔していた終盤、いよいよ質問タイムに入りました。ニッポンの大学生からの質問です。それは、これからアメリカ以外の国、例えば日本に開発拠点を設けることはあるのか、というものでした。

 それまで散々、ネットによるコミュニケーションがいよいよ盛んになってくるのでビジネスチャンスは大きいと主張していた社長は、躊躇することなく「アメリカ以外の国に開発拠点を置く気はない」と答えました。

 その理由がふるっています。要約すると「私や、会長がいるところで開発した方がいい。何か問題があったり会議をするときは、お互いのオフィスにすぐ行って話したり、集まったりできるような距離に居ないと、いいものはできないんだ。やっぱり、そういったコミュニケーションにはまだITは取って代われないよ」ということです。IT業界のトップでさえも、あまりITについては信用を置いていないようです。否、ITの限界を正しく認識しているというべきでしょう。

 何かを作るときは、やはり些細なニュアンスの違いが大きな誤解を生むことになります。メールですべて連絡しようとしても、実際に会ってやりとりする情報量とメールの情報量では明らかに違うわけですから、お互いを理解するには程遠いのです。いくらインターネット経由でスムーズなテレビ電話が開発されても、同じ空間を共有したり、同じ物を飲み食いしたりするときに生まれる連帯感や、雰囲気、皮膚感覚といったものはネットに乗せられません。そして、これらが人間のコミュニケーションに占めている割合は、いま考えるよりも大きいのではないでしょうか。だからネットに繋がっている人々は(自分を含めてですが)OFF会を開くのでしょう。

 では、今後、ITが発達したらそれもなくなるのでしょうか?おそらくなくなることはありません。人間が身体を持ち、気候や時差のある地球上に住んでいる限りは。



2004年4月1週目 第15回 入学、おめでとう御座います
 今年、新たに大学へ入学された方、おめでとうございます。向学心に溢れ、有意義に大学生活を送ろうと希望に溢れている方もいるでしょう。長いこと勉強した分を取り返そうとほくそえんでいる方もいるでしょう。でも、大学といいますのは、なんと言いますか、まあそんなに過大に期待すべきものではないようです。特に期待すべきではないものの筆頭には教師が挙げられるでしょう。

 もちろん、なかには尊敬できる立派な先生もいらっしゃいます。でも、そんなひとばかりではなく、どうしようもない人間も多いようです。しかも、自分は頭がいいと思っているから、ますます始末に終えません。

 例えば、「てにをは」が意味不明で、文がねじれて支離滅裂な問題を出して恬として恥じない。しかも、その「問題」文を理解できない学生はバカだと思い込んでいたりします。

 そういうヒトの授業に限って面白くもなく、役にも立たない趣味の世界。理解されないのは自分ではなく、学生に能力がないからだと頑なに信じ、厳しくすることこそが学生の性根を入れ替えるための唯一の道だと信じているから、ますます救いようがありません。それに感化されて一部の学生が「熱心な先生だ!」と支持するものだから、ますます手がつけられなくなるのです。

 しかも、そういう人間を辞めさせられないわけです(何と良い職場なのだろう!どんな既得権益もかないっこありませんね)。自浄能力も、能力主義も、経営も、日本の大学にはないわけです。そもそも学長だって互選で選ばれているわけですから、仲間の首は絶対に切れませんし。

 だいたい、教えている学問だって、どこまで世の役に立っているのかよく分かりません。個人的には、政治学は日本の政治を良くしているとも思えないし、良くしようとしているとも思えません。経済学だって、なんでこんなに景気が悪いのかについて明確な答えを出してはくれません。財政改革なのか景気回復なのか、それぐらいシンプルな問題にも答えが出せないのに、今だに「○兆円公共投資をしたらGDPが○%上がるはず」なんてことを最初に教えるわけです。

 それなのに、「我々は科学でござい」ということが言えるのでしょうか。そう言うと、「元々世の中そんなに理論どおりには上手くいきっこないから当然」だの、「なにオレの言うとおりに任せれば大丈夫だ。オレの言うとおりにしないから悪くなるのだ」などとノタマウ御仁は掃いて捨てるほどいらっしゃるようですが、もう少し、自分の(理論・頭脳)の限界を認識した方がいいと思います。

 こんな調子ですから、良い先生と悪い先生を見極めて、良い先生からはとことん吸収してください。大学にもよると思いますが、自分の勉強したいものを勉強してください。いろんな人に会って、世の中の人間がどういうものか観察してください。ほとんどの学生にとって専攻と就職先はほとんど関係は無いのですから。これからの四年間(もしくはそれ以上)が、皆さんにとって良い時間であるように。



2004年3月4週目 第14回 さよなら、帝都高速度交通営団
 東京近辺に住んでいない人にはあまり関係の無いものですが、ことしの4月1日で、東京にある特殊法人、帝都高速度交通営団が東京地下鉄株式会社になります。なんだか味気ないですね。別に改革の目くらましだとか批判をするつもりは(ここでは)ないのですが、この大時代的なネーミングは本当に貴重でした。帝都という言葉が、もはや「サクラ大戦」や「帝都物語」ぐらいにしか登場しなくなってしまった今、現役で使われていたこの言葉が持つ稀少性は高いわけで、命名記念物と形容できるでしょう。
 また、「高速度」というのもいいですね。高速ではなく高速度。いかにも早い感じがします。そして「営団」です。この営団という言葉は、現時点ではほとんど聞いたことがありません。何のことなのでしょうか?大辞林によると「〔経営財団の意〕第二次大戦中に、国家による公共事業の管理統制のために設けられた企業形態の一。戦後、「帝都高速度交通営団(営団地下鉄)」をのぞき廃止された」とあります。
   そうなのです。帝都高速度交通営団は、そのいかめしい名前が表すように、先の大戦中に作られたものだったんですね。それが半世紀を経て、いままで残っていたわけなのです。佐渡島の朱鷺と同じぐらい貴重な団体名だったのですね。他にも書ききれないぐらい帝都高速度交通営団に対しては、子供の頃からの愛着と思い入れがありますが、このあたりでよしておきます。
 東京地下鉄株式会社のさらなる安全と利用者の利便性の向上をお祈りしています。


