革靴の芯から冷たい水が噴き出してくなるほど雨が降りつづいていた頃だった。やっと最寄り駅まで帰り着き、まだ全体が昆布のようにべちょべちょになった傘を広げて、水たまりだらけの道をよけながら駅前広場へ歩き出そうとしたときだった。
「もしもし、新田家のお通夜はこちらですよ」
振り返ると、駅前に立っている喪服と腕章をした中年男が声をかけてきたのだ。
「いや、僕はお通夜には出ませんよ。いまから帰るところなんです」
「いやいや、あなたに是非出てもらいたいのです。いや、むしろあなたには参列する義務があるといっていい。とにかく、新田家の斎場は、駅前の市営会館だから。お通夜なんだから、そのままでも大丈夫。はやく行きなさい」
と、手に持っていたA3ぐらいの紙を指し示す。そこには、薄気味悪いぐらい大きく描かれた左手が市営会館の方向を指し示していた。そして、黒々と
「新田家 通夜」と。
紙が入っている防水ケースは全体的に濡れており、水滴がだらしなく張り付いていた。
「とはいっても、申し訳ないが新田さんという方は存じ上げません。私のような者が出席するわけにも・・・」
と立ち去ろうとすると、その男は、ぐいと進路に立ちふさがった。
「新田さんはあなたの命の恩人なんですよ。それに、この街で生まれ育ったんでしょう。だったら、それ以外にも何か関わりがあったのかもしれない。いいから出てきなさい」
いままで、こんな勧誘を受けたのは初めてだった。新田?もしかすると、小学校か中学校の同級生に居たような気がする。だが、覚えていないということは、それほど親しい間柄でもなかったのだろう。
「これ、持って行きなさい」
迷っていると、白い紙袋を渡された。香典袋と黒いネクタイが入っている。
「あなたのお母さんから預かってきた。これを持って行きなさい」
母親が?ということは、この男は親の知り合いか。
「わかりました。では、市営会館でいいのですね」
傘を畳むと、受付の傘立てに突き立てた。受付で名刺を出し、香典袋を添える。全く知らない遺族に頭を下げる。焼香。遺影を見るが、やはり知らない。全く知らない人間がお通夜なんて来て良かったのだろうか。どうも居心地が悪い。
隣の部屋では参列者が飲み食いをしているようだった。覗いてみるが、知った顔は全くなかった。遺族から食事をしていくように勧められたが、用事があると断って帰ってきた。
母親に聞いてみたら、そのような葬式も香典も知らないという。さては、あの駅前の男は誰かと僕を間違えていたのだろう。これは悪いことをした・・・のだろうか。
次の日も雨だった。
昨日と同じように傘を広げたとき、また道には同じ中年男が立っていた。
「ちょっと、昨日のお通夜!」
と、彼を問いつめようとすると
「ああ、昨日はちゃんと行ったんだってね。あなたのお母さんも喜んでいましたよ」
「いやいや、帰ったら新田さんも通夜も知らないっていっていたよ。本当は誰か他の人と間違えていたんじゃないですか。それなのに、僕から香典を出してしまって」
黒っぽい傘の下の彼の顔を見ると、さっきまでと様子が違い、ちょっと真剣な顔をしていた。
「昨日、あなたが行ったお通夜は商店街の刃物屋さんだったんですよ。一番切れ味の良いナイフを買おうとした男を呼び止めて、いろいろ話を聞いてあげると、リストラされて自暴自棄になっているということだったので、知り合いの会社を紹介してあげたことがあるそうです」
「いったい、それが僕に何の関係があるって言うんですか」
「もし、この人がナイフを渡していたら、その2日後に帰宅途中のあなたは、ちょうどこの時刻にこの場所で男に刺されて死んでいたはずです」
「ここで?僕が?でも、僕は刺されちゃいないし、死んでもいない。いい加減なことを言わないでください」
「いや、本当ですよ。新田さんが刃物を売ったら。あるいは男の悩みを聞かなかったら。仕事を紹介しなかったら。どれかが失敗していたら、あなたはここに立っていなかったことになる」
「そんな、もしもの話をしてもらっても仕方がない。もう僕に関わらないでください」
「そういう訳にもいかないんです。だって、これもあなたのお母さんに頼まれているんだから。今日は、武藤さんです。これを持って、市営会館に行きなさい」
無理矢理に香典袋を僕に押しつけると、男は広げた黒傘で僕の言おうとした文句を遮ったのだった。
