別冊

 みなさん、とうとう六万HITで凍結されていたHIT記念エッセイが「別冊!紺洲堂通信」としてリニューアルされることになりました!六万まではリメイクですが、それ以降は、なるべくはやく本当の数字にキャッチアップできるように努力します。もちろん不定期更新です。私たちがどういったニンゲンなのか、一端を垣間見たい人はお楽しみに!






一万HIT記念エッセイ 「どうしてCONSになったのか」
 私が編集長ことboominに会ったのは、中学校二年生の時であった。その頃から彼は「boomin」という名前で呼ばれていた。そう。彼のH.Nはもともとあだ名だったのである。由来は本人すら知らないらしい。そのころから今まで交友関係は続いている。

 そんな彼から、ホームページを立ち上げたという話を聞いたのは、1999年の8月ごろだったと思う。当初は彼の大学のサーバーにこのHPの原形はあった。しかも名前は「それ行け!理工学部のナイスガイ」だったのはあまり知られていない。コンテンツの製作者の数も現在より多かったが、途中から脱退が相次ぎ、結局のところ現在までコンテンツを提供しているのは編集長と私だけになってしまった。

 ともかくそんな縁で私は彼から画面を埋めるために何か参加してくれという依頼を受けたのが始まりだった。現在のCONS@WORLDという名前を考えたのは、確かその年の9月頃だろう。それまでのあまりにも安直な(ダサい)名前もある意味受けるかもしれないが、新しい名前をつけたほうが良かろう、という判断からだった。それに私自身は理工学部ではない、ということもある。そして、2000年の3月から現在の形に落ち着いたのだ。

 まあこの名前の由来は思い付きである。パソコンを入手したばかりだった私は、まず最後に「@WORLD」をつけたかった。@はEMAILでよく使うイメージで、いかにも当時、先端を行っているような響きがした。そしてインターネットという世界各地から見るメディアなのだから、ひとつ面白いことを世界に向けてやってやろうということで「WORLD」をつけたのである。

 さて、ここまではすぐ考え付いたのだがどうも@の前に来るものが思いつかない。アルファベットにした方が覚えてもらいやすそうだと思ったのは確かだ。2週間ぐらい考えて、眠ろうとベッドに入ったときのことだ。このページの目標を考えていたとき、conscience(良心)consequence(重要さ)construction(建設)などのキーワードが浮かんできた。すると、どこからか「CONS@WORLD・・・・・。CONS@WORLD・・・・」と声がしたのである。

 あわてて起き上がって英和辞書を開くと、なるほど、CONSで始まる単語にはいいものが多いな、と思って響きもいいので決定したのである。 この名前を編集長に伝えた時、彼は私が意図していなかった意味を感じ取ってくれた。

「これって、コンサートワールド、つまり、みんなでハーモニーを奏でる世界って事?」

 なるほど、いまのBMSがメインになることは運命付けられていたのかもしれない......。

 ちなみにCONSだけだと「保守主義」の略、もしくは「詐欺師たち」になると気がついたのはごく最近(2004年)である。 フランス語だと「アホたち」「馬鹿たち」という意味になることも最近知った。ううむ。意味深だ。



二万Hit記念エッセイ 「どうして紺洲堂主人にしたのか」

   二万HIT記念となっているが、初稿を書いた時点で35735HITである。現在の原稿に直しているのが107278HITなので、原稿を見直すと本当に隔世の感がある。一万HITを書いたのはBの家に泊まったときで、ちょうど一万HITを超えたばかりのときだった。二万以降がないのはさびしいので、HIT数とはだいぶ異なるが別冊!紺洲堂書店の企画として再開ことにしたのだ。

 さて、以前、CONSによく来てくれる人たちの間で、自分の名前(HN)をどうやってつけたか,というチャットで盛り上がったことがある。その当時は「居酒屋 武民(たけたみ)というチャットコーナーがあったのだが、その当時のことを知る人はあまりいないかもしれない。自分の「紺洲堂主人」の由来もそこで話したが、ここにも書いておくことにする。

   前回にCONS@WORLDの由来が出たが,私の名前はその「CONS」からとった。こんす→紺洲と変換したのだ。他の名前も考えたのだが、検索するときにゼッタイ自分しかHITしないような名前がいいな、と思って決めた。これはかの維新の英雄、西郷隆盛の号が「南洲」だったことも意識している。

   ではなぜ「堂」なのか。意味は別段、ない。ただ紺洲だけでは短いと思ったのと、あまりにもそのままだったので何かをつけたかったのだ。当初から小説を書く予定だったので本屋っぽい名前にしようということで選んだに過ぎない。

   ということで,もともとは「こんすどうしゅじん」とよむつもりであったのだが,今は「こんしゅうどうしゅじん」読んでいる。どちらでも構わないのだが,音がよいからだ。実際,OFF会などでは「主人」と呼ばれることが多い。なかなか悪くない。