2004年3月3週目 第13回 ジムで運動するということ
 体を鍛える為に、昨年からジムに行くようになりました。体育会とは全く縁が無く、ひたすら文化系だったので、自分の体力があがっていく実感が心地よいです。エアロバイクを漕ぎながら本も読めて、ほんとうに一石二鳥です。ただ、体を動かしている為かあまり硬派なものは頭に入らないようで、柔らかいものが中心になります。特に、エッセイは良いですね。プロの書かれる文章を楽しみながら、運動し、かつ紺洲堂通信の肥やしにもなる(なっていればいいのですが)、一石三鳥です。

 いつも運動しながらいつも思う事があります。人間は、単純な肉体労働をしたくないから、車輪、船、列車、自動車、飛行機でモノを運び、機械化を推し進めてきたわけです。なのに、なぜまた、わざわざお金を払って体に負荷をかけに行くのか、と。随分、無駄なことなんだなと思ってしまいます。これは、結局、人間が決して身体性と、肉体の限界を超えることができないからなのです。楽に過ごそうとしても、ある程度の負荷をかけなければ身体=自分自身が損なわれてしまう。だからこそ身体をわざわざ使う機会が必要なのです。

   仕事や生活から、そういったチャンスが消され、かわりにジョギングやスポーツが必要になる。仕事上なら単なる苦役ですが、自分が選んで荷物を背負えばレクリエーションなんです。何事でもそうですが、捉え方によっては随分、同じものでも異なります。

 でも無駄です。エアロバイクをこいだときのエネルギーは、何のエネルギー問題の解決には使われず、これもまた無駄になってしまいます。どこにも進まないバイクなので、ただこぐことに意味があるわけです。ハムスターの回す車と同じわけですから。発電機能がついて、「今日は○ワット」と表示されて、ポイント還元でもあれば面白いのに、と思ってしまいます。多分、売れますから誰か作ったらいかがでしょう?究極のエコパワーだと思いますが。



2004年3月2週目 第12回 現代社会の高速化
 高校生だったとき、国語の授業で新幹線に導入された新車両のことが話題になったことがありました。今までよりも速い、世界一のスピードで移動できるようになったというニュースが流れていたわけです。でも、先生は
「そんなに早くなってどうするんでしょう。あまり早くなっても意味がないと思います」と仰いました。すかさず、私が
 「先生、でも早く目的地に着けるというのが進歩じゃないんですか」
 と問いかけると、
 「本当にそう思いますか?」
 と逆に目をしっかりと見て質問され返されました。

 スピードが速くなったおかげで海外にも早く行けることが出来るようになって便利になったわけですし、生産性だって上がるようになったわけです。その頃は進歩以外の何者でもないだろうと思っていましたが、どうもこの会話が気になって仕方がありませんでした。そして、ここ最近になって、まあそうかな、と思えることも多くなりました。

   早く移動する必要があるには便利でしょうけど、その10分20分を節約する為に、どれだけの資源が費やされているのか、と考えるとどうも単純にスピードが進歩だと限らないのではないか。「時は金なり」とは申しますが、全体としてみれば本当に、そんなに早く着くことが良いのかどうかは少し怪しいかもしれません。

 そういえば、宅配便も、ほとんどの人が翌日に配達されなくても大して困らないらしいですね。ただし、業界内の競争の結果として早く宅配できるシステムを構築してしまった為、「配達が遅いけど料金が安い」という料金は逆に手間がかかって設定できないそうです。

 確かに、早くなることは便利ですし良いことでしょうが、もしかすると現代社会は不必要なところまで次々と高速化することによって、逆に人間疎外を起こしてしまっているのかもしれません。別に、新幹線が高速化して食堂車がなくなり、列車の旅に風情が無くなったこととだけではなくって、いろいろなことで高速化についていける人といけない人が二極化されてしまう(デジタルディバイドなど)ことがどんどん起きることが問題なんだと思うのです。

 ついて来られない人は、「適応不可」の烙印を押して淘汰していくだけでいいのでしょうか?それなら「野生の王国」と変わらないでしょう。いまついていける人だって、明日の変化にもついていける保証はどこにも無いわけです。結果的には、みんなついていかざるを得ないのでしょうが、これからもっと高速化が進んで、人間自身が高速化についていけなくなったらどうなるのでしょうか。人間には肉体的にも物理的にも限界があるわけですが、その時はサイボーグ化して脳と肉体を強化することで乗り切るのでしょうか?

