2010年01月17日 133回 嘘から出た真?
 昨年(2009年)に読んだ記事で面白かったのが、この記事。

「1株100個:高品質トマトを砂漠で栽培する技術、双日がUAEで展開」

 なんです。砂漠でトマト工場の建設を、日本の商社が行うって・・・・。

 私が2004年に書いた「工場の月」という短編小説と全く同じ構図なんですよね。よく同じことを考えて実行に移した商社マンがいたなあ、とちょっと感動しております。実は、この小説を書いたときに念頭に置いていた設定がいくつかあります。

 まず、砂漠地帯である中東地方では、石油が必要とされない時代には、大規模な砂漠を抱えてしまっていて大変だろう、ということ。でも日光がふんだんに取り入れられること。パイプラインが張り巡らされていること。アジア(特にインド)、ヨーロッパ、アフリカが市場として近いこと。海水の淡水化技術に関心が高いであろうこと。以上の点から内陸部の砂漠地帯に植物工場が求められるのではないか、という仮説を立てていたんですね。そこから、人間の限界とはなんだろう・・・ということを考えてラストシーンを入れてみました(まだ読んでいない方は、ぜひ「紺洲堂書店」から読んでみてください)。

 一応、設定は2065年となっているので、なるべく現実に遅れないように、ぼちぼち再開しようとは思っておりますので、引き続きよろしくお願いいたします!



2010年01月11日 第132回 今さらですが「国立サブカルチャーミュージアム」2
 さて、新年の勢いに乗って、続けて第2回も書いてしまいました。私案「国立サブカルチャーミュージアム」です。前回ではミッションとして以下の3つを掲げました。

1. 短期では日本の新しい観光名所となるような施設を作り、国内外の観光客を集める。
2. 中期には日本国内のコンテンツ産業の振興及び海外への積極的な輸出拠点とする。
3.長期には、失われやすいサブカル系の資料を収集・保存し、研究を進める。

 日本の新しい観光名所となるような施設を作り、国内外の観光客を集める、という目標を達成するには、ただ漫然とモノを集めるだけではダメでしょう。魅力的な企画展があってこそ、様々な人がそれをキッカケにして集まってくるのですから。

 では、どんな企画を立てればいいのか。東京都現代美術館が日本テレビやジブリと組んで様々なアニメ関連の展覧会を成功させていますが、まさにそれがひとつの「成功例」と言えるのではないでしょうか。まず、

1. すべての企画に対してマスコミとのタイアップをつける。
マスコミの集客力は凄いですからね。現状でも、各種美術展は新聞社やテレビ局が関係している事がほとんどなので、いっそうタイアップを深めるのは悪い話ではないと思います。

2. キラーコンテンツを用意する
普通の人が来て一番喜ぶのは、理屈ではありません。面白いものがあるのか、ないのか。凄さが体験できる展示物と、人目で見て「スゲー」と思われるネタを用意することが必要ですね。乗り物とか3Dシアターじゃなくて。

3. 日本文化の文脈で理解する
日本のサブカルの文脈や社会的な背景など「どうして、こうしたコンテンツが生まれたのか」という点が重要なわけで、これがハッキリしていることで、観光に来た外国からのお客さんが納得するわけです。それで、ますます日本のことを知ってもらえる。そういう場にしなければなりません。

例えば、漫画系の展覧会として考えてみれば、
「手塚治虫の系譜 〜マンガの神様の影響〜」
 手塚自身ではなく、手塚に影響を受けた現代の作家たちが、どのように手塚を引き継いでいったのかに焦点を当てます。
「藤子F不二雄の発想力〜ボクたちが夢中になった未来〜」
 ドラえもんをはじめとした藤子作品の描く「未来」と、現在考えられている「未来像」や「現代」を比較し、藤子作品の魅力的な未来像とはなんだったのかを探ります。
「愛すべきスポコンの世界」
 水島新司の野球漫画から、世界のサッカー選手にも影響を影響を与えたキャプテン翼など、スポーツはマンガにとって書かせない題材の一つでした。そのスポーツが描かれる視点の変化から、もうひとつの戦後史を描き出します。
「エロマンガの世界 〜もうひとつのサブカル史〜」(18禁)
 国立で初の18歳以下入場禁止の展覧会。江戸時代の春画からエログロナンセンス、劇画からエロパロまで、サブカルの「エロ」に焦点を当てて日本の裏サブカル史を俯瞰する初の試み。
 とか、いかがでしょうか。マンガ、アニメ、ゲーム、その他などのテーマをローテーションさせていくことで、幅広いサブカルチャーを取り上げて発信していけるのではないかと思います。
 せっかく日本には様々なコンテンツが有るにもかかわらず、それを戦略的に生かしきれていません。ここが旗振り役になって、情報の発信・収集を管理し、輸出の窓口となり、世界中とつながることで、より産業としての後押しができるのではないかと思いますが、いかがでしょうか・・・。