三万回HIT記念エッセイ 「どうやってVIEWは作られるのか」
 VIEWは、たいてい午前3時を回らないと波に乗ってこない。それまでマンガを読んでいたり、信長の野望をしたり、勝手にしゃべっていたりとしていたboominと紺洲堂主人が(主に紺洲)、ようやく真面目に(?)ディスプレーに向かって書き始める。

   ではなぜそんな時間になってから書くのか。もっと早く書いてさっさと寝たら良いじゃないか、という人がいるかもしれないが、午前3時にならないとあのノリは出ないのである。したがって、本文の中で編集長が眠がっていたり、「いてててて」と筋肉がつっていたりするのは実体験なのだ。それまではひたすらネタを散発的に出し、相手のアイデアに対して駄目を出したり、逆に伸ばしたりとしていた2人の頭がへろへろになってやっと絞りだされる結晶がVIEWなのである。こんな状態であるから、一方の家に泊り込みでないと、新しいVIEWは更新されない、つまりVIEWの数=宿泊回数ということになる。

 ここでひとつ書いておかねばならないことがある。実は、あのVIEWは結構真面目に作られているのだ。VIEWではそのようなことを言えないから、あえてここに書くが、意外と21世紀を予想した内容になっている、とおもう。例えば私の発言で「これからは国よりもケタハズレの個人の時代」という趣旨の発言は、現代国際政治学と同じ考え方である(実は書いた後知ったのだが)。編集長のポケモン誕生だって、究極のキャラクター商品として生命をも自由に創造してしまう未来社会への警鐘だし、モー娘。メンバーの話などは、現代のショービジネス界への深い洞察から発せられたことに皆さんはお気づきであろう。

 また、「鈴木まみ」なる人物も、勝手に本人が納得して呼称すれば現実のものになってしまう、という哲学的に意味を持つ可能性も否定できないかもしれないテーゼも味わい深いものと感じられるだろう。そういった視点から一度見てみると、21世紀がなんとなく分かるとおもう。そのようなことを考えずに見た方がもっとよく分かる、とも思う。

 もし、何かしら新しい真理を発見したら、ぜひメールにてお知らせいただきたい。とくに、VIEWから得られた情報が宝くじのあたり番号、値上がり確実の株式銘柄、勝ち馬などなら大歓迎である。もれなくポケットティッシュ3日分相当のピーナッツを着払いですみやかに送ることをここに宣言しておく。



四万Hit記念エッセイ 「どうしてお土産企画が出来たのか」
アジアの国からコンニチハ
紺洲堂のベトナム・香港みやげに酔いしれろ!
CONS初の「おみやげプレゼント企画」
「ホントにあげるよ、ウソじゃないよ!」
 2001年8月にCONSのOFF会があった。普段は直接会えない常連と大いにゲームやカラオケを楽しんだ。だが、その翌日紺洲はベトナムに行かなくてはならなかった。「はたらくくるま3」を歌いそこねた。あまり話すことも出来なかった。早々と抜け出さざるを得なかった。それでも荷物詰めのためほとんど眠れなかった。

 そこで、現地に着いたら、お詫びとネタ作りのため、メンバーにお土産を買おうと心に決めた。ただ関東圏の人にあげるだけではつまらない、と思った。そこで、書店にてプレゼント企画を行って、OFF会に来た人にも来られなかった人にも幅広くコミュニケーションの場を提供しようと考えたのだった。

 が、予算や手荷物の関係上、もしくは遠隔地だった場合の郵送料から、土産選びは困難を極めた。民芸品を買っても持ち帰る際に破損の恐れがあった。衣料品やサンダルなどはサイズが問題だった。食品は腐ってしまった。漢方薬は効き目が分からなかった。ホーチミンの胸像は高かった。米兵のジッポーは編集長が嫌煙家なので却下された。絵葉書では紺洲堂らしくないと考えた。
 紺洲堂は悩んだ。

「そうだ。マンガはどうだろう。」

 ベトナムでもドラえもんは人気で、すでに名探偵コナンも単行本が発売されていた。ベトナムの人はドラえもん、が言えないらしいので「ドレモン」と書いてあった。その他のメンバーの名前も微妙に違った。ベトナム語は横書きなので、単行本は左から右に読むらしかった。意味は一切わからなかった。

 そしてベトナム産のコーヒーを選んだ。かさばらない上に、ある程度持つと考えた。ベトナムは世界有数のコーヒーの生産地である。フランスに支配されていた影響からか、コーヒーは深煎りだった。苦いコーヒーが好きだった。

 ベトナムから帰る途中香港によって、広東語版「Mr.ジパング」を買った。こちらはなんとなく意味がわかった。外国語で書いてあるものを買うのは面白かった。
 こうして紺洲は帰国の途についた。