 卒業してから数年後、先生と食事をした際にこの高校時代のやりとりの話をしたところ、
 「そんなことを言ったかな。でも、高校生には少し難しかったかもね」
 と笑っていらっしゃいましたが、逆に高校の時に話してもらって一番良かったんだと、今では思います。



2004年3月1週目 第11回 禁煙設備について考える
 先週は、キチンとルールを守っているのも関わらず、全体としてみれば基本目的に合っていないために迷惑になってしまうケースがあるというところで終わりました。

 この身近な例が、喫煙席と禁煙席だと思います。このサイトの管理人であるboominはタバコが大嫌いです。過去、喫煙に関する話題がBBSに出た時も「100害あって1利なし」(百害あって一利なし、に算用数字を使ったケースをはじめて見ました。さすが理系だと思います)と論陣を張っていました。喫煙者の立場からすると「分煙になっていればいいのだろう」と思われるかもしれませんが、残念ながらそうとも言い切れないようです。

 喫煙席と禁煙席の間にスペースや仕切りがあれば、みんなハッピーなわけです。ところが、申し訳程度に植木が置いてあったり、ないよりまし程度の空気清浄機を置いてお茶を濁していたりする例を多々見かけます。もっとずぼらなケースだと、灰皿が置いていないだけ、または通路を挟んだだけといった何も仕切りがない店も多いようです。

 きちんとスペースを取っている店でも画竜点睛を欠いていることもあります。禁煙席が店の奥にある場合ですね。嫌煙家が席に行こうとすると通路で煙を吸わされてしまうわけです。店の奥のほうが敬っている客である、ということなのかもしれませんが、通路が喫煙席と分断されていない場合はとんだ迷惑になります。

 俗に言う「シアトル系カフェ」チェーンはコーヒーの香りを大切にしたい、という文句を掲げて、タバコの煙が店内に充満しないように気を配っているようですが、店によって考え方は異なっているようです。

 Sの場合、店内は完全禁煙です。店内は。ところが、入り口にオープンエアスペースを設けて、灰皿を置いているわけです。当然、皆さんタバコを吸うわけですから、嫌煙家が入り口に立つと、紫煙の洗礼を受けるわけです。タバコのにおいはコーヒーには付かないかもしれませんが、嫌煙家の顧客満足度は低くなってしまいます。

 もう一方のTは完全に店内分煙を行っています。すなわち、喫煙席は店の奥に、透明なガラスで仕切られた上に空調によって煙を勢いよく吸い上げているわけです。喫煙席に場所をとっているわけですから、店内でくつろげる非喫煙者はSに比べると少なくならざるを得ない。しかも、設備にもお金がかかる上に、どちらかのスペースが空いていても、自分の嗜好に合わなければ座ることが出来ません。

 この場合、コーヒーの味などは別にして店内禁煙に対する考え方だけで言うならば、建前を推し進めて本来の目的を損ねているSよりも、タバコのことを認めて共存関係を築こうとしているTの方がより顧客満足は高そうです。

 このようにルールさえ守っていれば、基本目的を達成できるとは限らないというところが難しいわけです。ルールが間違っているのかもしれないし、有名無実化しているのかもしれない。まあ看板が正確に書かれてあっても、内実が異なっていることは往々にしてあることなんですけど。

 極論すると、不完全な喫煙スペースでタバコを吸っている人は「おれはルールを守っているからいいんだ」と煙の行方については一切関知しないで分煙を守っていると大きな顔ができるのだろうか、と思ってしまうわけです。もちろん、店に責任があるわけですし、嫌なら他所に行けば済むわけですけど、それなのに「マナーを守っている」という態度を取られても、ちょっと当惑してしまうわけです。

 このようなわけで、禁煙スペースを設ける店の人は、よく注意した方がいいでしょう。店に来る人間が全員快適でハッピーなら、売り上げも伸びるわけですから。



2004年2月5週目 第10回 都市の他人
 先週は、ヒトを注意するときの基準について私見を述べました(カラムなんてものは、私見を述べるためのものなのですけど)。
 このような街中で傍若無人な行為が蔓延しているのは、ひとえに、都会(主に東京)での他人が舞台の「書き割り」に過ぎないからではないか、と思うのです。舞台などで、背景に群集のシーンが板に描かれていたりするあれのことですね。自分を主人公、知っている人を共演者や脇役とするならば、他人はせりふの無い「エキストラ」、同じ事しか言わないRPGの住人(マニュアル化されたチェーン店の店員は、まさにそう捉えられているでしょう)、もしくは書き割りと認識するのは自然なことだと思います。そこには関係性が希薄ですから。
 初めて外国を訪れたとき、私はその関係性の希薄さからか、周囲の光景に対してまるで実感を持てなかったことを覚えています。海外に出ると周りにいるすべての人が外国人(当たり前ですが)で、町並みも自分が体験してきたものとは全く異質(これも当たり前)であるわけです。でも見たことが無いわけではない。そう、テレビや映画では良く見る光景なわけです。そうなると、まるで自分自身が映像世界の中に入り込んでいるような感覚、もっと言えば映画の観客のような「完全な傍観者」として自分が存在しているような気がしてくるのです。そうなると、何をしても実感がわきません。
 ところが、慣れてくると事情が変わります。物を食べたり買ったり、あるいは言葉に慣れてきて現地の人とコミュニケーションを取れるようになると、「完全な傍観者」では済まされなくなります。自分がサファリパークで車から外へ出されたことを肌で感じるようになるわけです。映画で銃撃戦が起こっても、弾は客席までは飛んできません。もし、それが目の前で起こっていたら「実感がわかない」では流れ弾に当たってしまいます。もちろん、こういった体験は、まったく違う環境にカルチャーショックを受け、感覚が麻痺していただけなのかもしれませんが、人との関係から捉えれば、他人を認識することが、どれだけ自分の感覚にとっても重要かがわかるでしょう。
 また、「旅の恥はかきすて」と申しますが、これは旅先の人間との関係が一過性のものであるから「かきすて」られるのでしょう。一過性の関係というならば、都会の他人同士は、日常的に一過性であります。何かしらの関係が迷惑行為をする人と、その周囲の人々の間にない限りは、傍若無人な振る舞いは止まないと思います。もしかすると過去には「同じ共同体に属している」といった感覚があったのかもしれませんが、そういったものは都会において本当に珍しくなりました。  私が子供を注意した時、なぜすぐにおとなしくなったか。あるいは、「近頃の若い者はなっていないが、注意すると素直に聞き入れる」と言われるのはなぜか。ここにも関係性が絡んでくるように思います。
 つまり、言葉を発する以前の周囲の人々は書き割りなわけです。特に意味を持たない存在なのですが、その中の一人が、自分に向かって声をかけることによって「私」と「あなた(もしくは知らない人)」という認識が生まれるわけです。エキストラから端役に格上げです。こうなると、いままで周囲を無視していたのとは意味が異なります。友達や顔見知りから注意されたのと同じ効力が発生するのではないでしょうか。別に素直だから、言って分かるから行いを正したのではなく、単に「書き割り以外の、人間が居たから」直したのに過ぎないと思いますが、どうでしょうか。
 まあ、中には、キチンとルールを守っているのも関わらず、全体としてみれば基本目的に合っていないために迷惑になってしまうケースもあるわけですけど。以下、次週。