2010年01月5日 第131回 今さらですが「国立サブカルチャーミュージアム」1
 いやあ、もう前回の通信を書いてから、だいぶ経ってしまいましたね。

 その間に総選挙で政権交代、麻生さんの退陣で、すっかり過去の事になってしまいました「国立メディア芸術センター」(通称:国立漫画喫茶)ですが、いずれはそんな施設が必要になってくるでしょうから、まだまだネタとして行けるのではないかな、と思い新春ながら続けさせていただきます。

 さっそく昨年に触れていた私案(妄想)を発表したいと思います。ま、ここは私のコーナーなので、何を書いても自由、ということで。よく言えば「政策提言」、悪く言えば「妄想の開陳」ですかな。

 現在想定されているこの施設の持つミッションとは何かというと、おそらく、この2つではないでしょうか。

1.メディア芸術の国内での振興・保存・研究
2.海外への発信および宣伝の拠点

 「メディア芸術」とは、アニメやマンガに限らず、たとえば「メディア芸術祭」で挙げられているようなメディアアートも含めます。そういえば、編集長と私で以前、Project H.I.Kという「俳句をすべて書き出して発表する」というプロジェクトを応募してみたこともありますね。日本のメディアアーティストの中には、アルス・エレクトロニカなど海外のメディアアートのイベントで賞をとっている人がけっこういるんですよね。でも、それらのファンとアニメやゲームのファンでは、客層が全く違うと思うのです。

 だいたい、「メディア芸術」と一言でいっても、客層が違えばマーケティングも難しいし、イベントを打つのも難しい。施設のブランドイメージを立てるのも難しくなります。となると、むしろ単純に「ここに来れば日本のアニメやマンガが一堂にわかる。サブカル関連の資料が見られる」という場所に開き直ってしまった方が、よっぽど良いのではないかなと思われるのです。その証拠に、「アニメの殿堂」という呼び方は、かなり人口に膾炙しております。これは「メディア芸術振興のための施設」よりも一般人には分かりやすいですからね。

 さて、紺洲堂の試案では、この「国立サブカルチャーミュージアム」のミッションは3つです。

1.短期では日本の新しい観光名所となるような施設を作り、国内外の観光客を集める
2.中期には日本国内のコンテンツ産業の振興及び海外への積極的な輸出拠点とする
3.長期には、失われやすいサブカル系の資料を収集・保存し、研究を進める

 もう、日本国には無駄なことに対してお金を出せる余裕はありません。だからこそ、もし国立サブカルチャーミュージアムを作るのであれば、最初から「お金を取れる施設」にしなければなりません。さらに、これを作ることによって日本国内の産業の発展・維持に寄与できる、と説得しなければ仕分け人も国民も納得しないでしょう。そこで、1〜3と段階を踏んでいくことで施設を黒字化させながら最終的な野望を達成使用ではないか、ということなのです。

 では、短期的な目標「日本の新しい観光名所となるような施設を作り、国内外の観光客を集める」を、どうクリアするか。まず、お台場に建設するのはダメですね。動線から言っても、観光客のルートとして、ちゃんと設定出来るのかが問題となります。そりゃ、お台場にも外国からのお客さんは多いですが、こうしたものに興味がある人が動くことを考えれば、秋葉原や中野からアクセスしやすいことが必要条件です。こうした「オタクの聖地」と呼ばれる場所から近く、スムーズに観光客を呼べる場所こそがふさわしい立地となるでしょう。