 帰宅した後、早速BBSにお土産企画のことを書いた。反響は少なかった。だが、あきらめなかった。どうにか人数が集まって抽選となった。

 抽選方法は簡単だった。応募者の名前を紙に書き、紙袋に入れてかき回し、選んだ。

 コーヒーはP−ALPHAに、ベトナム語版「ドラえもん」はseaさんに、広東語版「Mr.ジパング」はSHOさんに当たった。これは全くの運だった。

 しばらくしてP−ALPHA宅にseaさんが来るというので、遊びに行った。ついでに手渡しした。正直喜んでくれたかどうかは推し量ることが出来なかった。seaさんには住所を聞いて郵送した。

 こうして初のプレゼント企画は終わった。今後、再び行うかは未定である。リクエストが多い上に、他の人からの景品提供もあればやるかもしれない。また紺洲堂が海外に行ったら、あるかもしれない。とりあえず、書店の感想を書いて紺洲堂をよい気持ちにさせておけば可能性は高まると考えられるのであった。

   (最後に一言。プロジェクトX風に読んでください)



五万Hit記念エッセイ 「どうやってBと出会ったか」

   このサイトの管理人、boominとは、ブラジルにある空手道場で知り合った。当時は、まだ日本人が今のように海外に出ることが出来ない時代だった。一般人の渡航は制限され、ビジネスや公用でなくてはパスポートも取れなかったが、私はブラジル奥地に伝わる伝説の「キンノシャ・チホコモードキ」という神像を探すという名目でパスポートを取得すると、南米行きの船に飛び乗った。

 二ヶ月の船旅中に、ある男の噂を聞いた。サンパウロに住む、謎の日本人移民の話。その男は、体は小さいが、誰にも負けたことがない格闘家で、見たことのない技を使っては小山のような男たちをなぎ倒しているという。しかも、まだほんの子供というではないか。
 私はその男に興味を覚えた。南米最強の男。その男を倒して今回の探検に使ってやろうと、私は船上で格闘技の特訓に励むことにした。そのときの私は世界の広さをまったく知らない若造だった。

 船がサンパウロに着くと、真っ先にその男を捜すことにした。その男は、市内一の空手道場にいるという。さっそく忍び装束で道場の天井に忍び込んだ。

 道場は一面に畳を敷いた体育館2個分もある大きなもので、その真ん中に眼鏡をかけた中学生くらいの子供が陣取り、周りの大男に対して檄を飛ばしていた。男たちは、その子供にお辞儀をして、組み打ちを始めるのだが、軽くいなされるだけであった。

 そのうち、入り口から、派手なトランクスをはいた男が、道場の練習生に案内されて、その指導している中学生の前に立った。その男は自分がキックボクシングのチャンピョンで、世界一強いことを証明するために対戦しろ、と叫んだ。

 中学生はうなずくと、道場の中央を空けさせた。

   道場の人々が周りを囲む中、二人の戦士は視線をはずすことなく中央で礼をした。どこから聞きつけたのか、道場の周りの窓からは、町の人々が固唾を呑んで見守っていた。

 天井から見守る私にも、二人の闘志が伝わってきた。そして、チャンピョンが踏み込んだ瞬間だった。チャンピョンの出したパンチを、中学生は手のひらで軽く受けたのだった。

 勝負は一瞬で終わった。戦意を失ったチャンピョンは、ガクリと体を畳の上に落としたのだった。確かに、相手の気を奪い、一瞬にして制圧するという恐るべき技の持ち主だった。その鮮やかな勝利に、沸き、中学生は弟子たちに担がれると、道場の中を練り歩いた。周りで見守っていた町の人々も、これを見るや、一斉に歌いだし、外を走っていた車は一斉にクラクションを鳴らして、勝利を讃えたのであった。

 その圧倒的な力を前にして、私の中の炎は勢いを増した。忍び装束をその場に脱ぎ捨てると、道場の中央へふわりと降り立った。

「そこの小僧!俺と勝負してくださいませんか」

 中学生は、弟子の肩から下ろしてもらうと、中央へ歩いてきた。
 道場はまた、緊張感に包まれた。さっきまでの賑やかな雰囲気は、一瞬にして凍りついた。

 二人は構えた。その時間は永遠に続くと思われるほど長かった。私は忍術学園で習った分身の術を使って相手を翻弄することにしたが、中学生は見切ると強烈な回し蹴りを放った。私はそれを軽く腕で受け止めるや、その足を掴んで関節技を決めた。

「まいった」

 その一言で、道場は静まり返った。いままで負けたことのない英雄の、初めての敗北だ。すると、道場の人々は、今度は私に向かって口々に「あなたの弟子にしてください」と言いながら、私を胴上げした。その中学生も、「なんでもやりますから、是非先生のもとで修行させてください」と駆け寄ってきた。