街の刃物屋?そりゃ、もしかするとうちの包丁やハサミは、ここで買ったのかもしれない。だけど、通り魔候補を説得したなんて全くなにも関係がないじゃないか。
今度は武藤?香典袋を見てみると、1万円ほど入っている。このまま持ち逃げしようかと思ったが、渡された金だ。バチが当たるかもしれないと思いとどまり、昨日と全く同じように参列し、家に帰った。母親は知らないという。
翌日は晴れていた。駅前には・・・。
やはり例の中年男だ。
「昨日も、ちゃんと行きましたよ」
「ああ。あなたのお母さんにも伝えておきました」
「昨日の、武藤さんという人は、どんな人だったんですか」
「彼は、あなたが小学生の時、通学路の途中にあるマンションで管理人をしていたそうです」
「それで?」
「ある日、通りに面した住人が植木鉢をベランダから外に吊していたそうですが、武藤さんが危ないからとやめさせた、と。もし吊したままだったら、通学途中のあなたの頭を直撃し、死んでいたかもしれません」
「でも、死んでいないですよね」
「あなた自身は、ね。武藤さんが止めてくれたから。でも、他のあなたは死んでいる」
「他のあなたって?」
「パラレル世界のあなたですよ。無数のあなたが不運にも死んでしまった。香典は、その死んでしまった無数のあなたの母親たちから預かってきている物なんです。別の世界で自分の息子を救ってくれた恩人だから、とね」
それから毎晩毎晩、いつも誰かの参列だ。
こっちは、顔も知らないホトケさんに毎日焼香して顔を見て、家に帰る。これなら、いっそのこと喪服を着て通勤した方がいいのかもしれない。
実際、それまで着ていた明るい色のスーツやシャツを着るのをやめ、黒系のジャケットと白のシャツという地味な格好が増えていった。
「で、今日は、誰なんですか?」
「あのね。最近、あなたからは全然、感謝の気持ちも哀悼の意も感じられないですね。いや、最初からそうだったか。失敬。
でも、それにしたって限度がある。特にここ最近は、まるで無理矢理来ているみたいじゃないですか。みんな、あなたを助けてくれた恩人たちなんですよ。私は、これでも頼まれてあなたを案内しているんです」
「いい加減にしてくれ。なんで毎日帰るたびにお通夜に出席し、死人の顔を見て玄関に塩を撒かないといけないんだ。もう、玄関だって塩まみれじゃないか」
「じゃあ、今度が最後です。ここに行ってきてください」
「三谷家?」
「あなたと同じ名前です」
なんだか、いやな予感がした。だが、身内に何かがあった、という連絡はもらっていない。それに、探せばある名前だ。いつものように香典袋を受け取ると、そのまま市営会館に向かった。
いつものように、ネクタイを黒に替え、名刺と香典袋を受け付けに出す。このたびは、と遺族と目を合わせない。いや。合わせたほうがいいのだろうが、故人とは一面識もないに決まっている。全く悲しんでいないし義理もない人間という自覚はある。だから、余計に目線が下に集中してしまう。
だが、今日は違う。見たことのある遺族。見たことのあるホトケさんの顔。冷たい顔。作り物のようで、作り物ではない。見覚えのある顔。
これは、僕のお通夜だ。
いったいなんなんだ。僕が死んでいた。僕が。死んでしまったんだ!
その祭壇前を飛び出した。
「ちょっと」
見ると、駅前の男だ。
「どうしてくれるんだ。今日は僕のお通夜じゃないか。僕は死んでいたんだ。じゃ、僕は何なんだ。死んでいるのか?」
「まあ、三谷さん。落ち着いてください。今日のお通夜は、あなたであって、あなたじゃない」
「なにを言っているんだ。僕は死んでいるじゃないか」
「確かに、あなたは、リコール対象の欠陥車に跳ねられて死んでしまいました。でも、心配しないでください。あそこに寝ているあなたは、あなたではありません。たまたま、当たってしまった三谷さんです」
「ということは、僕は?」
「もちろん、まだ生きています。あなたの世界では、自動車会社のプログラマーが車載マイコンのバグを潰してくれているので、このような事故は起こっていませんでした。実は、他にもあなたに参列してもらいたかったお通夜もあったのですが、もう嫌だとおっしゃるので、最後のこちらにご案内いたしました。今は、別のあなたが『命の恩人』の葬儀に参列しているでしょう・・・」
それから、駅前に中年男が立っているのを見ることはなかった。きっと、もっと熱心に励んでくれる「僕」を見つけたのだろう。あるいは、次は僕の番ということ?
|