2004年2月4週目 第9回 注意に関する基準
 前回は、劇場で子供を注意した話をしました。
 でも、他人を注意するのは難しいですよね。どれぐらいから叱ってよい範囲なのかが分かりづらいですね。現代日本のコンセンサスとして、「このレベルから上、もしくはこういった行為をしている人は注意すべきだ」というのがありません。おそらく、昔はそのあたりの躾に対する考え方という一般常識があったのでしょう。だから叱る人も多く、反撃・反論もされなかったのだと思います。最近は、叱らない人が増えてきたといいますが、そういった理由もあるはずです。
 そうは言ってもやたらに人を叱るのも良くないと思います。都会に生活している限り、必ず何かしらの迷惑はかけている訳ですから、お互い様と思って寛容に接する方がいいと思いますが、然るべきときは注意すべきでしょう。ただし、お互い見ず知らずなのですから礼儀をわきまえ、マナーに沿って注意をしたいものです。特に、逆恨みされて反撃されても、周囲の人間や警察は守ってくれません(それが一番の問題なのですが)から、言うまでも無く相手を見ることは必須条件です。その上で私は、以下の条件に当てはまる場合は注意するようにしています。
@明らかに自分が害を被っているか
 あなたに言われる筋合いが無い、と反論されません。たとえば、隣に座っている、口紅を塗っている(塗るだけ資源を浪費していると断言できる)女性が居たとします。目障りですが、注意しづらい。目障り、審美的に公害である、ということでしたら、その女性の存在を全否定せねばなりません(誰にもそんな権利はありません)し、マナーには違反しておりますが、被害は主張できません。
 しかし、その女性がマニキュアをしだしたら話は別です。マニキュアの溶剤の匂いは、十分に異臭として認知されると思います。直接的な被害を受けているので、外でやってくれと言うに必要十分でしょう。関係ないでしょ、と言われたとしてもすぐに反論できます。  そもそもマナーとは、見ず知らずの人間が気持ちよく過ごすためのルールなわけですから、彼女たちの行動は「アナタの快適さなんでどうでもいいんですよ。私さえよければ」と周りに宣言しているわけです。大変失礼な話ですが、「良き市民」である我々が同じ次元に降りる必要はありません。相手は判断能力の備わっていない「ヒト」なわけですから、丁寧に、なるべく平易な語彙を使用して気づかせてあげたいものです。
A他に逃げ場は無いか
 野外の場合、いくらでも退避する場所があります。もし、タバコが嫌いなのに公園で近くに座った人が一服し始めたとします。敷地内が禁煙であったら注意もできますが、そうではないなら、どちらかが席を移動する必要があります。「すみません。タバコの煙が苦手なので他所に行ってください」と言ってもいいのですけど、ほかにも席がある場合は、私が移動します。注意したところで、いやな顔をされるのがイヤですから。消極的ですけど。
 でも、他に空きが無い場合は違います。堂々と「タバコを吸わないでください」と主張します。他に移動しようが無いですからね。「お前がどこか行けばいいだろう」といわれても「どこも空いてないじゃないですか。他に選択肢は無いんです」と言えます。
 マナー違反から逃げ場所がない、といえば電車の中もそうです。ガラガラに空いている場合は、他の席に移るという選択肢もありますけど、そこそこ乗客がいる場合はできません。そういった場合は注意しやすいでしょう。
B継続しているか
 一過性のものなら我慢は出来ます。例えば、電車の中で携帯の着信音が鳴ったとします。この場合は不注意ですから、誰にでもありうるでしょう。ですが、その着信に出て、話し続けるなら別だと思います。誰にでも、緊急のときがありますから、出なければならない電話もあります。やむをえない場合でも、小声で話すなどの配慮が必要です。それでも大きな声でたわいの無い話を続けるような場合は注意に値する行為と見なしてよいと思います。
 とはいっても、これらの3か条に適合するヒトに限って、注意したらこちらがとんでもない目に合わされるかもしれない、と思わせられるケースが多いのですよね。じゃあどうするんだ、という話になるのですが、あくまでも丁寧に、威圧感を与えながら対応したいものです。

 こういった傍若無人な行為が蔓延しているのも、ひとえに、都会での他人は、舞台の「書き割り」に過ぎないからでしょう。以下、次週。



2004年2月3週目 第8回 紺洲、子供を一喝す
 先日、新国立劇場でオペラを見てきました。午後6時半からの開演だったのですが、ふと後ろを見ると、年端のいかぬ少年が座っておりました。早い時間に開演するバレエには、やはり習っているのでしょう、小さい子が結構見に来ております。静かに、いい子で見ているので、今回の少年も、こんな年なのにオペラに興味があるのか、と思って席に着きましたが、コレがいけなかった。