 私は、その中学生の名を尋ねて、探検に同行させることにしたのだった。ちなみに中学生に負けたキックボクサーがboominである・・・・。

 以上が、フィクションを交えたboominとの出会いである。フィクションを交えなければ、適当な長さにならなかったのだ。純粋だと、こうなる。

 私たちは中学校の同級生だった。第一印象は覚えていない。ただ、体育の授業に行くときに、私が靴紐を結びながら「ねぇ、なぜboominなの?」と聞いたことを、妙にはっきりと覚えている。もちろん答えは「知らない」だったのだが。





六万HIT記念エッセイ 「どうやってP-Alphaと出会ったのか」

  「絵がすごく上手いやつがいる。大学の同級生なんだけど、絵はオリジナルで、すで に自 分の『画風』をもっているから、頼んで描いてもらおうと思っているんだ」

 P-Alphaとの縁は、boominが立ち上げたCONS@WORLDの製作者仲間として紹介された時から始まる。設立当初はboominが編集長(管理人)と宇宙に関するコーナー、紺洲堂が小説、K君が「つぶやき」、bokopokoが「私は見た」というドキュメンタリータッチの読み物、そしてP-Alphaがイラストの担当だった。

 実際に彼に会ったのは、おそらく、私の家に皆(boominやK君含む)が集まったときだったと思う。いや、boominたちの大学に行ったときか。あまり覚えていない。

 ただ、Boominが自分のウェブページを立ち上げる、という話を私にしたとき、冒頭のセリフを言ったのは鮮明に覚えている。要するに、ベタ褒めだったのだ。Boominは、彼の(その時はP-Alphaというペンネームは決まっていなかったと思う)絵に惚れ込んでおり、貴重なコンテンツのひとつと見做していたらしい。

 実は、彼のP-Alphaという筆名も、名付け親はboominなのだ。当初の予定で、すでに数コマからなるマンガ「ぷらすあるふぁ」を掲載することが決まっていた。だがペンネームが決まっていない。そこで、「ぷらすあるふぁ」を略してP-Alphaとなったのである。いつのまにか、描いている本人の名前にもなってしまったわけだ。

 まったく当たり前の話なのだが、CONS@WORLD内のギャラリーに置いてある初期の作品を見てもらえば、当時のレベルがいかに発展途上だったかがよく分かると思う。画風は某ゲームの強い影響下にあり、画面は平面的で瑞瑞しさが少なく、着色技術も未熟である。私も今から思えば小説とすら呼べないコンテンツを開設当初から約二年間放置していたのだから、人のことは言えまい。

 ところが、私の文章が進歩しないのとは対照的に、彼の作品のレベルは急速に上がっていった。そして、自分の独自の作品発表場所を作るためにCONSから独立していった。自分のページを立ち上げて、数々の作品を発表し続けたからこそ、絵のレベルも急激に上がり、自分の画風を得られたに違いない。その後、プロのイラストレーターとなって活躍していることは、ご存知のとおりである。独立後、多忙によりCONSに作品を提供してくれなくなっていたこともまた、ご存知のとおりである。

 現在の作風に落ち着いたのは、2001年の半ばほどからであろう。その頃には、作品のレベルは充分に上がっており、現在もなお進化をやめない。本当に「継続は力なり」である。ついでに体重の方も進化(?)を続けており、前年比20%の伸びを記録しているとかしていないとか。あ!体重の話は、ここだけに留めておいてください。





七万HIT記念 「どうしてboominは編集長と呼ばれるのか」

 よく、私はBBSなどでboominのことを「編集長」と呼んでいる。普通、ウェブページの責任者は「管理人」であるが、これにはれっきとしたいわれがあるのだ。
 このサイトが始まった当初、できれば色々なメンバーがコンテンツを持ち寄る、オンラインの雑誌のようなものにしようと参加者は考えていた。ギャラリー内のP-Alphaのイラストページを見てもらいたい。2001年の6月のイラストは、まさに雑誌をイメージしたものになっている。

 そこで、管理人と言うよりは、むしろ雑誌なんだから「編集長」がいいだろうということで「編集長」と呼ぶことにしたのである。別に、boominが学級新聞の編集長をしていたから、と いったようなネタではない。

 では、なぜ私がこの呼称を使い続けているかと言うと、毎週発表する「紺洲堂通信」や小説 をboominに読んでもらって、感想や批評をしてもらう、本当に「編集長」の名前にふさわしい仕事をしてもらっているからである。だから、初めて訪れてくれた人も「編集長って何様のつもり!?」と目を三角にしないでください。・・・・していないと思いますが。