 できれば、旧交通博物館の建物や閉校した学校などを再利用するのが良いと思います。海外のミュージアムでは、何かの建物をミュージアムに再利用することは非常にポピュラーです。パリのルーブル美術館は宮殿、オルセー美術館は駅、オランジュリー美術館は温室、ロンドンのテートモダンは発電所でした。サブカルミュージアムの場合は、日本のコンテンツが学校を舞台にしたものが多いことを考えても校舎の再利用が良いかと思います。外国からの観光客が日本の学校の中を見ることはムズカシイと思いますし、話題になるのではないかと思います。

 また、収集品もできるだけタダで提供してもらうことが必要です。一番良いのが、オタクの人に寄付を求めることでしょう。コレクターたちは、なかなか自分のコレクションを持って置く場所が足りず、また第一世代のオタクたちが亡くなっていく時期になれば、家族に最愛のコレクションを捨てられることも大いに考えられます。

 そこで、例えば「サブカルミュージアムに寄付すれば、そのコレクションの相当額を寄付したとみなして、税金の控除が受けられます」となればどうでしょうか。相続税や所得税などを、かなり払わなくても良くなります。また、寄付していただいた方の名前は永久に登録しておくことも必須でしょう。これは、法人やクリエイターにも適用することで、コンテンツホルダーの方々にも貴重な資料を寄付してもらいます。作家にとっても、自分の生原稿などを永久に保存してくれて、なおかつ印税から引かれてしまう税金の控除になるというのは魅力になるのではないでしょうか。生原稿の管理も難しいでしょうし、出版社が倒産して、そのドサクサになくなることもないでしょうし。

 これだけでは、秋葉原からアクセスしやすい学校のあった場所に、オタクやクリエイターから集めたものを集積し、展示・閲覧できる場を作ったに過ぎません。

以降、次回!



2009年5月3週目 第130回 「国立メディア芸術総合センター」に望むこと
 2009年4月28日に文化庁から「国立メディア芸術総合センター」というものが出来ると発表されたそうです、いくつかの記事を総合してみると、アニメやマンガ、ゲームに関して国が「メディア芸術」と位置づけて東京都内に専門の施設を117億円かけて建設するとのこと。お台場が候補地で、来場者数が年間60万人を目標とするそうです。毎年、文化庁が行なっている「メディア芸術祭」の延長線上に位置づけようということなのでしょう。

 いやはや。私も紺洲堂通信の2005年04月1週目 に「第66回 国立サブカルチャーミュージアム宣言!」で国立のミュージアムを作ってゲームやアニメなどを研究する場所を作っておくべき、と主張していたので、まさに願ったり適ったり。首相がマンガ大好きな麻生さんだから、ということで進んだ話なのでしょうが、まずは趣旨については賛成です。「ここに来たら全部が見られる。すべてを残しておける」という施設は絶対に必要です。海外からのお客さんを迎える為にも、あるいはすぐに忘れ去られてしまう大衆文化を記録していくためにも、このミュージアムは存在すべき意味があります。

 ただ、現状では全く趣旨もなにも決まっていないということです。このまま話が進みますと、今までの各地の公立ミュージアムの状況から考えて、以下のようなルートを辿ると予測します。

1.華々しく開館。セレモニーには様々なアニメキャラや漫画家などが列席。コスプレしたお姉さんなどが出迎える。アニメ好きな人とかが来る。新しい観光スポットが出来たと大騒ぎ。メディアで取り上げられる。

2.展示が一通りで飽きる。マニアからツッコミが入りまくる。あるいは、サブカルチャーの「良い面」しか見せない展示で、かなり深みがなく、通常展示の年表が2010年ぐらいで終わり。ガッカリ。ゲーム、アニメ、マンガがバラバラしていて分かりにくい。

3.懐かしいアニメを併設の劇場で上映会したりするが、人影はまばら。ほとんど無料の図書室でマンガを読みまくる「国営漫画喫茶」状態。しかも飲食不可で不評。

4.デパートの催事場とかでやっているフェアみたいのがタイアップで特別展示と称して開催される。

5.たまにコミケの帰りとかに寄ってみようかと思うものの・・・。それっきり。

 だいたい「年1億5000万円程度の入場料を見込むほか、企業の協賛金、関連グッズ販売、イベント会場としての使用料で運営費用を賄う予定」というと、ほとんど恒常的に赤字垂れ流しフラグが立ちまくりです。