 やはり、幕が上がってから10分ほど経つとしびれを切らし、すこしずつしゃべりだしてしまったのです。これが衣装のきらびやかな演出だったり、キレイなアリアが入っていたりすれば興味を引き続けることもできるでしょうが、演目は現代日本オペラです。隣に座った母親にあれはなんだ、これはなんだと質問攻め。飽きたのか、関係の無いことを口走り、いつ終わるのかと完全に少年は持て余し気味なのであります。
 こちらとしましても、他の観客がいらっしゃる中で声をあげるのははばかられたので、後ろを振り返りにらむわけですが、少年の方は「前のヒトがにらむ」と母親に耳打ちする始末。これで静かになればよいと思って捨て置きますと、また話しだします。また、母親も暗闇の中、なにかの紙をくしゃくしゃかき回す耳障りな音を立て、子供に自ら解説を入れ、挙句の果てには咳き込む始末。咳き込むだけなら仕方がないです。が咳は激しさを増し、カバンからのど飴を取り出す音。

 ところが、それを見た(であろう)少年は、見逃すはずがありません。舞台上で繰り広げられる絵空事よりも、もっと興味を引く事件がおきたと見え、しきりに母親に向かって「ねえ、何のあじ?」を連発するわけでございます。

 ここで、さすがに仏の紺洲堂も堪忍袋の緒が切れました。

「何の味でも関係ないだろッ!」
 と後ろを向いて一喝。さすがにガキは5分ほど黙りました。

 休憩時間になると、そそくさと親子は出て行きます。自分だけが神経質だったのか、周りのお客さんにも聞いたところ、やはり皆さんうるさかったので「言ってくれて有難う」と言います。また、ある紳士は、「こんなところに子供をつれてきたら騒ぐのは当たり前、仕方がない」と諦めて、(舞台がつまらなかっただけかもしれませんが)帰ってしまわれました。
 自分もうるさいと思うんだったら、注意しろ、と思うわけです。これでも私は若い部類に入るわけですから、やはり年長者から言った方が良いと思いますが、しないんですね。怒っても、アクションは全く起こさないわけで、だから政治も良くならないんだッ、と今度は周りのオトナどもにも腹が立ってきたわけであります。

 で、休憩も終わり、後半が始まる前に、うしろの親子連れを注意することにしたわけでございます。
「すみません」
 と声をかけると、なにかのチラシのようなものを必死で読んでいた、バカな犬のような顔の母親が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、キョトンとしております。
「上演中は静かにしてください」
 と告げると、
「は、はい・・・・」
 と、あたかも不可抗力だったような意外そうな顔をします。普通、
「すみませんでした。静かにさせます」などの謝罪の言葉が出てしかるべきでしょうが、何も無かったわけです。ここで、私も説教する予定でしたが止めました。アホに何を言っても無駄です。こっちが悪者にされるのがオチでございましょう。こんなオバハンの子供でありますから、この親にしてこの子ありです。で、子供に対して
「話したかったら外へ。それか終わった後で」
 と目を見据えて言ってやると
「はい・・・・・」
 と言って目を逸らします。これで後半も騒ぐようだったら、本当に終演後に説教+お詫びに何がしかを出してもらっていたところですが、さすがにガキもオバハンも黙っておりました。

 子供にオペラは早いですね。今度から、近くに子供を見つけたら、始まる前に釘をさしておこうと思います。(あるいは係員に通報します)みなさんも、そんなガキとオバハンを劇場や映画館などで見たら、日本の将来の為を思って叱りましょう。思い切って叱りましょう。言ってあげないと分からないんですよ。センサーが鈍っているので。



2004年2月2週目 第7回 識字率について
 早くも目標の一つであった「月一回の小説発表」が破綻してしまいました。謹んでお詫び申し上げます。いえ、別に遊んでいたわけではないんですよ。言い訳がましいのですが、他の企画の原稿を書いていたんです。発表されるはずですが、いつになるかは分かりません。そんなこんなだったので、これからは、何にもまして紺洲堂書店に心血を注ぐ所存であります。

 では、できるだけ通信です。

 このところ、日本人の知的レベル、いわゆる学力低下が叫ばれております。小学校の円周率が約3になったとか(間違いではないですけどね。でも、そのうち四捨五入されなければいいのですが)、分数の割り算が出来ない大学生とか(きっと最近は、3分の2のメロンを4分の3人で分ける、といった経験が無いからでしょう)まあいろいろありますけど、もうそんなレベルではないところまで学力が落ちていると思うんです。
 具体的に言うと、「字が読めない」人が増えています。漢字が、ではなくひらがなも。別に、幼児でも外国人でもありませんよ。日本人とおぼしき若者で御座います。これには弱りました。文部科学省はいったい何をやっているのでしょう!
 そもそも、日本は昔から識字率が高かったようです。時代劇に出てくるような寺子屋で、ほとんどの人は読み書きそろばんができるようになっていたといいますし、維新後にいち早く整えた義務教育のおかげで近代化も成し遂げられたわけです。今日の国際的な競争力を得られたのも、まさしく国民の知的レベルが高かったためです。現在の識字率は99%以上ということですが・・・・・・・どうでしょうか。ひそかに読めない人は増えていると思われます。
 というのも、先日、電車に乗っていたところ、「優先席付近では携帯電話を切ってください」と書いてあるシルバーシートにふんぞり返って携帯電話をいじくっているヒトを発見いたしまして。これぐらいの簡単なニホンゴも読めないんですねぇ。そういえば、ひたすら画面を見てボタンを押しておりましたが、きっとゲームでもしていたんでしょう。メールは・・・・読めないでしょうから。