八万HIT記念 過去にどのようなコンテンツがあったか 〜2003

 ネットの世界では数々のホームページが日々、生まれては消えていく。たとえずっと続いているページであっても、そのコンテンツは移ろい、失われ、忘れられていってしまう。
 それは、このCONS@WORLDも例外ではない。だからこそ、ここに記録しておく価値はあると思う。また復活するかもしれないが、2004年6月現在で消えたままになっている箇所だけ、とりあえず記録に残しておこう。

 過去、このページには様々なコンテンツがあった。前から来てくださっている方はご存知だと思うが、当初、このページのコンテンツ製作者は5人だった。編集長boominと私のほかにP-Alpha、BocoPoco,そしてK君である。P-Alphaは、もちろん途中で独立。BocoPocoとK君は、編集長が頻繁に会えなくなったので更新が困難との判断で閉鎖となった。

 P-Alphaのイラストはギャラリーに残っているので問題はない。だが、BocoPocoとK君のものは残念ながら残っていない。その伝説をここに記し、このページが続くまで、その栄誉を讃えよう。それに、このあたりの状況が分からないと、新しく来てくださっている方にはCONS@VIEWのネタがよく分からないと思う。

 BocoPocoのコーナー「私は見た」
 このコーナーではBocoPocoが出会った、面白い出来事を語るコーナーである。
「え!?、そんなことがあったの?」という出来事が次々に披露される、なかなか素晴らしいコーナーであった。

 K君のコーナー「K君のつぶやき」
 あっと驚く、箴言の数々。ニヒルに世の中を観察した結果、生み出されるつぶやきには独特のセンスとユーモアがあった。編集長の絶妙なコメントと合わせて、更新が楽しみなコラムであった。

 そのほかにも、編集長と私も、今はなきコーナーを持っていた。

 編集長「宇宙に関するコラム」
 編集長の研究分野である宇宙についてのベーシックな解説コーナー。至極、まともなコンテンツであった。このコーナーが廃止された結果、CONSからはアカデミックな香りが消えてしまった。

 その他にも、なぜかboominについての紹介を友達が行う「Who is boomin」というコーナーもあった。中には、全く現実のboominを見たことのない人も、全くの想像でよいので、という条件で書いてくれている。この一部が、いまも「CONS@RADIO」として今も受け継がれている。

 紺洲堂主人のコーナーでは、一時の気の迷い、若気の至りとして「紺洲堂壁紙館」があった。紺洲堂書店の小説ページに使っている。毒々しい背景パターンを展示しているコーナーであったが、ほとんど人が訪れないので自然消滅であった。

 特定の人物が提供していたのではないコーナーに、「居酒屋 武民」がある。武民の閉店については、またの機会に譲りたい。VIEWにも登場してくれた店長は、いまもって行方不明。見かけた人は、是非、紺洲堂書店までご一報ください。

以上である。

 これからも、もしかすると数々の過去コンテンツが生まれて行くかもしれない。この別冊紺洲堂通信自体が無くなってしまうかも知れない。まぁ、それも諸行無常。とりあえず、今回はこのあたりで。





九万HIT記念 「いざかや 武民」はどうやって生まれたか

 コンテンツ消失でわかりにくくなってしまったネタの一つは「いざかや武民」であろう。CONS@VIEWの第9回と10回に出てくる人物が、一体、何者であるのか、初めて読んでくれた人には見当もつかない、と思う。
 この「いざかや 武民」とは、編集長のboominが、大学一年生のときにアルバイトをしていた某居酒屋をモデルにしている。体力に自身のあった彼は、24時間営業の夜シフトを「お金が良いし、研究で遅くなってからでもできるし、お酒も飲める(誤解)」と三拍子揃ったバイトとして高く評価していた。

 結局、あまりにもハードすぎて1年で止めてしまったが、それ以前にも近所の郵便局の深夜仕分けなどをして、夜中のバイトが苦にならなかった彼にとってもハードであったわけだ。(たぶん、手紙はお行儀がよかったからだろう)私なんぞには出来ないだろうと思った。

   そんなこんなで、彼の仕事振りを見に、徹夜でその某居酒屋に行ったときのことだ。普通の、みなさんが名前からイメージするような場所だったから、適当にオーダーしようとするとboominは「これは、ただ冷凍を戻しているだけでおすすめできない。こっちの方が、まだまし」などと言って、勝手にオーダーを変更しようとする。で、店長が近くに来たときは、威勢良く「かしこまりました!」と叫ぶ始末。かなり遅かったから、お客が一巡すると、わりに暇になるらしく、何人かでつるんで行ったものだから、ひたすらboominに対し、やれ箸を変えてくれ、水をくれ、おしぼり追加、とここぞとばかり使い倒していたわけだ。

   朝になってboominの勤務が終わった後、みんなで近くのコーヒー屋(随分、早くからやっているものなのですね)に入り、通勤客を窓から見ながら、boominの働きぶりとか、今日の講評をしていた。あいつがどうの、とかこの子が可愛いとか、たわいも無いことだったと思う。思う、というのは、その店の店長のキャラが強すぎて、裏での秘蔵エピソード公開に一同が大爆笑、まわりの忙しいビジネスピープルからは大ひんしゅく、といった様相であった。