 だって、単純計算したら1人あたりの入場料って250円しかないし。下手したらエンタメ系企業のイベント場所貸しと「アニメイト」とか「とらのあな」、「まんだらけ」みたいな企業の支店が出来るぐらいの中途半端な場所になることが目に見えています。きっと施設のキャラクターも「ゆるキャラ」か「萌えキャラ」のようなものが出てくるのでしょうけど・・・。通用するのかなぁ。

 これは、正直に言いますと、かなりヤバい内容です。今のままでは、せっかく日本を代表するサブカルチャー関連施設が、「私のしごと館」になってしまいます。なので、不肖・紺洲堂が構想(妄想)する「国立メディア芸術総合センター」のプランを発表させていただきます。



2008年6月2週目 第129回 超能力人間の登場
 現在の普通の生活を考えてみる、昔ではとても考えられなかった便利なことが非常に多いことが分かります。ここ10年ぐらいのスパンで見ても、これほどインターネットが生活に欠かせないインフラになるとは思いませんでしたし、小銭なしでもモノが買え、ケータイでメールのやり取りをする・・・。いや、もちろん98年当時からその予兆はありましたが、これほどまでに生活に浸透してくる、ということは全員が全員、考えていなかったと思います。

 ちょっと98年当時を思い出してみますと、携帯電話の普及率は5割ぐらいでした。それでも、まだi-modeすら始まっていなかったわけですから、隔世の感があります。それがいまや、テレビも見られてカメラもつき、インターネットに接続して、様々な情報を瞬時に入手することが出来るわけで・・・・。

これらの機能を、もし明治時代に持っていたら、ほとんど超能力者と言っても良いでしょう。千里眼とか、念写とかテレパシーとかとまったく同じことが、ケータイ一つでできるわけですから。昔の人が「超能力」としか想像できなかった様な能力を、いまの一般人は身につけているのですから、それはもはや「エスパー」と言ってもいいのではないでしょうか。

と、考えていると、ふと思い出したのが、記念すべきCONS@VIEWの第一回の、このくだりです。

編集長:(こいつも候補だな。)では8位に行きましょう。
      8位は「頭にイメコンを埋め込む」。
      イメージ・コントローラ,つまり頭で思うだけで
      何でも出来る様になることですか。
紺洲堂:そんな。そんな事をしていたら超能力者は困りますね。
      今までは
      「ちょっとエスパー○○君リモコンとって」
      って言われてた訳でしょ。そんな事したら
エスパーの人が自信なくすでしょ。

 善し悪しに関わらず、エスパー○○君の持っていた能力というのは、技術的に解決される運命にあります。例えば、周囲のモノにコンピューターと駆動装置が埋め込まれてロボット化すれば、念力が無くても、一般人でもモノは動かせるようになります(既に、自動ドアなんかは、そうですよね)。

 自動車や飛行機、クーラーなども、昔の王侯貴族が望んでも出来なかったものが誰でも利用できるようになり、人間がしなければいけなかったことが機械によって自動化がされていくと、まるで人間が進化しているような気がしますが、私たちのDNAは、そんなに短期間では変わりません。今と同じ状況が何万年も続き、現在の条件によって淘汰が進まない限り、人間というハードウェアが技術革新のボトルネックになっていきます。

 すると、脳にコントローラーやチップを埋め込む、というような物理的な解決法によるSF的な未来が出てくる・・・という可能性もあるわけですけど、むしろ「表面的には昔と変わらないのに、裏では、とても高度なシステムが動いていて、人間の行動を最適化している」という状況が、遠からず生まれてくるのでしょう。

 何も言わなくてもNavitimeのような乗り換え案内サービスが自動的に立ち上がって、行動をサポートしてくれる・・・とか。多分、ケータイの次のステップは、そんなものになるんじゃないかな、と思うのです。それは、表面的には個人は超能力人間ではないのに、周囲の状況が個人にとって最適化される、というものになってくるでしょう。おそらく、現在の「超能力人間」的なイメージから「超・運のいい人」のイメージです。その際、結果的に自分の行動がケータイに支配される、というのは非常に微妙な問題になってくると思いますが・・・。