2004年2月1週目 第6回 モノと情報A
 先週は、CDやDVDなどのメディアは「モノ」と「情報」という二つの側面を持ち、現在では主に情報面を重視する方向へ向かっているのではないか、という話でした。
 で、今回は日本で発達していると思われるアプローチです。まあ、このページを見てくださっている皆さんにとっては自明の理とは思いますが。「モノ」面を伸ばす、ということです。前回、デジタルメディアを買うという事は、究極的に01データを買うという事で、円形プラスチック板にはお金を払わないとしましたが、逆に、プラスチックに価値を見出す人は少なくないですね。
 例えば、「ファングッズ」としてCDを見た場合、もしダウンロード販売で楽曲を買えたとしても、好きなアーティストのジャケットのついたCDは買ってくれる可能性が高いでしょう。CD屋に行きますと、「初回限定ジャケット」や限定グッズプレゼントといったキャンペーンを見かけますが、これはCDの「モノ」面に着目しているからなんですね。「モノ」としての実体を買うことが、ファンの愛情表現の一つですから。

 でも、そこまで単純ではありません。仮に、10人の顧客から1万と、100人から千円ずつ売り上げたとします。どちらも10万円の売り上げですが質的に異なると思われます。
 ひとりにCDを10枚買ってもらおうとすると、ジャケットの違うバージョンを10種類作るか、限定グッズをプレゼントするなど、一種の「エサ」で釣る必要があります。そればかりするとお金を使いすぎたファンが疲弊し、熱意が冷める(愛がさめる)のも早くなってしまうかもしれません。繋ぎとめようとすると、ファンサービスも密にしなければならないでしょう(あまり安売りするとインフレを起こしますが)。
 そう毎回、CDを売るためにえげつないことはできないので、売り上げを増やそうとしてグッズを販売する手もありますが、100人に千円ずつ売るよりも多品種少量生産に陥るため、利幅が比較的低くなる上、在庫の調整がむずかしくなってしまいます。要は、大量に同じ商品を生産してさばく方法と比べると、非効率なんですね。

 とは言っても、モノが売れないこの時代、一人一人のニーズも価値観も異なってきています。隣の人にとっては無価値のゴミでも、自分にとっては宝物。テレビ番組で、奥さんが「ゴミ」としか認識しないソフトビニールの人形が数万円と鑑定されるシーンがありますが、まさしくああいった状況がそこかしこに起きているわけです。効率的でも売れない、よりはいいのです。

 経済学の概念で「限界効用逓減の法則」というのがあります。単純に言うと「のどが渇いているときのビールは最初が美味く、次々飲むにしたがって一杯ごとのうれしさは減っていく」ということです。この法則に従うなら、CDを含めたグッズの購入(アニメでもアイドルでもいいですが)は、数が出るにしたがって、ファンの熱意が冷めるはずです。しかし、現実にはそうではありませんよね。このあたりに日本の「おたく」的な消費の面白さがあると思います。免税店でブランドバッグを買いあさる若い女性も、コミケで同人誌を手に抱えた男性も、「法則」を無視している点では同じなのです。
 ということで、仮にダウンロードが主になったとしても、コレクターズアイテムとしてシンボル的な意味においてCDやDVDは生き残り、売られ続けると思います。(再生機がなくならない限りは)この「モノ」的なアプローチが洗練・高度化されているのは、ひとえに買ってくれる顧客層が国内で発達しているからです。コレクターはどの国にもいますが、こういった層は他の国にはなかなか無いと思います。
 アニメやマンガの輸出状況を見ると潜在的には各国にこうした層は醸成されているのかもしれません。近い将来、発達した「モノ」的アプローチは、海外に輸出され、利用されるようになっていくと思いますが・・・・・どうでしょうか。



2004年1月5週目 第5回 モノと情報
 よく言われることですがここ数年、CDの売り上げが落ちています。日本レコード協会のホームページによると金額ベースで98年には約5800億円だった生産金額が、02年には約3200億円へと一貫して下がり続けています。ゲームソフトの売り上げも2001年と2002年を比べると下がっています。私たちの実感としても、あまりCDやゲームソフトを買わなくなってしまいました。携帯電話などに使えるお金のシェアを取られている、収入が少なくなった、などの理由も考えられますが、最近では違法コピー問題が喧しいですね。国際レコード産業連盟によると、昨年の時点で、中国のCDの9割が海賊版で5億米ドル以上もの損害が出ているらしいです。

随分前に、この違法コピー問題を新聞で読んだとき「アーティストは、CDではなくライブを中心に活動するしかない」と、どこかの大学のセンセが言っておられましたが、これも随分乱暴な話です。

印刷技術が発明されてから、同じ情報を大量に複製することができるようになりました。そして、音楽も同様に複製されるようになり、大量に売ることによって、今の音楽産業は成り立っているし、一攫千金が出来るわけです。ところがライブ中心では、一回のライブに来られるお客は限られています。一日に何回も演奏すればアーティストを酷使することになりますし、そうそう足を運べる人ばかりではありません。録音された音楽を完全なプロモーションにして、ライブを主な収入源にするのは至難の技でしょう。
しかも、あったであろう著作権収入をカバーするために、もしライブしか選択肢が無いなら、一枚のチケットが高額になり、そうなるとお客が来なくなり・・・・となってしまうかもしれません。もちろん、アイドルのように他のグッズ売り上げでカバーする、という手もありますが、これは全員が出来るとは思えないですよねえ。

 では、この状況をどう解決すればいいでしょうか。
 CDには「情報」と「モノ」という二つの側面があります。ひとつは、この「情報」の面に注目するアプローチがあげられます。
 私たちがこれらのメディアのいったい何にお金を払っているかというと、0と1で記録されたデータに他なりません。プラスチック板を買うためにお金を出しているのではないのは、皆さんのご存知の通りです。ならば、初めからデータだけを売ることにすれば安く売れるので違法コピーと張り合える競争力をもてる、ということです。アメリカの音楽ダウンロードによるCD店の閉店など、すでに動きは始まっています。
 しかし、どんなに優秀なガードをかけても、破られるのは時間の問題です。いくらでも簡単な解除ツールや違法な器具がすぐに現れてしまう。新しいハードで解決できないことは、DVDの違法コピーが氾濫していることが証明しています。