 このキャラが濃い店長をネタ元にして、この「いざかや 武民」の店長というキャラが生まれたのである・・・・・・。

 以上が、フィクションを交えた「いざかや 武民」の話である。フィクションを交えなければ、適当な長さにならなかったのだ。純粋だと、こうなる。

「昔、CONSにあったチャットルームの名前」

 まだ、常連の人たちが学生でヒマなときだった。チャットルームなのだが、なぜか店長(いまだに正体は公式に発表されていない)がいて、飲み物や食べ物(どこから切ってもboominかまぼこ、とかビールとか)をオーダーすると、出してくれるのだ。本当にバーチャルな居酒屋といった様相で、いまのIT技術の進歩、ネットゲームの繁栄からは想像がつかないぐらいアナログ感覚漂う、ヘンな空間だった。

 で、どうして閉店したかといえば、ただ、単に提供している会社が、サービスを停止したからである。その頃には、もう夜中にメンツが揃わなかったので、結局、自然消滅してしまったのであった。個人的には復活して欲しいのだが。

 





十万HIT記念 なぜ書店を新装開店したのか

 今回、2004年7月1日に紺洲堂書店の2回目となる大改装を行いました。基本的に、書店のデザインは創業から変えていなかったのです。なぜ変えたか、と言えば 一日百ヒットを目標としたときに、新しく来てくれた人が「引く」ようなデザインだと、読んでもらえないだろうと思ったからです。

 デザインもすっきりさわやかで、見やすいように。文章の改行や行間、色などを考慮して読みやすいページに。コンテンツも整理して、どこに何があるか分かるように。と、心がけてデザインしました。今まではboominにデザインを任せていたのですが、多忙と「主人もデザインしてみれば?」と説得された結果、編集長に迷惑をかけながら挑戦してみました。

 自作の背景パターンも引っ込めて、イメージ画像(本の表紙のようなもの)にとどめ、英語のタイトルも併記してみました。この英語に訳すのは、ちょっと面白かったです。何件かは凝った訳になっているので、参照してみてください。

 そして、この場を借りて、私の作品を読んでくれていた人たちに、お詫びをしなくてはなりません。というのも、連載作品であった「一億円につき」と「快楽バスツアー」を掲載中止にしたからです。二年ぐらい前に、双方とも第二回まで連載した後、事実上停止していました。

 これは私の書きたいものに、自分の力がまだ追いついていなかった結果です。大風呂敷を広げたはいいが、それを面白い長編として収束させることができず、続きを後回しにしていた結果なのです。二回目まで読んで感想を書いてくれた方々、少しでも次回に期待をしてくれた方々に、謹んでお詫びをいたします。

 ただ、もう書かないという意味ではありません。また、自分の中で構想が固まってから、絶対に挑戦します。それまでは、暫しの間、自分のネタ帳の中で暖めて、もう一度、皆さんに読んでもらって面白い作品として再登場させます。申し訳ありませんが、その時には、またよろしくお願いいたします。





十一万HIT記念 どうして紺洲堂通信を始めたのか

 紺洲堂通信を始めてから、半年以上経った。
 典型的な三日坊主体質の私にとって、これは奇跡に近いと思う。この前、部屋の整理をしていたら、途中までしか(正確に言うと、始めの数ページしか)使っていないノートが何冊も出てきた。前回のお詫びのように、長編を書こうとしても2回ぐらいで挫折した。そんな私が続いたのも、すべて編集長の催促の成果である。やはり、こういった物は監視の目が無くては続かないようだ。共同運営は良いものだ、といつも思う。

 土曜、もしくは日曜に更新するので、だいたい金曜日から土曜日にかけて原稿を書いて送る。お互いが、たとえば旅行などに出るなどで原稿を書けない場合は、あらかじめ言っておき、事前に原稿を渡したり、更新作業をしたりして、穴を開けないように気をつけている。(もっとも、いつ穴が開くか、編集長は不安らしい)時には、私が日曜の昼に原稿を送付するというハードな展開にもかかわらず、週末更新は、どうにか続いている。

 どうして始めたのか、と言えばCONS@WORLDのHIT数が、BM人気の低下と比例して減少し続けていたからである。BMの新作を公開するという手段もあったが、編集長の多忙につき却下。もはや、新コンテンツを提供できるのは私しかいなくなってしまったのであった。

 BMメインのページからの脱却が課題となれば、あとは何を書くか、ということになる。定期的に更新されるコンテンツが無ければお客さんが来ない。だからといって、私の、更新率の著しく低い小説に頼ることも出来ない。そう考えて週一回のコラムを書くことにした。もともと、ショートエッセイやコラムも書いてみたかった上に、boominも参加できる。Boomin編が日記風、紺洲堂編がコラム・エッセイ風というように、カラーも棲み分けることが出来た。幸いにして、その効果は現れているようだ。