2007年11月3週目 第128回 世間か法か
 boomin編集長が先週紹介した記事が色々な意味で面白いので、ここでも紹介しておきます。まあ、ここで紹介した記事の人は、結局のところ高速道路を有料にして民営化させてしまい、今後45年間も国民に高い高速料金を払わせる、というろくでもないことをした元凶なので、話は半分で聞いておいた方が良さそうです。他にも、こんな面白い記事があるので、見比べてみると、いかに猪瀬某が言っていることが「ポジショントーク」なのかが、よく分かると思いますが・・・。

閑話休題。

 でも「最近は、タダで国にたかることしか考えていない人たちだけで困る」という猪瀬氏の話の趣旨は非常に賛成なのです。誰かが国を支えなければいけないわけですが、これを全員が放棄したら立ち行かないわけです。では、なぜそうなったのか?なぜ自分中心主義がはびこるのか?を考えてみると、別段、国民の方がアホになったから、ということではないと思うのです。むしろ、賢くなったから、と言えるかもしれません。

 なぜかといいますと、「国民にたかることしか考えていない役所」の問題は、不問になっているからです。受益者負担ウンヌンの前に、そもそも役所とその周辺でボロい商売をしていて、本当に国民の為に使われていないものが多いのでは?という疑問が一向に解消されずに税金が上がろうとしています。こんな国をバカ正直に積極的に支えるよりも、自分がうまく立ち回って、美味い汁を吸うほうに回ろうと誰もが画策するのは、自然なように思うのです。

 自分が吸われるほうに行こう、という人は誰もいません。経済的に自分が得するように動くのは、当たり前です。「支えてもらおう」「信頼してもらおう」ということであれば、自ら襟を正してから公正に物事を進めるのが先決でしょう。誰も責任者を出さずに国民から取れるだけ取ろうと考えているのであれば「上に政策あれば下に対策あり」という中国のジョークみたいなことになっても不思議ではありません。

 そこで、入院費や給食費などを払わない人が話題になりますが、これも普通に考えれば、何の強制力も強い催促もしてこない払いは、出来るだけ伸ばす、というのは合理的な経済人の態度だといえるのでしょう。現に、古くからの商業国である中国では、いかに支払いを先延ばしにするか?が経理担当者の腕の見せ所だといわれております。

 では、なぜ今までの日本人は、自ら進んで払っていたのか?それは別段、日本人が偉いからではなく、別の強制力が働いていた、と見るべきでしょう。それは学校や先生との信頼関係、給食費を払わないのは世間体が悪い、ルールを守るというモラル、などの理由だったのかもしれません。どれにせよ、「支払いの催促」や「法的な債務」といった法律とは違った次元の強制力があったと言えるのではないでしょうか。

 これら日本人を包んでいた世間や共同体といった類の強制力(それらは「恥の文化」といわれていたわけですが)が無くなってから、次にどんなモラルを構築したらいいのでしょうか?もしくはアメリカ並みの訴訟社会で白黒つけるやりかたに移っていくのか。宗教まがいのイデオロギーがまかり通るのか。今までは通用していたはずの「社会の暗黙のルール」をスルーしてしまう人の扱い方は、これからも試行錯誤が当分、続きそうです。



2007年11月3週目 第127回 農耕民族と狩猟民族
 また、何事もなく通信を書き始めることにしました・・・。といいますか、かなり自分の文章の無力さを痛感していたこともあるのですが、とりあえず落ち着いてきましたので、また続けてみようと思います。編集長の苦情も、かなり大きくなってきたことですし。

 さて、ちまたでよく言われることを「本当にそうなのか?」と思って聞いてみると、かなりアヤシイと思えることに気がつくことがあります。例えば、この表題の「農耕民族」と「狩猟民族」という話ですね。いわく「日本人は農耕民族、欧米人は狩猟民族」だからウンヌン、という話は、よく飲み屋でオヤジが言っているのを耳にします。

 が、私はこの類の話が出てきたら、その人の話す事(その、ほぼすべて)は、かなりの確率で価値がないのだろう、と判断しています。

 さて、どうしてなのか。書く必要も無いと思うのですが、欧米人だからといって狩猟採集をしているわけではありません。そんな生活を続けている人は、地球上ではかなり少数派です。特にアメリカやフランスは高い食料自給率を誇っており、それらは別にウサギとかシカをハンティングしているのではなく、やはり農業で賄っているわけです。むしろ自給率の低い日本人の方が「農耕民族」と言えるのかどうか、疑わしい限りです。

