松井陽菜は31歳の会社員である。
国立市のマンションに住んでおり、彼氏はいるが独身。勤め先は大手町にある某大手製造業の本社で、現在は原材料調達に関する業務についている。給料は、同年代のビジネスパーソンとしては平均的な額である。朝9時から勤務し、残業も多いが、会社を出るのは午後7時ごろが一番多い。駅ナカやデパートの総菜売場で夕飯を買って帰ることもあるが、たいていは地元駅の近くのスーパーで食料品を買って自炊することが多い。
将来に備えて堅実に貯金をしている。外食をすることは少なく、恋人や友達は自宅に招いて手料理を振る舞うことが多い。恋人は、ある会社でIT関連の仕事をしている。内容はかなり高度な技術が必要で、とても忙しいようだが、やりがいを感じているようだ。彼女は、そろそろ結婚を考えており、恋人の方も同じように考えているようだが、やはり将来設計の不安があるのか、プロポーズはまだしてもらっていない。
そんな彼女が、いつも通りの時間に会社を出た。地下街を通って東京駅に着くと、おいしそうな匂いが漂ってくる。30メートルほど前方にある総菜売場の匂い
だ。香ばしく揚げられた春巻、ふっくらと炊きあがった中華おこわが特に香ってくる。どれも、彼女の帰宅時間を見計らったように、作りたての湯気を上げてい
る。
それまでは自宅に帰って自炊するつもりだった彼女は、おもわず総菜売場に吸い寄せられ、総菜を買ってしまった。本当は、もう少し旅行のために貯金をしたかったようだが、狙い澄ましたように始まったタイムセールが、彼女の購買決定に重要な一押しを加えたらしい。
出来立ての中華総菜を買った彼女は、次にドラッグストアで化粧水を見てみることにした。ちょうど、あと数回でなくなりそうだったからだ。いつもなら、ここ のドラッグストアを利用することは少ない。ドラッグストアの前のブースに立っている美容部員が、自然素材を使った新商品の化粧水を無料で提供した。ちょうど化粧水を買いたかった彼女は、さっそく試してみる。試供品も貰った。彼女の肌は乾燥肌なので、おそらく、新製品のサンプルを気に入るだろう。
ただ、彼女は手に取った商品の購買をやめようとした。では、もうちょっと容器のデザインは自然っぽいシンプルな感じではどうだろう?瓶がピンクのアールヌーボー調の装飾的な瓶ではなく、とてもシンプルな茶色の瓶に品の良いタイポグラフィで書かれたラベルというデザインであれば、彼女は満足したに違いない。ただ、今の瓶のデザインでも買う意向は相当高い。これなら、ネットで評判を見た後に評判が良ければ絶対に買うだろう。
彼女は電車に乗り込んだ。スマートフォンの画面をオンにした。車内広告はあまり見ないようだ。時々、いまどこを走っているのか確かめるために、動画ディスプレーを見ることがある。そこで、ついつい面白そうなイベントを見つけた彼女は、さっそくスマートフォンで検索をかけ、つぶやきをチェックした。けっこう
面白いらしい。その情報をメールで彼氏に送り、次の週末のデート場所として聞いてみることにした。たとえば、これが食品のCMだったら、あまり今日は響かなかっただろう。なぜならば、すでに総菜を買っているので、食べ物に対する関心は大きく下がっているからだ。
また、貯金をもっと増やそうと思っている彼女に対して、ちょっと高額なものをCMで流したとしても、購買には結びつかなかっただろう。化粧品も、同様に今回は響かなかったと思われる。なぜなら、すでに他に買いたいブランドが決まっていたからだ。彼女は彼氏からのメールを確認すると、さっそくオンラインでチケットを予約した後、そのデータをカレンダーに反映させた・・・。
「じゃあ、そろそろ止めてみようか」
彼女は、スマートフォンに目を落としたまま、硬直した。
指も動かず画面も動かず、周りの乗客も、彼女を乗せた列車も、息もしていなかった何もかもが止まり、
「で、どうなの。シミュレーションの結果は?」
どこからか中年男性の声が聞こえた。
それは、小綺麗な南青山のブランド街にほど近いオフィスの中だった。壁一面には、東京近郊の地図や写真、プリントアウトされたファッション情報が貼ってあった。
「そ
うですね。化粧品のサンプリングのポイント候補である「ビルのエントランス」「駅前の横断歩道前」「駅構内惣菜売り場前」「駅構内ドラッグストア前」の中
では、ドラッグストア前に設定するのが最も数値が高く、購買確率を14%ほど押し上げられました。特に、今の駅構内の売場は、上質な商品への消費マインド
を高める部分に注力しているので、それらの洗礼を受けた後ならば、かなり受容性が高まることが確認できました」
デスクのほぼ半分を占めるほどの大きな箱型ワークステーションの前で、シミュレーションデータを分析していた若い男性社員が答えた。
「そして試供品を出すのはイエスです。あと、パッケージデザインも変更しましょう。最初のA案よりも、シンプルなB案
の方が確率を11%ほど押し上げられました。ここまで購買意欲を上げられれば、競合の広告を見ても、該当製品への興味は変化しません。すべての施策を実施
すれば最大で売り上げは42%ほど向上できる可能性がありました。現在までの化粧品・トイレタリーカテゴリーにおけるシュミレーション結果61件における
誤差から考えますと、±8%ほどぶれる可能性もありますが、最もネガティブな予測でも十分な売上向上効果は得られます。投資対効果から見ると、サンプルを
配る都内34地点のうち、効果の低い下位5カ所を削っても良いかもしれません。売上は3%減少しますが、純利益は4%上がります」
「そ
うか。それは素晴らしい。では前提条件が変わる前に、さっそく来週から、そのシミュレーション結果を元にプロモーションを展開しようか。ただ、瓶のデザイ
ン変更だけが難題だね。工場の手配も必要だけど、何より本部長のお気に入りだったから。シミュレーション結果をまとめてもられるかな。そのデータを見て、
変更するかしないか決めるよ」
松井陽菜は、そこで役目を終えたのだった。
しかし、彼女は死なない。
凍りついた時間は、再び巻き戻り、また全く同じ行動を繰り返す。
今度は新手の美容器具で、販路はネット通販だそうだ。また、いつもの通り会社から帰り、スマートフォンを電車の中で広げて、友達が最近買ったという美容器具をチェックする。帰り道か、もしくは帰宅後にオーダーするのだろうか。彼女の日常は終わらない。
この箱の中には、松井と同じように生活を送っているシミュレーションモデルが、少なくとも500万人分は存在し、稼いだり消費したりしている。
「しかし、マーケティングもずいぶん進歩したものだ。一昔前なら人間が張り付いて客の行動を観察したりしなければいけなかったのに、今ではすべての仮説をコンピュータ上でシミュレートできる。こんなことは、ちょっと前のスーパーコンピュータですら出来なかっただろうに」
マーケティング会社の社長は、ディスプレーを覗き込みながら、最新のシミュレーションデータを眺めている。
「と
は言いましても、実績があり有用なデータを導き出せるシミュレーションモデルがあり、かつ絶えず様々な情報をアップデートし続けなければ、いくらコン
ピュータがあっても何もできません。そう考えてみると、本質的には人間が張り付いて面倒を見ていることには変わりはないのかもしれませんね」
若手社員は、今日はこっそり遅くまでオフィスにいる予定である。
現実世界の松井陽菜が、彼のどんなプロポーズなら受け入れてくれるか、考えてきたプランすべてを、前もってシミュレートするために。
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