 私の場合、書く内容に関しては常時、いくつものストックを用意している。その中から気の向いたタイトルを選んで書く。今すぐ書きたいことがあれば、それを優先する。だから、気が乗らないときは、当日になってからも書く気が起きず、ぎりぎりになって送ることになってしまう。だから、書いたもののストックは無い。逆に、書きたい気が横溢している時は、調子に乗っていくつか書いてしまう。当然、その後は油断するのでストックが尽きるまで何も書かない。だから、毎週末が綱渡りなのである。

 とにかく、このサイトが続く限り、この通信も続けていくと思う。ネタは・・・まあ、 また湧いてくると思う。ストックは、まだあるし。





十二HIT記念 2005年 CONS@新年会の報告

 そういえば、CONS@WORLDのOFF会について書いたことがなかった。

 記念すべき第一回目は、サイト設立一年目に常連さんの美弥雅氏の提案により東京・御茶ノ水にて開催した。その後は数回、思い出したように行うものの、長期休暇の関係から夏・冬に開催することが多くなった。だいたいは東京で行うものの、boominらが東海・関西に遠征する関西OFFもあり、OFF会活動は極めて活発だったといってよいだろう。だいたい、ゲーセン・ビリヤード・カラオケという内容のものが多かったように思う。そこから、段々とメイドカフェやら秋葉原といった濃い要素が徐々に増加していったように思う。

 ところが、こういったOFF会活動もメンバーの生活パターンの変化から、最後に行われたのは2003年の夏であり、池袋に集合してナンジャタウンでひたすら餃子を食べるという企画だった。値段のわりに食べられる量が多く、各人が買出しに出撃し、ベースキャンプに物資を集積して全員でシェアする、という内容であった。皆、もう餃子は食べたくない、と言い出すぐらい食べたものだった。

 1年半ぶりに開いた今回の2005年 CONS@新年会である。今回はCONS@OFFと言えるかも疑わしいぐらいの出席率であったので、出ていない皆さんに大いにここで告知し、次回からの参加を促すものである。

 年末開催の予定であったが、上京予定であったTOSHI氏の急病により年明けに延期され、05年の新年会となった。それでも、編集長boominは研究が抜き差しならぬところであり、他の常連方も仕事・成人式と重なり、集合できたのは私だけ・・・・。

 さて、1月8日、秋葉原に2時集合。ここのところ、私も秋葉原に来ることが多く、先日は電子辞書の追加カードを買いに来たり、輸入CDを買いに来たりしていたのですが、驚くのは街の変貌するスピードが速いことですね。この前まであった電気屋がなくなっていたり、駅前のビルが予想以上に大きく、完成に近づいていたりと、やはりいつ来てもサプライズのある街です。その一方でガード下では昔ながらの商売をしている方もいらっしゃる。戦後日本の縮図だと思います。

 いつものごとく若干の遅刻しましたが、TOSHI氏と秋葉原巡りの始まり始まり。まずは同人誌を売っている店に行きます。年末のコミケ直後の為、買うための行列が物凄いことになっていました。皆さん、大量購入されるようで「ここが最後尾です」と店員が声を張り上げている、まさにデパート催し物会場のバーゲンセール状態です。あまりに列が長いので取りやめ、その後に他店を回るものの、買わずメイド喫茶へと向かうことになりました。

 しかし、そこも何組か先客が待っており断念。新年ということで巫女風の衣装で、店内にはしめ縄が張ってありました。とにかく、どこかでカロリーを取ろうということになりまして、ドンキホーテにもメイド喫茶があるということで移動します。ゲームセンターの階もありまして、多少ゲームなどもしました。或る日の佐藤が来るというメールを受け取ってから向かった肝心の喫茶コーナーですが、カロリーのある食べ物が無く、純粋に飲み物が主ということでしたので、ここも断念。時間がもったいないので、神田明神に初詣いたしました。

 お参りを済ませた後、おみくじを引いてみました。TOSHI氏は、直前に話してもらった野望について望みどおりの結果が出て、大満足。私は、そこそこでした。なぜ神田明神かといいますと、秋葉原に近いのと、場所柄か「ITお守り」を売り出しているというのと巫女さんが見たいとのことでTOSHI氏が是非とも、ということで。私は自分用に「勝守り」と、高校の同級生のために安産守りを買っておきましたけど。