 また、麦がヨーロッパに伝わったのも、コメが日本に伝わったのも、それほど大きな時代の差があるわけでもありません。たがだか紀元前3千年ぐらいなものでしょう(もっとも、日本の稲作はもっと古くから行なわれていたという説もありますが)。どちらも同じぐらい農耕民族ですし、それ以前は狩猟採集生活を送っていたわけですし。

 似たものに「草食と肉食」や「農耕と遊牧」という比喩がありますが、まだマシです。ただ、「本当に肉を食っているからか?」は分かりませんし、長く定住生活をしている欧米人社会を捕まえて「遊牧」と言えるかどうかは、かなり疑問ではあります。まあ、社会が「草食動物的」という比喩ならば、分からなくはないですけど。

 そういえば、もう一つ。

 ある組織で絶対的な権力を振るっている人物を「天皇」と形容することがあります。「NHKの天皇」「参議院の天皇」「防衛省の天皇」など、誰も何も言えない様な絶対的な権力を振るっている人物を指すことが多いのです。これも、かなり用法がおかしい。

 本来ならば「象徴天皇制」の天皇であれば権力は振るわないし、幕府のあった時代の天皇であれば政治的な権限すら、ほとんどありません。明治以後でも、天皇機関説のような天皇ですから、絶対的な権力を握って権勢を振るっている人間を天皇と言うのは、かなり誤った使い方であると思うのです。

 専制君主のようなら「皇帝」「王様」、独裁者なら「ヒトラー」「スターリン」「毛澤東」あたりがよさそうです。日本ならば「平清盛」なんかもいいですね。世間的に常識のようでも、よく考えればヘンなポイントは、探せばまだかなりありそうです・・・。



2007年07月3週目 第126回 メタボリック症候群を予防する為にA
 なんだか、スパムメールのタイトルみたいになってしまいましたが、先週予告しました 「究極のダイエット方法」ですね。知りたい人は「ビ○ーズブートキャンプ」のDVDを買ってください。きっと、分かるはずです。

 ウソです。ちゃんと紺洲堂オリヂナルのダイエット法がありますのでご心配なく。

 その証拠に、この私、提唱者である紺洲堂の体形を見てもらえれば、信じてもらえるのではないでしょうか。メタボリックシンドロームとは別世界、自分に合うサイズのベルトが無くて困っているぐらいウエストが細いわけです(今のところ)。これもまた、このダイエット法の成果だと考えてもらって、結構です。

 その必殺ダイエット法とは、その名も「経済的ダイエット」、別名「エコノミック・ダイエット」です。肥満を防いだ上にお金も貯まる、というダイエット業界に革命をもたらす画期的なダイエットでしょう!ほとんどのダイエットが、何らかの商品を買う必要がありますが、これには全く必要ないのです。

 ステップ1:自分が使う食費を制限する
 できれば、現在使っている食費を3割以上減らした額を、自分のダイエット中の食費とします。あとのお金は、無駄に使ってしまわないように定期貯金なんかに入れてしまって、むやみに引き出せないようにしておきましょう。できれば長期の債券など、安全性が高く、それなりの利回りが見込める金融商品を買っておきます。その他に必要な支出は、金券屋で商品券を買っておき、それ以外の用途に現金を使えないようにしておきます

ステップ2:高いものを買う
 限られた食費予算の中で買える、一番高いものを買うようにします。安いものは、量が多くなり、またそれに比例して味も落ちる傾向にあります。ところが、高級品は味が良くなる上に量が少なくなるという利点があるのです。

 買い物をする時には、その限られた予算の中で買える、一番高いものを選んで買う。すると、余計な食べ物を買う必要もない。おいしいものを買える。高いものを買えば、必然的に買える量が制限されてしまうので、自然にダイエット効果が得られる、という目論見です。

だいたい、体に必要な量以上を食べてしまうところに肥満の根本的な問題があるように思うのです。ならば、体が必要な量に摂取カロリーを抑え、なおかつ精神的な充足を求めるように転換する、というのがこのダイエットの趣旨なのですね。