 これは、人間とウイルスの関係に似ていますね。ウイルスのように短期間で遺伝子が変化してしまえば、人間の防御機構が変わる前に感染を拡大させることが出来ます。いくら新しい仕組みを導入しようとしてもいたちごっこになりますし、そもそも防止のためにコストがかかりすぎるでしょう。


 これらを克服するには
@ お金を出してくれた顧客の優遇してくれること
いまのコピーガードCDなどの試みは、金を出してくれた「正直な顧客」にパソコンで聞けない、などの不利を負わせています。将来的にダウンロード型の販売に変化するにしても、「お金を出して音楽聴くのが当然だ」という態度ではなく「お金を出して聞いてくれて(応援してくれて)本当に有難う」という態度が顧客から見えないと。いや、アーティスト本人がいうんじゃなくって(言うに越したことはないけど)、仕組みとして、ビジネスとして明確にメッセージとして伝わる必要があると思います。
 たとえば、CD店で買うときには店員さんのサービスや接客態度によってこの店で買おうと決める場合があるでしょう。ネットでのダウンロードでは、この店員さんの接客に代わるプラスアルファが必要でしょう。正直な顧客まで、違法コピー予備軍とみなすのは・・・。
A 取締りを強化する
  違法コピーした人間を取り締まる。これは、どんなに技術が発達しても、人間がしなければいけない仕事です。
B 専用の端末と器具をつかって、すべての情報の流れを管理する。
怪しいデータがあれば、違法使用ということで警察に通報します。ダウンロードの契約は、すべてカードや、身元の確認ができるものでやっておけば、誰が違法使用したかがわかります。個人情報について大きな問題がありますけど。でも、これは、将来的には携帯電話でポピュラーになるかもしれません。携帯電話から他へコピーは難しいですからね。部屋のオーディオで大きく聞きたいという人もいるでしょうから、携帯電話ではない、音楽ダウンロードの専用端末はどっちみち開発されるだろうけど。

 こうなってくると、CD屋は潰れてしまいます。いろんなジャケットを見て買うのが楽しみだったんですけどねぇ。しかも、前回の本の場合と異なり、CD店で試聴できるものは限られています。聞いてから買う、というのであれば、ネットの試聴サイトが有利であるので、本屋より難しい立場です。

 ですが、これとは違った、日本でより発達しているアプローチがあります。
以下次週。



2004年1月4週目 第4回 本屋の楽しみ方
 買うべきか 買わざるべきかそれが問題なのである。高度資本主義社会の最先端にいる我々には、買えるか 買えないか、ではないのだ。

 などと大上段に構えてみましたが、今回も本の話です。
 本との出会いは、次があるかどうかがわかりません。ちょっと面白そうな本でも、また今度と思ってしまうと、次の日には棚から消えていたりします。もちろん、店かネットで注文してもらえればいつでも買うことは出来ますが、そこまでして読みたかったものか。本当に面白い本なら、見つけたときに無理しても買っているでしょう。買い損ねて悔やむぐらいなら、そこまでして読みたくなかったんだな、と忘れるのが上策です。なんせ、情報化社会では有益な情報も移り変わります。とても一人ですべてを読みきることは出来ませんからね。

 人には、その時求めているものが、向こうからやってくることがあります。向こうからやってきたように見ても、実は自分がアンテナを張っていたから網に掛かってきただけかもしれませんが、やってきた時には、ゼッタイに離してはいけません。一期一会です。

 そんなこんなで本屋に行きますが、店内をまわるときの面白さは、自分と関係の無い分野の本が目に飛び込んでくることにあります。図書館でも同じですけど、図書館の場合は、最新の本がすぐに入っているわけでもないですし、何がそのときに売れているかがよく分かりません。やはり、いろいろな分野の棚やポップを眺め、立ち読みしながら、面白そうな本を物色するのが醍醐味です。

 たとえ同じチェーン店でも客層によって品揃えは異なります。サラリーマンが多ければビジネス書とハウツー本、子供が多ければマンガ本や参考書、近くに文化施設があればアート系、と店の特性を把握し、できれば何軒かまわってみると視野が広がると思います。何かしら自分の考えていたことのヒントになりそうなものが転がっているかもしれません。

 また、本屋では図書館には置かれていない類の雑誌は絶えずチェックしておくべきでしょう。雑誌は、本とは比べ物にならないぐらい後日になると手に入りません。面白そうな企画があれば買ってみたほうが、後で役に立ちます。

 買うと決めたら、必ず「きれいな」物を買います。小市民的なのですが、2〜3冊下から引き出し、汚れていないかパラパラめくってみます。これでOKならレジに行くだけ。金券屋で買っておいた図書券で払いましょう。2〜3%は得です。新刊でも、古本屋に行けば安く売っている場合もありますから、適宜利用します。アナタも本屋ライフをエンジョイしませんか?言われなくったって、もうしているよ、という方には何も言いません。ごめんなさい。