 それでも多少、時間が余りましたので、またメイド喫茶に再挑戦してみました。今度は、若干名の待ちだったので、そのまま待ちます。中は、至って普通な雰囲気です。もっと激しいものを想像していたのですが、ディズニーランド内のレストランやカフェと基本的に変わりないという印象でした。もっと「おかえりなさ〜い♪ご主人たま〜」みたいなのを覚悟していたのですが、いらっしゃいませ、のノリで「おかえりなさーい」ですし。身構えなくて良かったです。

 とはいっても、H.Nが「紺洲堂主人」なので、「主人」と言われても違和感がなく、よって「萌え」でもなく、逆に他の席でも自分のことを呼ばれたような気になってしまう不思議な感覚でした。TOSHI氏とキャラクター小説についての意見を交換した後、ゲームセンターに移動すると、もう佐藤氏が肉の万世に来ているというので、あわてて直行することになりました。TOSHI氏は買いそびれた品をそろえる為、アニメイトに立ち寄りましたけど。

肉の万世
http://www.niku-mansei.com/htmf/shop/honten01/index.htm

 たまの贅沢と言うので、今回は焼肉です!わーい。ついでに佐藤氏の就職祝いということで、電脳街の夜景を見ながら、肉を食べました。TOSHI氏が時間が無くて小説が書けないという話をしたので、「時間が無くても『ある程度』原稿を書くためのオリジナル技法」を披露したところ、「それにしては、主人が発表する作品数って、少ないよね」と突っ込まれました。返す言葉もありませんでした・・・。佐藤氏とは金融商品と株についてひたすら情報交換し、酔って疲れてTOSHI氏は眠る、といった具合でした。

 あまり気乗りはしなかったのですが、その後はバーに向かいますが、肝心の言いだしっぺTOSHI氏が場所を把握していないと言うことで、歩き回りましたが、最後はboominの電話によるナビで無事、たどり着くことが出来ました。

ZOID
http://www.barzoid.com/maid/

 店に入りますと、普通のバーなのですが、ここも週末だけウェイトレスがメイドのコスチュームになるという珍しい場所でした。ですが、どことなく無愛想・・・。テーブルの上にスターウォーズに出てくるR2−D2の有線操作のおもちゃがありました。何気なく手にとって動かしてみますと・・・動かない。あれ?電池が入っていない。

「あ、それ触らないでください。オーナーの私物なんでぇ、触ったら怒られますよ」と、無愛想なメイドが言ったとさ。

「それなら、こんなとこに置かないでくださいよ」
「でも、なんか置いてあるんで、触らないでください。壊したらキレますから」

 あらら・・・。どちらが「ご主人さま」だか、なんだか判りませんなあ。仏作って魂入れず。ここで、いつぞやのオペラ劇場のガキとおなじく「そんなん、知ったことか!大事なら、どっかに置いとけ!」と一喝しても良かったのですが、関西からのゲストの希望でせっかく来たのですから、と飲み込んでおきました。(それにしても、客商売としてもなっていないですねえ。「ぞんざいに扱われるのが快感な趣味」の人が喜ぶのでしょうか・・・)

 少し飲んだ後、ゲームセンターに移動して、クイズマジックアカデミーをやります。成績は・・・良かったですねえ。複数でやると、ますます強い。そんなこんなで、秋葉原駅で解散しました。

 こうしてOFF会はお開きとなりましたそうな。次回は、どうなることやら・・・・。もっと違った感じでやってもいいと思うので、どしどし参加してください!





十三万ヒット記念 初代 紺洲堂通信

 最近になって思い出したのですが、紺洲堂通信には10年ぐらい前のプロトタイプがあったのです。それを「初代 紺洲堂通信」と名づけておきます。

 中学三年生のとき、boominのいる学校から転校することになりました。中学三年といえば、高校受験も迫るやら青春の各種悩みもテンコ盛り状態なのですが、とにかく、その街から遠いところへ父の転勤に伴って出発しなければならなかったのです。一学期が終わりに近づいた頃、私は中学を後にしました。

 さあ、新しいところに着いたのは良かったのですが、環境が「激変」といえるぐらい変わってしまい、何を見ても珍しく、変な感じがしました。で、慣れるまで長い時間がかかってしまったのですが、どうも鬱屈して仕方がありませんでした。その状況を見かねて、母親が前のクラスに、いまいる場所のレポートを送ってみたら?と薦めてくれたのです。

 物は試し、とFAXで元いた中学校に頼まれもしない新しい街のレポートを送ってみました。本当かどうかはわかりませんが、「面白い。次回を楽しみにしている」といった旨のFAXが届き、これまた有頂天になって数回送りました。そのたびに、前の中学校の近況も、いろいろと聞くことができたのですが、新しい土地に慣れ、ネタが無くなると、いつのまにか自然消滅。そして、みんな中学を卒業していったのです。

 今は、初代を取って置けば良かったなあ、と後悔する事しきりです。なぜって?自分は昔、何を書いていたか知りたいじゃないですか。あんまり進歩していないようだと困り物ですが・・・。