 しかも、この方法であれば、衝動買いもしないので、お金が溜まっていく、というほかのダイエット法には代えがたい利点があります。しかも貯めたお金で月に一回ぐらいは高級レストランで脂っこい肉を食べてみてもいいでしょう。つまり体ではなく、舌を肥えさせる、というのはなんて素敵なことではないでしょうか。

ステップ3:早寝早起き
 電気代も浮くし、夜中におやつを食べてしまう危険性もありません。また、朝食をしっかり食べれば午前中に頭が働きやすくなります。

 そしてもっとダイエットに効き目があるのが「極・経済学ダイエット」。なんといっても、このダイエットをすればお金が貯まるだけではなく儲けられるのです!(だんだんとスパムメールみたいな内容になってきましたが・・・)

 まず、食費は通常の経済学ダイエット以上に切り詰め、動物性の蛋白質や脂肪を取らず、なるべく穀物・豆類からカロリーを取ります。野菜は自分の家に置いたプランターで栽培したハーブや野菜で取り、季節によっては近所の空き地等から食べられる野草を調達することもお勧めします。毎日利用する交通機関は運賃が安くなる駅まで遠くても歩いて通って交通費を浮かせ、冷暖房は極力使わず薄着厚着で過ごします。これでジムなどにも行かないで運動不足を解消できるのです。

 するとどうでしょう!

 温暖化ガスの削減に貢献できる上にお金がザックザックと貯まります。メタボリックシンドロームとも、もちろん無縁。なおかつ、ここまで運動しつづければ、きっと長寿も間違いなしです。健康的な生活を送ればサプリメントも医療費もかかりません。どうですか?この効果を合わせれば、「極・経済的ダイエット」によって、皆さんもお金を貯めて投資に回すお金が増え、必ず儲けることができるでしょう(少なくとも銀行の普通預金の金利ぐらいは)。

 え?世間ではこれを「ケチ」と呼ぶのですか。あー、じゃあこれからはケチな人を「経済敵ダイエットを実践している人」と呼びましょう。太っている人は、「家計の見直しが必要な人」と言えば、カドが立たずに済むでしょう。

 さあ、この経済的ダイエットの旗のもとへ、集え!国民よ!
そして貯めたお金の一部は、私にコンサル料として払ってください・・・・

(経済的ダイエットの提唱者より)



2007年06月4週目 第125回 メタボリック症候群を予防する為に.
 もうすっかり、世間に定着した「メタボリック症候群」。ごく最近に出てきたものですが、「胴回りの太さ」という誰でも簡単に判定する基準があるからなのでしょう。大流行しつづけております。ただ、これは「流行っている」と言えるかどうか「微妙」だなあ、と思うのです。

 というのも、「メタボリック症候群」という言葉が流行る以前から、太り気味で内臓脂肪 の溜まっている、生活習慣病になりやすい人というのは沢山いたはずです。急に猫も杓子も「メタボ」になったわけではありません。

ただ、この言葉が出てきたことで、「メタボである」という形容の仕方が生まれ、ウエストサイズが「危機的状況」として認識されるようになりました。つまり、新しく流行になっているのは言葉のほうであり、状況事態は前からあった、いやむしろ「ありふれたもの」であったことが俄かに流行と化した事例として興味深いと思います。

 あまり自分自身には関係の無いことなので、「現在のところ」他人事ではありますが、いつ太ってしまうかどうかは誰も分かりません。特に、肥満や老化はある日突然やってくるのではなく、ジワジワとグラデーションのように少しずつ変化してくるものなので、一定の基準が無ければ、自分のおかれた状況を客観的に把握できません。だから体重計とか体脂肪計とかを使うのですけれど。

 周囲の人に聞いてみると、体形がメタボリックに変化してしまうのには、主に2つの契機があるようです。

 一つは、就職。デスクワークなどオフィス内での活動が主になってしまい消費カロリーが少なくなってしまうこと。外食中心になってしまうことで、脂肪分を多く取ってしまう傾向になること。ストレスで必要以上に食べたりすること。特に学生時代にスポーツをしている人だと、食べる量と消費カロリーのギャップが急に大きくなるので太りやすい、ということらしいですが。

 二つ目は結婚。家庭で大量に作ってしまった料理を食べたりしますと、これもまた肥満の原因になります。もっとも、「幸せぶとり」という言葉があるぐらいですから、家庭を持つと、より多く食べてしまうことがケースとしてあるのでしょう。