2004年1月3週目 第3回 本買いますか?
 去年の末に、家をプチリフォームしました。といっても、いまトレンドの「日の差さない窓を大胆に開放」とか「家族の団欒を阻む壁を破壊」といった大掛かりなものではなくって、ただ壁に本棚をはめ込んでもらっただけです。壁を開けてみると、当たり前のことですが配線や柱があっちこっちに出てくるわけで、建てるときに作ってしまえば簡単なのですが、後から付け加えるのは難しいんですね。でも大きいのが計4個、完成してみれば元からあったようにしっくり壁になじんでいます。
 これがすこぶる具合がよく、うずたかく積まれて、読みたいときは発掘するしかなかった文庫本がだいぶ片付きました。 そんな状態になったのも、やはり私が「気に入った本は買う」ことにしているからです。出版不況であることと、ちゃんとした本を出してくれた人達に対する敬意、という側面もあるのですが、買ったほうがいいことはたくさんあります。
@   返す必要が無い
 図書館から借りたものは、期間内に読まないといけませんが、借りた直後に読む気がなくなってしまうかもしれない。でも、自分の本なら、読みたいときに読むので頭に入りやすいです。借りっぱなしで催促が来ることもありません。

A   汚しても文句を言われない
 線を引いても、紙を挟んでおいても、くしゃくしゃになっても誰からも文句を言われません。実際、面白いと思った箇所があって線を引くときなど、自分のものなら心おきなく蛍光ペンを使えます。雨に降られても、落としても、自分が凹むだけで第三者には全く迷惑はかかりません。

B   すぐに思い出せる
 目に付く本棚に置いてあると、内容がすぐに思い出せます。あるいは、読んだ本の内容を使いたいときなどは、すぐに参照できます。自分が読んだ本というのは、どこかしら自分の思考や知識に影響を与えているわけですから、あとで読み返してもう一度内容を味わいたいとき、記憶を確かめたいときにすぐ原典を見られます。

 本はなるべく、店頭で読んでから買うことにしています。これは、いくらネット書店が繁盛しても現実の書店にかなわない点です。中身をよく読まないで買った本というのは、大抵、後になると読まなくなってしまいます。面白くないからです。あるいは、期待していた内容と違っているかもしれません。文体が気に入らないこともあるでしょう。なに、その本を読まなくっても世の中には有益な書籍は多数あります。自分が生きている間には全部読めません。ならば、難に目をつぶって全部読むよりも、他を読んだ方がいいでしょうね。まあ、買っていれば、いつか気が変わったり自分が変わったりして、何か感じるときが来るかもしれないところもまた、本の面白さだと思います。



2004年1月2週目 第2回 ヒゲ正月
 去年の暮れから、ヒゲを剃らないでおいた。特に理由は無い。当然の事ながら伸びてくるので、無精ヒゲになった。まあ、こんなことは長期休暇にならないと、あんまり出来ないことなのだが、鏡を見て思った。
 もし、私がこれから数十年、「正月にはヒゲを剃らない」としたらどうなるだろうか。正月に写す写真はみんなヒゲのある顔なので、ひとつのアルバムにしておけば「紺洲堂にはヒゲがある」と見た人に思われるに違いない。また、正月にしか会わない親戚なども、やはりそう思うだろう。例えば、お年玉をいつもあげている子供がいるとしたら「お年玉をくれるヒゲのおじさん」とキャラ設定されてしまう。となると、別の機会(冠婚葬祭など)で会ったときに、その子供はおじさんにヒゲが無いことにショックを受けるに違いない。
 似たようなことは、前にもあった。私が盆暮れには祖父母の家に帰省していた時、毎回、従兄弟たちよりも一足先に家にいるものだから、幼い彼らは私がその家に住んでいると思い込んでいたという。たまたま、ある年、彼らの方が先に到着した。家中を探し回ったが、もちろん私を発見することは出来ない。祖母に聞いてようやく「真実」を知り、驚いたという。
 こんなことを思い出していると、昔、教科書でみた風刺絵が頭に浮かんでくる。人類学者が「未開」の地に調査に来るのを見た「原住民」が、文明の利器をことごとく物置に隠しているのだ。随分、人を食った絵だと思ったがナルホド、「私たちが見ている光景だって、たとえ現地にいたとしてもホントなのかはわからないんだよ」と「学者の調査なんてこの程度のものだよ」という二つの表現が入っていて、今でも印象に強く残っている上に、実感することが多い。

まあ、とりあえず、この小さなドッキリを続けるかどうか、もうしばらく考えてみようかな。



2004年1月1週目 第1回 新年のご挨拶
 みなさん、明けましておめでとう御座います。今年も、わがCONS@WORLDをよろしく お願いいたします。ホームページ開設から約4年を経て、2003年の10月24日には10万ヒットの 大台を超えることが出来ました。これもひとえに、皆さんがBMSをダウンロードしに 来てくださったおかげです。これからも、本ページを贔屓にしてやってください。
 さて、メインコンテンツのBMSですが、管理人兼製作者であるboominが多忙ということで 近い将来は新作を出すことが出来ません。その上に絵を描いてくれる予定であった P-alphaがプロになったことで彼自身のページも満足に更新できないぐらい忙しくなってしまい、 実質的には私しか新しいコンテンツを作れなくなってしまいました。
 そこで、一念発起した私は今年、週に一回の紺洲堂通信の更新と月に一回の紺洲堂書店更新を 抱負にしたいと思います。自慢ではありませんが、小さい頃から目標を立てることにかけては 私の右に出るものはいません。毎年、何かに影響されては「今年中に仏検2級を取る」や 「夏休みの宿題を初日に終わらせて、あとは遊びまくる」とか、「早寝早起きを敢行する」と立て、 ことごとく部分的な成功を収めてまいりました。かのイチロー選手の打率よりも高い確率で 待ち合わせに遅れる私の言うことです。どこまで続くか楽しみにしておいてください。
 なお、いままでの記念ヒットエッセイも、改定して「別冊 紺洲堂通信」とする予定です。

2004年 元旦
紺洲堂主人