 ですが、ご存じのように、肥満は万病の元です。アメリカでは、肥満が原因とみられる疾病で、2000年当時に40万人も亡くなっている、といいます。(http://www.cdc.gov/od/oc/media/pressrel/fs040309.htm)

 肥満のような贅沢で死ぬなんて、随分と罰あたりだと思うわけですが、アメリカの「スーパーサイズ・ミー」という映画を見ますと、決して贅沢な食生活をしている人が肥満になっているわけではなさそうです。つまり、脂肪や糖分がいっぱい入った食品は、大量生産が効くので安く買えます。食事にお金や時間をかけられない低所得者ほど、そういった不健康で太りやすい食事をしてしまう、という社会の負の側面が描かれているのです。とはいっても、世の中には飢えている人がたくさんいるわけで、世界的な食の偏重に矛盾をも感じてしまうわけですが。

 閑話休題。
 ということで、健康で長生きするためには、肥満は大敵です。メタボリック症候群を予防するための必殺のオリジナルダイエット方法を次回、紹介します。乞うご期待!(あるある大辞典2を越える、驚異の最終兵器が、いよいよ次週、公開です!)



2007年03月1週目 第123回 どこでも同じなら大きい方がいい
 東京以外の都市に行っても、同じような光景が広がっていて、げっそりすることがよくあります。たとえば、駅前に行っても消費者金融の看板が並び立ち、牛丼屋やファーストフード、カフェばかりが目に付く光景は、どこででも日本国内で再生産されている風景です。そんな街を見ていると、非常に没個性であることが気になります。

 それはある意味で「現代日本的」光景なのですが、海外との対比でしかローカル臭が発しないものです。日本的ではあるのですが、「どこの街か」というところまでは臭ってきません。ローカル臭とは、固有名詞の表示がなくても、どこの街か当てられるようなところから臭ってきます。それは一面では泥臭さや垢抜けなさにつながっているのですが、ほとんどはその街をオンリーワンにしていく、貴重な原動力なのではないかな、と思うのです。

 では、その大量生産風景を占めるものをもう一度振り返ってみると、目に付くもののほとんどはチェーン店です。そもそも、ローカル商店の表示は目立ちません。全国的に活躍している企業のロゴの方が目立つように作られている、ということもありますが、それ以前に、私の視覚が「見慣れたもの」ばかりを優先して認識しているために、他のローカル臭を排除してしまっているのかも、と思ってしまいます。昔からあるような商店が魅力的な商品を多く取り揃え、全国展開企業以上の個性を発揮していないことには、あまり注目されることもないのかもしれません。

 そういえば、今の地方都市の郊外には、巨大なショッピングモールが続々と建設されています。そこは、どこでもないミニ東京的な空間です。入居している店は、ほとんどがチェーン転換されており、東京で企画されたものが大量に供給されるだけの器官になっているのです。

 どこに行っても、たいていはミニ東京でしかなく、どこも個性も魅力もない。均質化,同一化、東京化が進む先には、何が残るのでしょうか。東京になくて、その都市にしか存在しないものがなければ、誰も留まらなくなります。観光客も来ません。そんなにミニ東京が良ければ、みんな故郷を捨てて東京に出ればいいわけです。故郷をミニ東京化することは、地域の特性を押しつぶし、無個性化することにしかなりません。

 それが嫌なら、「東京以上の東京」になるしかないのですが、それこそ無理な相談です。「大きいことはいいことだ」という名コピーが大昔に流行しました。その頃は、みんなが目指す場所というのは、東京的なるものであったと思います。目指すものが同じなら、やっぱり大きい方がいい。だけれども、みんなが同じものを目指す必要は全くないわけです。山椒は小粒でもぴりりと辛い、ということも十分に魅力的な生き方だと思います。

「ああ、あそこね。いつかは行ってみたいね」と言わせられない街は、きっと東京に養分を吸い取られ、廃墟になってしまうでしょう。

 また、東京も油断していると「ミニ東京」から進化したアジアの大都市に抜き去られる可能性だって大きいのです。そうなれば、余計に日本自体が「東京のなりそこね」のような国になるのではないか、と私は最近になって特に危惧しているわけで。